「シャルマネセル5世」の版間の差分
en:Shalmaneser Vから挿絵を移植 |
→来歴: 脚注の和訳 |
||
32行目: | 32行目: | ||
[[ティグラト・ピレセル3世]]の子として生まれた。父王の治世にはジミッラ (zimirra) 州の長官を務めていた。 |
[[ティグラト・ピレセル3世]]の子として生まれた。父王の治世にはジミッラ (zimirra) 州の長官を務めていた。 |
||
ティグラト・ピレセル3世の死に伴い、[[紀元前727年]]のテヴェトの月の25日に王位を継ぐ<ref>{{EB1911|noprescript=1|title=Shalmaneser | url = https://archive.org/stream/encyclopaediabri24chisrich#page/798 | first = Archibald Henry | last = Sayce | authorlink = Archibald Sayce | page = 798 | volume = 24}}</ref>。王位継承に伴い、それまで用いていた「ウルラユ」という名前を、アッカド語の名前に改名している。バビロン王としては依然ウルラユの名を使い続けたという説もあるが、公式な記録には残されていない<ref>{{Cite book|title=Babylonia 689-627 B.C.|year=2007|publisher=The Netherlands Institute for the Near East|last=Frame|first=Grant|issn=1571-5728|isbn=978-90-6258-069-9|date=|pages=303-304}}</ref>。 |
ティグラト・ピレセル3世の死に伴い、[[紀元前727年]]のテヴェトの月の25日に王位を継ぐ<ref>{{EB1911|noprescript=1|title=Shalmaneser | url = https://archive.org/stream/encyclopaediabri24chisrich#page/798 | first = Archibald Henry | last = Sayce | authorlink = Archibald Sayce | page = 798 | volume = 24}}<br> |
||
(『ブリタニカ百科事典(第11版)』(編:ヒュー・チザム、ケンブリッジ大学出版、1911年)第24巻p.798に収録されている『シャルマネセル』(著:[[アーチボルド・セイス]]))</ref>。王位継承に伴い、それまで用いていた「ウルラユ」という名前を、アッカド語の名前に改名している。バビロン王としては依然ウルラユの名を使い続けたという説もあるが、公式な記録には残されていない<ref>{{Cite book|title=Babylonia 689-627 B.C.|year=2007|publisher=The Netherlands Institute for the Near East|last=Frame|first=Grant|issn=1571-5728|isbn=978-90-6258-069-9|date=|pages=303-304}}</ref>。 |
|||
[[旧約聖書]]「[[列王記]]」において、シャルマネセル5世は、サマリア占領と後の[[アッシリア捕囚]]を引き起こした人物として記載されている。すなわち、列王記第17章及び第18章によれば、シャルマネセル5世は、[[イスラエル王国|イスラエル]]王[[ホセア (イスラエル王)|ホシェア]]に対し、エジプト王{{仮リンク|オソルコン4世|en|Osorkon IV}}に書状を送り、シャルマネセル5世に対する反乱を共謀したとの疑いをかけ、ホシェアを捕えた。エジプトは、当時アッシリアの[[付庸国]]に支配されていたイスラエルに拠点を設けたいと考え、付庸国の王たちがアッシリアに反乱を起こすようにそそのかし、軍事的支援を行った<ref>{{cite book|first=Georges|last=Roux|title=Ancient Iraq|edition=Third|year=1992|publisher=Penguin|ISBN=9780140125238|pages=310–312|date=}}</ref>。シャルマネセル5世はサマリアを3年間包囲したのちに、最終的にサマリアを占領した<ref group="注釈">紀元前722年のシャルマネセル5世の死によりこの包囲戦は中断されたとする文献もある(三笠宮崇仁「キッティーム論考-2(完)-」(東京女子大学『史論』第6号 p.361-380)370ページ参照)</ref>。シャルマネセル5世がアッシリアへと連れ去ったイスラエルの部族は、(ティグラト・ピレセル3世が連れ去った部族と合わせて)「[[失われた10部族]](Ten Lost Tribes)」と呼ばれる。 |
[[旧約聖書]]「[[列王記]]」において、シャルマネセル5世は、サマリア占領と後の[[アッシリア捕囚]]を引き起こした人物として記載されている。すなわち、列王記第17章及び第18章によれば、シャルマネセル5世は、[[イスラエル王国|イスラエル]]王[[ホセア (イスラエル王)|ホシェア]]に対し、エジプト王{{仮リンク|オソルコン4世|en|Osorkon IV}}に書状を送り、シャルマネセル5世に対する反乱を共謀したとの疑いをかけ、ホシェアを捕えた。エジプトは、当時アッシリアの[[付庸国]]に支配されていたイスラエルに拠点を設けたいと考え、付庸国の王たちがアッシリアに反乱を起こすようにそそのかし、軍事的支援を行った<ref>{{cite book|first=Georges|last=Roux|title=Ancient Iraq|edition=Third|year=1992|publisher=Penguin|ISBN=9780140125238|pages=310–312|date=}}</ref>。シャルマネセル5世はサマリアを3年間包囲したのちに、最終的にサマリアを占領した<ref group="注釈">紀元前722年のシャルマネセル5世の死によりこの包囲戦は中断されたとする文献もある(三笠宮崇仁「キッティーム論考-2(完)-」(東京女子大学『史論』第6号 p.361-380)370ページ参照)</ref>。シャルマネセル5世がアッシリアへと連れ去ったイスラエルの部族は、(ティグラト・ピレセル3世が連れ去った部族と合わせて)「[[失われた10部族]](Ten Lost Tribes)」と呼ばれる。 |
2019年11月2日 (土) 09:55時点における版
シャルマネセル5世 | |
---|---|
アッシリア王 | |
プロンプトゥアリ・イコノム・インシギオルム (ギヨーム・ルイエ, 1553年)に収録されているシャルマネセル5世の挿絵 | |
在位 | 紀元前727年 - 紀元前722年 |
死去 |
紀元前722年 |
王朝 | バビロン第10王朝 |
父親 | ティグラト・ピレセル3世 |
シャルマネセル5世(Shalmaneser V[注釈 1]、在位:紀元前727年 - 紀元前722年)は、新アッシリア王国時代のアッシリア及びバビロンの王である。アッカド語ではシャルマヌ・アシャレド (Shulmanu asharid) と表記される。名前の意味は「シャルマヌ神は至高なり」である。
来歴
ティグラト・ピレセル3世の子として生まれた。父王の治世にはジミッラ (zimirra) 州の長官を務めていた。
ティグラト・ピレセル3世の死に伴い、紀元前727年のテヴェトの月の25日に王位を継ぐ[1]。王位継承に伴い、それまで用いていた「ウルラユ」という名前を、アッカド語の名前に改名している。バビロン王としては依然ウルラユの名を使い続けたという説もあるが、公式な記録には残されていない[2]。
旧約聖書「列王記」において、シャルマネセル5世は、サマリア占領と後のアッシリア捕囚を引き起こした人物として記載されている。すなわち、列王記第17章及び第18章によれば、シャルマネセル5世は、イスラエル王ホシェアに対し、エジプト王オソルコン4世に書状を送り、シャルマネセル5世に対する反乱を共謀したとの疑いをかけ、ホシェアを捕えた。エジプトは、当時アッシリアの付庸国に支配されていたイスラエルに拠点を設けたいと考え、付庸国の王たちがアッシリアに反乱を起こすようにそそのかし、軍事的支援を行った[3]。シャルマネセル5世はサマリアを3年間包囲したのちに、最終的にサマリアを占領した[注釈 2]。シャルマネセル5世がアッシリアへと連れ去ったイスラエルの部族は、(ティグラト・ピレセル3世が連れ去った部族と合わせて)「失われた10部族(Ten Lost Tribes)」と呼ばれる。
紀元前722年にシャルマネセル5世は死去した。シャルマネセル5世については王碑文が残っていない上に他の史料にもほとんど登場せず、治世についての情報は少ない[4][注釈 3]。
注釈
- ^ アッカド語: Šulmanu-ašarid; ヘブライ語: שַׁלְמַנְאֶסֶר;ラテン文字転写:Šalman’eser}; ギリシア語: Σαλαμανασσαρ Salamanassar; ラテン語: Salmanasar
- ^ 紀元前722年のシャルマネセル5世の死によりこの包囲戦は中断されたとする文献もある(三笠宮崇仁「キッティーム論考-2(完)-」(東京女子大学『史論』第6号 p.361-380)370ページ参照)
- ^ サルゴン2世の即位の経緯を示した「アッシュル神の認可状」においては、シャルマネセル5世が諸都市への免税特権を廃止し課税したことが記載されている(青島忠一朗「新アッシリア時代の王碑文における王の自己表象の変遷 「前史」 の考察を手がかりに」(『オリエント』2015年57巻2号 p.16-28)20ページ参照)
出典
- ^ Sayce, Archibald Henry (1911). "Shalmaneser". In Chisholm, Hugh (ed.). Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 24 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 798.
(『ブリタニカ百科事典(第11版)』(編:ヒュー・チザム、ケンブリッジ大学出版、1911年)第24巻p.798に収録されている『シャルマネセル』(著:アーチボルド・セイス)) - ^ Frame, Grant (2007). Babylonia 689-627 B.C.. The Netherlands Institute for the Near East. pp. 303-304. ISBN 978-90-6258-069-9. ISSN 1571-5728
- ^ Roux, Georges (1992). Ancient Iraq (Third ed.). Penguin. pp. 310–312. ISBN 9780140125238
- ^ D. D. Luckenbill (April 1925). “The First Inscription of Shalmaneser V”. The American Journal of Semitic Languages and Literatures 41 (3): 162-164. doi:10.1086/370064.
|
|
|