「石原裕次郎」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
→‎交友: 誤字の修正
117行目: 117行目:
* 裕次郎と同じ12月28日生まれの[[渡哲也]]は日活所属だった際、1970年の映画『[[ある兵士の賭け]]』による石原プロの倒産危機を知ると、貯金全額180万円を差し出した。裕次郎が気持ちだけは頂くというと、石原プロ入りを志願した<ref>[<!-- https://www.fnn.jp/posts/00337930HDK -->https://sp.fnn.jp/posts/00337930HDK 「彼は闘えないと思った…」妻が語る“昭和の大スター”石原裕次郎の素顔] - FNN.jpプライムオンライン 2018年7月19日</ref><ref>[http://www5.nikkansports.com/entertainment/yujiro/archives/20090704_80997.html (24)石原軍団、今でも映画製作の夢(裕次郎とともに)] - nikkansports.com 2009年7月4日</ref>。
* 裕次郎と同じ12月28日生まれの[[渡哲也]]は日活所属だった際、1970年の映画『[[ある兵士の賭け]]』による石原プロの倒産危機を知ると、貯金全額180万円を差し出した。裕次郎が気持ちだけは頂くというと、石原プロ入りを志願した<ref>[<!-- https://www.fnn.jp/posts/00337930HDK -->https://sp.fnn.jp/posts/00337930HDK 「彼は闘えないと思った…」妻が語る“昭和の大スター”石原裕次郎の素顔] - FNN.jpプライムオンライン 2018年7月19日</ref><ref>[http://www5.nikkansports.com/entertainment/yujiro/archives/20090704_80997.html (24)石原軍団、今でも映画製作の夢(裕次郎とともに)] - nikkansports.com 2009年7月4日</ref>。
* 関町進は、石原プロの車両部として作品に携わり、石原の逝去前まで付き人兼運転手を務めた<ref>太平洋の果実 第2部 石原裕次郎の贈りもの([[PHP研究所]]) [[増田久雄]]</ref>。
* 関町進は、石原プロの車両部として作品に携わり、石原の逝去前まで付き人兼運転手を務めた<ref>太平洋の果実 第2部 石原裕次郎の贈りもの([[PHP研究所]]) [[増田久雄]]</ref>。
* [[大橋巨泉]]とは映画「[[嵐を呼ぶ男]]」で裕次郎がドラムを叩くシーンでの演技始動で知り合い、当時大橋は[[ジャズ]]評論家・[[放送作家]]という立場だった。しかしお互い昭和9年生まれ(大橋は早生まれ)という繋がりで意気投合。その後「こんばんは裕次郎です」というバラエティー番組で開始途中から構成作家として参加し、テコ入れに成功した。番組終了後も交流を続け、昭和49年限りで引退した長嶋茂雄引退特番が日本テレビで生放送し、大橋は「[[11PM]]」の司会者に転身してて裕次郎は長嶋と親交があるので、特別出演として大橋と再会した。
* [[大橋巨泉]]とは映画「[[嵐を呼ぶ男]]」で裕次郎がドラムを叩くシーンでの演技指導で知り合い、当時大橋は[[ジャズ]]評論家・[[放送作家]]という立場だった。しかしお互い昭和9年生まれ(大橋は早生まれ)という繋がりで意気投合。その後「こんばんは裕次郎です」というバラエティー番組で開始途中から構成作家として参加し、テコ入れに成功した。番組終了後も交流を続け、昭和49年限りで引退した長嶋茂雄引退特番が日本テレビで生放送し、大橋は「[[11PM]]」の司会者に転身してて裕次郎は長嶋と親交があるので、特別出演として大橋と再会した。


=== その他のエピソード ===
=== その他のエピソード ===

2019年7月21日 (日) 15:05時点における版

いしはら ゆうじろう
石原 裕次郎
石原 裕次郎
本名 石原 裕次郎
生年月日 (1934-12-28) 1934年12月28日
没年月日 (1987-07-17) 1987年7月17日(52歳没)
出生地 日本の旗 日本 兵庫県神戸市須磨区
死没地 日本の旗 日本 東京都新宿区信濃町慶應義塾大学病院
民族 日本人
身長 178 cm
血液型 A型
職業 俳優歌手声優司会者モデル実業家ヨットマンマルチタレント
活動期間 1956年 - 1987年
活動内容 1956年:『太陽の季節』でデビュー。
配偶者 石原まき子(北原三枝)
著名な家族 父:石原潔
母:石原光子
兄:石原慎太郎
公式サイト 石原裕次郎/石原プロモーション
主な作品
映画
太陽の季節
狂った果実
嵐を呼ぶ男
銀座の恋の物語
テレビドラマ
太陽にほえろ!
大都会』シリーズ
西部警察』シリーズ
 
受賞
ブルーリボン賞
新人賞
1957年『勝利者』
企画賞
1964年太平洋ひとりぼっち
その他の賞
石原裕次郎賞(追悼創設)
映画の殿堂(1990年)
毎日映画コンクール(特別賞:死後)
テンプレートを表示

石原 裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年昭和9年)12月28日 - 1987年昭和62年)7月17日)は、昭和時代を代表する俳優歌手声優であり、司会者モデルといったマルチタレント実業家ヨットマンとしても活動していた。身長178cm。血液型はA型。愛称はタフガイ・裕ちゃん・ボス・ユージロー石原プロモーション元代表取締役社長(初代)兼会長。

兄は政治家小説家石原慎太郎

来歴

概要

兵庫県神戸市須磨区で生まれ、北海道小樽市神奈川県逗子市に育つ。父・石原潔(山下汽船社員)は愛媛県、母・光子は広島県宮島の出身[1][2]

マリア幼稚園(現在の小樽藤幼稚園)卒園、稲穂国民学校時代に競泳天狗山スキーに親しむ。逗子中学校時代からはバスケットボールに熱中した。その後、慶應義塾高等学校を目指すが受験に失敗し、慶應義塾農業高等学校に籍を置くが、1951年に慶應義塾高等学校に編入学。卒業後は慶應義塾大学法学部政治学科に内部進学するが、放蕩生活に明け暮れる。

大学在学中から、俳優を目指し東宝大映日活のオーディションを受けるも全て不合格。しかし1956年に、映画プロデューサー水の江瀧子と兄・慎太郎の推薦があって、慎太郎の芥川賞受賞作『太陽の季節』の映画化の端役で映画デビュー。その後、慶應義塾大学を中退して日活に入社。『太陽の季節』に続いて製作された、同じく慎太郎原作の映画化作品『狂った果実』では、後に妻となる北原三枝を相手役に主演。その後は歌手・俳優として活躍し、主演映画が連続ヒットし、瞬く間に昭和を代表する日本最高のスターの一人となったが、ケガや病気に苦しんだ一生でもあった。1963年に石原プロモーションを設立。1970年代以降は映画から離れ『太陽にほえろ!』、『大都会』などテレビドラマで活躍した。戒名は陽光院天真寛裕大居士。万成石五輪塔神奈川県横浜市鶴見区にある總持寺に立てられている。墓碑には妻直筆で次のような言葉で綴られている。

美しき者に微笑を、淋しき者に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く。

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・男優編」で日本男優の2位、同号の「読者が選んだ20世紀の映画スター男優」では第6位になった。

2018年7月17日に行われた32回忌法要では、妻である石原まき子舘ひろし神田正輝ら石原プロモーションの俳優たちとファン約600人が参列。法要終了後には、同年8月22日より2年間全国8箇所を巡り石原裕次郎ゆかりの品々を展示する、「石原裕次郎の軌跡」展を開催することを発表した[3]

ケガ・病気の遍歴

  • 1952年 - バスケットボールの最中に左足膝に大ケガ。
  • 1956年 - この頃まで、酒とたばこと女に溺れる日々を送る。幼少時代から肝臓は悪かったといわれている(高校生の頃に黄疸を発症したことがある)。
  • 1957年 - 自由が丘無免許運転し右足打撲。また映画ロケ中にデッキチェアーに手を挟み右手薬指負傷。
  • 1961年 - 志賀高原スキー場でスキーヤーと衝突し右足首粉砕複雑骨折(後に右太股腫性膿瘍の手術で入院。
  • 1964年 - ハワイでヨット乗船中に右まぶたを11針縫う。
  • 1965年 - ヨット乗船中に腹痛のため大会を途中断念。
  • 1967年 - 映画黒部の太陽撮影時に出水事故に合う。意識を失い、右手親指を骨折し、指の指紋は全部消え、左足を激しく痛めるなど、大怪我をした。
  • 1968年 - 右足打撲で全治1か月入院。
  • 1971年 - 心労胸部疾患(後に急性肺炎肺結核と判明)のため映画宣伝中に入院。
  • 1974年 - 階段で転倒し左肩打撲(後に左鎖骨骨折と判明)。
  • 1978年 - 舌下潰瘍のため入院・手術。その後悪性腫瘍舌癌)との診断を受けたが、石原本人には告知されなかった(1983年再発)。
  • 1979年 - 舌下白板症と診断され、術後部に潰瘍が出来たため再手術し退院。
  • 1981年4月 - 『西部警察』のロケ撮影中、背中と胸に激痛が走り慶應義塾大学病院に緊急入院。当初椎間板ヘルニアが疑われたが、その後解離性大動脈瘤と診断され(後に右耳が難聴となる)大手術を決行。生還率3%と言われたが、手術後、奇跡的な回復を遂げ無事退院(見舞い客は1万2,000人、手紙5,000通、花束2,000束、千羽鶴1,000束、さらには石原の車のボディーにも励ましのメッセージを書く人もあった)。退院後も首、腰の痛み、発熱が続いた。
  • 1984年 - 肝臓癌が発覚し、倦怠感・腰痛の末、原因不明の発熱にいたる(前の定期健診で肝細胞癌と診断されるが、裕次郎本人には最期までガン告知せず)。
  • 1986年5月 - 高熱が続くため慶應義塾大学病院に入院。血圧降下剤の副作用による肝内胆管炎と診断。7月に退院後はハワイで静養。
  • 1987年4月20日 - ハワイから急遽帰国、直後に慶應義塾大学病院へ検査入院[注釈 1]。5月2日に一旦退院した(カテーテル治療)ものの、3日後に再入院、容態悪化(高熱)、ついには幻覚症状(肝性脳症)を発する。その後意識不明の状態が続き、7月17日15時43分、医師が臨終を告げ7分後心停止するも、酸素吸入により一度は心拍が再開する。しかし16時26分再度心停止し、死去。52歳だった。

エピソード

人物

(以下、呼称については「裕次郎」と記載)

映画デビューについて

  • 父が亡くなった頃にショックから自暴自棄になった裕次郎は、家から金目の物を持ち出しては換金し、その金で銀座などへ繰り出す遊行三昧の日々を送り、兄・石原慎太郎から心配された。そんな頃に兄は水の江瀧子より『太陽の季節』の映画化を促されたため、「裕次郎って弟がいるんだけど、遊び人でどうしょうもない奴で…弟を出してくれるんなら」という条件を提示した。瀧子はその条件を呑み、裕次郎は同作品で俳優デビューし、脇役ではあったが主演格に匹敵するダイナミックな存在感で注目されることとなる。裕次郎本人は「太陽の季節」への出演は至って遊び感覚で、迎えの車に乗り初めて日活撮影所へ降り立った時は素肌にヨット・パーカーを羽織り、海水パンツゴム草履履きといったいでたちに、その場に居合わせた宍戸錠小林旭は「何だ!ありゃあ?!?」と仰天したという(テレビでの小林旭談[出典無効])。
  • 1956年3月28日、日活撮影所内の理容室で『太陽の季節』の撮影に際し、太陽族に扮する連中の「慎太郎刈り」のモデルを引き受けたのが日活での初仕事であった[4]
  • 『太陽の季節』のカメラマンを務めた伊佐山三郎は水の江瀧子を呼びエキストラとしてファインダーに映っていた裕次郎を「阪妻がいる」と絶賛。急遽端役が与えられ映画デビューとなった[5]
  • 『狂った果実』が映画化されることとなり、シナリオを書き上げるため有楽町の日活ホテルに缶詰状態だった兄は左手で書くのは早かった。しかし読み難かったため裕次郎が「俺が清書しなきゃあ誰も読めない!」と付きっ切りで清書しながらも自身が演ずる役のセリフを少なくするよう慎太郎に催促するという具合であった。だが兄弟で一つの仕事を成し終えるその姿に世間は「太陽族の美しい兄弟愛」と褒め称えた。

仕事に対する姿勢

  • 俳優業について、しばしば「男子一生の仕事にあらず」と語っていた。
  • セリフ覚えが悪いことで知られ、開いた状態の台本を机の中に置いて演技を行ったこともあったが、その分、NGを出すことはほとんどなかったともいわれる。
  • ロケ先などで女学生に囲まれサインをねだられても断ることが多かった。理由は「真っ白な紙に名前だけ書いて渡すなんて試験の答案のようなもの」であることから[6]
  • 銀座の恋の物語」、「二人の世界」、「夜霧よ今夜も有難う」などの数々のヒット曲がある裕次郎だが、『紅白歌合戦』には1957年第8回雪村いづみの応援ゲストとして出演したことはあるものの、歌手としては生涯出場しなかった。「歌は素人」という理由で毎年、歌手としての出場を辞退していたといわれている。
  • ヒット曲を多数持つスター歌手が他人の持ち歌をカバーすることに消極的だった時代に、積極的に他人の持ち歌(当時のヒット曲や古い流行歌など)をレコードに吹き込んだ。ただ一曲、梶芽衣子の「怨み節」のカバーについては断られたという[7]

性格

  • 性格として今で言う体育会系の気質があり、車の中や外、店の隅(外)・店内で運転手を待たせることや、自分の車の中に1人でも人が残ることを嫌っていたという[8]。また人前で食事をすることも嫌っていた。
  • 困っていることがあると自ら率先して動くタイプであった。また、「人の悪口は絶対に口にするな、人にしてあげたことはすぐ忘れろ、人にして貰ったことは生涯(一生)忘れるな。」というポリシーを持っていた。
  • スポーツ界や政財界などを問わず広い交友関係を楽しんだ人物で、誰かに会ったときは必ず、上下関係分け隔てなく、あいさつのときは立ち上がり、握手をするという礼儀正しさでもよく知られていた。
  • 気遣いのできる優しい性格と豪快な人柄から石原プロモーション所属の俳優達からはもちろん、『西部警察』で共演した三浦友和および柴俊夫らからも『石原社長』と呼ばれていた。さらに石原プロが倒産の危機のときには家のない社員全員に家を建ててプレゼントとしたことがある。また、現在でも石原プロのイベントなどで名物となっている炊き出しは、裕次郎が考案したものである。

趣味・嗜好

  • 食べることが好きで、懐石料理・カレーライスビーフステーキ葉山コロッケ等を好み、和洋中問わず好物は多かった。また、料理好きでもあり、別荘ヨットハーバーバーベキューや手弁当を楽しんだ。嫌いな物は鶏肉だったという。大病後は妻の食事管理の下玄米パン野菜サラダのみの生活を送っていたという。また晩年には毎日30錠の薬を規則正しく服用し、食事制限(特に塩分制限6グラム、小さじ1杯)も実行したとも言われる。
  • チェーンスモーカーであり、また大病を患う前は、休暇中には朝食にビールを飲むほどの酒豪であった。撮影所には、「ビールは酒ではない、水である」という名分で冷蔵庫が置かれていた。また、赤坂東急ホテルのバーカウンター端の席で飲んで、その後飲食街に繰り出すことが多かった。大動脈瘤手術後は身内のパーティではビールをコップ1杯程度にしていたといわれ、喫煙も控えていたが、甥の良純によるとハワイの別荘で夫人の目を盗んでの「お相伴」に付き合わされたという。
  • デビューの頃からオーダーメイドで衣装を仕立てていたのは遠藤千寿(私服が3000着ほど、トータルで5000着ほど作ったという[9][10])。ジャケットの裏地からポケットなどまで、裕次郎がデザインして指定。ワイシャツの襟の高さは5.5cm程度のハイカラー(一般的なものは4cm)を好んだという[11]
  • 兄の影響により、ヨットにかける情熱は俳優活動よりも強かったともいわれる。
  • 日本では力道山夏木陽介と裕次郎の3人だけと言われるメルセデス・ベンツ・300SL(〈W198〉ガルウィングクーペのオーナーだった。一部勘違いで三橋美智也も所有と書かれることがあるが190SLの誤りである。シートは深紅。車体はシルバー[注釈 2])を所有していたほか、ロールス・ロイス・シルヴァースピリットキャデラックなど複数の高級車を所有するカーマニアであった。

交友

  • 勝新太郎とは家族ぐるみの付き合いで[12]、互いを「兄弟」と呼び合った仲。裕次郎の葬儀で友人代表の弔辞も読んだ[13][14]
  • 高倉健とは同時期にデビューし、共演経験が無かったがお互いの結婚式に呼ぶなど親交があり、お互いに「裕ちゃん」「健さん」と呼びあう仲だった。
  • 1学年下の長嶋茂雄とは、巨人入団前に対談の企画で出会った。対面を重ねるうち、親交を深め、1959年には裕次郎が応援歌「男の友情 背番号3」の制作を考え、歌唱した。1962年1月には雑誌の企画で、前年結婚したまき子夫人を含めて米国を旅行した[15]
  • 裕次郎と同じ12月28日生まれの渡哲也は日活所属だった際、1970年の映画『ある兵士の賭け』による石原プロの倒産危機を知ると、貯金全額180万円を差し出した。裕次郎が気持ちだけは頂くというと、石原プロ入りを志願した[16][17]
  • 関町進は、石原プロの車両部として作品に携わり、石原の逝去前まで付き人兼運転手を務めた[18]
  • 大橋巨泉とは映画「嵐を呼ぶ男」で裕次郎がドラムを叩くシーンでの演技指導で知り合い、当時大橋はジャズ評論家・放送作家という立場だった。しかしお互い昭和9年生まれ(大橋は早生まれ)という繋がりで意気投合。その後「こんばんは裕次郎です」というバラエティー番組で開始途中から構成作家として参加し、テコ入れに成功した。番組終了後も交流を続け、昭和49年限りで引退した長嶋茂雄引退特番が日本テレビで生放送し、大橋は「11PM」の司会者に転身してて裕次郎は長嶋と親交があるので、特別出演として大橋と再会した。

その他のエピソード

  • 1960年、日本の芸能界で初めて記者会見を開いた[19][出典無効]。当時は同じ映画会社の所属でスター同士の恋愛がタブーだった時代で、マスコミに騒がれたことに嫌気を差して後の妻まき子である北原三枝とともにアメリカに逃れていたが、元日活社長堀久作の説得に応じ帰国、羽田空港の控え室で会見に応じたのが記者会見の第一号とされる。ちなみに芸能界の記者会見の第二号も、その10ヶ月後に開いた二人の結婚会見だとされる。
  • 1961年の大けがの際、赤木圭一郎の訃報の直後に入院していたため、アメリカ支配権下時代沖縄琉球放送が偽の訃報を流すというハプニングがあった。
  • 1965年には國粹会ピストル密輸事件に絡み家宅捜索を受け、後に銃刀法違反で有罪となる。
  • 甥の(兄・慎太郎の三男)石原宏高を養子にしたがっていたとも伝えられる。
  • 毎年正月には石原プロモーション所属俳優や交友のある有名人とともにハワイで過ごすのが恒例となっており、その様子は正月特番でも放映された。「正月をハワイで過ごす芸能人」の先駆けとなった人物でもある。
  • 志賀高原スキー場での負傷後、療養を兼ねて信玄の隠し湯として知られる下部温泉下部ホテル」の別館に妻とともに滞在していた。この別館は裕次郎によって「裕林亭」と名付けられ、現在も客間として提供されている。
  • 主演した『赤い波止場』はジャン・ギャバン主演の、日本で特に人気が高いフランス映画の名作『望郷』が元ネタである。『赤い波止場』のリメイクである渡哲也主演の『紅の流れ星』も『望郷』を手本にしている作品であるが、主人公像はギャバンではなくてゴダール『勝手にしやがれ』のジャン・ポール・ベルモンドがモデルである。これは国民的ヒーローのギャバン=裕次郎と、アウトローなベルモンド=渡という主演スターのイメージや個性・持ち味の違いからきている[20][21]
  • 1962年、渡米した時「夢の渚」を撮影中のエルビス・プレスリーと対面した。2人が談話している写真が残されている。
  • 兄、慎太郎が政界入りすると慎太郎の応援演説を行った。また自民党橋本登美三郎は裕次郎を慕っており石原プロモーションが抱えていた借金を全額肩代わりするから参議院選挙に出馬しないかと要請したが裕次郎は断っている。

その他

1980年1月に成城の自宅(上神明遺跡内)において、古墳時代の遺跡、土器が発見されたこともある。それが歴史的大発見で話題になった。石原プロモーション所属俳優だった苅谷俊介は、石原邸の遺跡発見がきっかけとなって考古学に目覚め、同社を退社して考古学研究の道に踏み出すこととなった[22]

家族・親族

小樽にて家族写真
(左から父・潔、裕次郎、母・光子、兄・慎太郎

石原家

愛媛県松山市八幡浜市大洲市兵庫県神戸市須磨区北海道小樽市神奈川県逗子市東京都
1899年明治32年)12月生 - 1951年昭和26年)10月没
  • 母・光子
1909年明治42年)9月生 - 1992年平成4年)6月没
1932年昭和7年)9月生 -
1933年(昭和8年)7月生 -

裕次郎は良家の子弟というイメージがあるが、父・潔は山下汽船のサラリーマンであり、旧制中学も出ていない身から叩き上げて関連会社役員にまで出世した人物である。累代の名家とも、一代の商才で財を成した新興富裕層とも異なる、戦後の新興中流階級に属する。

略系図

         石原潔━光子
           ┣━━━━━━━━━━━━━┓
       石原慎太郎━典子         石原裕次郎━まき子
           ┃
           ┣━━━━━┳━━━━━┳━━━━━┓
        石原伸晃  石原良純  石原宏高   石原延啓

出演

映画

  • 太陽の季節』(古川卓巳監督、1956年5月17日公開、日活、伊豆役)
  • 狂った果実』(中平康監督、1956年7月12日公開、日活、滝島夏久役)
  • 乳母車』(田坂具隆監督、1956年11月13日公開、日活、相沢宗雄役)
  • 地底の歌』(野口博志監督、1956年12月12日公開、日活、ダイヤモンド冬役)
  • 月蝕』(井上梅次監督、1956年12月19日公開、日活、松木役)
  • 『若ノ花物語』(森永健次郎監督、1956年12月26日公開、日活)
  • 『人間魚雷出撃す』(古川卓巳監督、1956年12月26日公開、日活、黒崎中尉役)
  • 『お転婆三人姉妹 踊る太陽』(井上梅次監督、1957年1月1日公開、日活、大助君役)
  • 『ジャズ娘誕生』(春原政久監督、1957年4月3日公開、日活、南条春夫役)
  • 『勝利者』(井上梅次監督、1957年5月1日公開、日活、夫馬俊太郎役)
  • 『今日のいのち』(田坂具隆監督、1957年6月26日公開、日活、岩本岩次郎役)
  • 幕末太陽傳』(川島雄三監督、1957年7月14日公開、日活、高杉晋作役)
  • 海の野郎ども』(新藤兼人監督、1957年8月20日公開、日活、千鳥松役)
  • 鷲と鷹』(井上梅次監督、1957年9月29日公開、日活、千吉役)
  • 『俺は待ってるぜ』(蔵原惟繕監督、1957年10月20日公開、日活、島木譲次役)
  • 『峠』(齋藤武市監督、1957年11月5日公開、日活)
  • 嵐を呼ぶ男』(井上梅次監督、1957年12月28日公開、日活、国分正一役)
  • 『心と肉体の旅』(舛田利雄監督、1958年1月9日公開、日活)
  • 『夜の牙』(井上梅次監督、1958年1月15日公開、日活、杉浦健吉役)
  • 錆びたナイフ』(舛田利雄監督、1958年3月11日公開、日活、橘役)
  • 陽のあたる坂道』(田坂具隆監督、1958年4月15日公開、日活、田代信次役)
  • 明日は明日の風が吹く』(井上梅次監督、1958年4月29日公開、日活、松山健次役)
  • 『素晴しき男性』(井上海次監督、1958年7月6日公開、日活、団武男役)
  • 『風速40米』(蔵原惟繕監督、1958年8月12日公開、日活、滝颯夫役)
  • 赤い波止場』(舛田利雄監督、1958年9月23日公開、日活、富永二郎役)
  • 『嵐の中を突っ走れ』(蔵原惟繕監督、1958年10月29日公開、日活、吉良千吉役)
  • 紅の翼』(中平康監督、1958年12月28日公開、日活、石田康二役)
  • 若い川の流れ』(田坂具隆監督、1959年1月15日公開、日活、曽根健助役)
  • 『今日に生きる』(舛田利雄監督、1959年3月10日公開、日活、城俊次役)
  • 『男が爆発する』(舛田利雄監督、1959年4月29日公開、日活、室戸謙作役)
  • 『山と谷と雲』(牛原陽一監督、1959年5月31日公開、日活、牧戸次郎役)
  • 『世界を賭ける恋』(滝沢英輔監督、1959年7月12日公開、日活、村岡雄二役)
  • 『男なら夢を見ろ』(牛原陽一監督、1959年8月9日公開、日活、木島夏雄役)
  • 『欧州駈けある記』(1959年8月30日公開、日活)
  • 『清水の暴れん坊』(松尾昭典監督、1959年9月27日公開、日活、石松俊雄役)
  • 『天と地を駈ける男』(舛田利雄監督、1959年11月1日公開、日活、稲葉鉄男役)
  • 『男が命を賭ける時』(松尾昭典監督、1959年12月27日公開、日活、小室丈太郎役)
  • 『鉄火場の風』(牛原陽一監督、1960年1月15日公開、日活、畑中英次役)
  • 『白銀城の対決』(齋藤武市監督、1960年3月6日公開、日活、伊庭俊介役)
  • 『あじさいの歌』(滝沢英輔監督、1960年4月2日公開、日活、河田藤助役)
  • 『青年の樹』(舛田利雄監督、1960年4月29日公開、日活、和久武馬役)
  • 『天下を取る』(牛原陽一監督、1960年7月13日公開、日活、大門大太役)
  • 喧嘩太郎』(舛田利雄監督、1960年8月10日公開、日活、宇野太郎役)
  • 『やくざ先生』(松尾昭典監督、1960年9月21日公開、日活、新田悠三役)
  • 『あした晴れるか』(中平康監督、1960年10月26日公開、日活、三杉耕平役)
  • 『闘牛に賭ける男』(舛田利雄監督、1960年12月27日公開、日活、北見徹役)
  • 『激流に生きる男』(野村孝監督、1962年5月1日公開、怪我で出演断念)
  • 『街から街へつむじ風』(松尾昭典監督、1961年1月14日公開、日活、正木晋一役)
  • あいつと私』(中平康監督、1961年9月10日公開、日活、黒川三郎役)
  • 『堂堂たる人生』(牛原陽一監督、1961年10月22日公開、日活、中部周平役)
  • 『アラブの嵐』(中平康監督、1961年12月24日公開、日活、宗方真太郎役)
  • 『男と男の生きる街』(舛田利雄監督、1962年1月14日公開、日活、岩崎捷夫役)
  • 銀座の恋の物語』(蔵原惟繕監督、1962年3月4日公開、日活、伴次郎役)
  • 『青年の椅子』(西河克己監督、1962年4月8日公開、日活、高坂虎彦役)
  • 『雲に向かって起つ』(滝沢英輔監督、1962年5月1日公開、日活、坂木武馬役)
  • 憎いあンちくしょう』(蔵原惟繕監督、1962年7月8日公開、日活、北大作役)
  • 『零戦黒雲一家』(舛田利雄監督、1962年8月12日公開、日活、谷村雁役)
  • 若い人』(西河克己監督、1962年10月6日公開、日活、間崎慎太郎役)
  • 『金門島にかける橋』(松尾昭典監督、1962年11月3日公開、日活、武井一郎役)
  • 花と竜』(舛田利雄監督、1962年12月26日公開、日活、玉井金五郎役)
  • 『何か面白いことないか』(蔵原惟繕監督、1963年3月3日公開、日活、早坂次郎役)
  • 『太陽への脱出』(舛田利雄監督、1963年4月28日公開、日活、速水志郎役)
  • 夜霧のブルース』(野村孝監督、1963年6月30日公開、日活、西脇順三役)
  • 太平洋ひとりぼっち』(市川崑監督、1963年10月27日公開、日活、青年役)
  • 赤いハンカチ』(舛田利雄監督、1964年1月3日公開、日活、三上次郎役)
  • 夕陽の丘』(松尾昭典監督、1964年4月29日公開、日活、篠原健次役)
  • 『鉄火場破り』(齋藤武市監督、1964年7月12日公開、日活、関東政役)
  • 『殺人者を消せ』(舛田利雄監督、1964年9月19日公開、日活、早川次郎/泉信夫役)
  • 『敗れざるもの』(松尾昭典監督、1964年10月30日公開、日活、橋本鉄哉役)
  • 『黒い海峡』(江崎実生監督、1964年12月31日公開、日活、槙明夫役)
  • 城取り』(舛田利雄監督、1965年3月6日公開、日活、車藤三役)
  • 青春とはなんだ』(舛田利雄監督、1965年7月14日公開、日活、野々村健介役)
  • 『泣かせるぜ』(松尾昭典監督、1965年10月1日公開、日活、響伸作役)
  • 素晴らしきヒコーキ野郎』(ケン・アナキン監督、1965年10月9日公開、日活、Yamamoto役)
  • 『赤い谷間の決斗』舛田利雄監督、1965年12月29日公開、日活、風間信吾役)
  • 二人の世界』(松尾昭典監督、1966年2月25日公開、日活、北条修一役)
  • 『青春大統領』(江崎実生監督、1966年4月27日公開、日活、峰岡鷹志役)
  • 『夜霧の慕情』(松尾昭典監督、1966年6月1日公開、日活、堀部良郎役)
  • 『夜のバラを消せ』(舛田利雄監督、1966年7月9日公開、日活、徳川新六役)
  • 『帰らざる波止場』(舛田利雄監督、1966年8月13日公開、日活、津田史郎役)
  • 『栄光への挑戦』(舛田利雄監督、1966年10月8日公開、日活、宗吾郎役)
  • 『逃亡列車』(江崎実生監督、1966年12月24日公開、日活、有坂大作役)
  • 夜霧よ今夜も有難う』(江崎実生監督、1967年3月11日公開、日活、相良徹役)
  • 『嵐来たり去る』(舛田利雄監督、1967年5月3日公開、日活、富坂の英五郎役)
  • 『波止場の鷹』(西村昭五郎監督、1967年8月12日公開、日活、久須見健一役)
  • 『東京の田舎っぺ』(千野皓司監督、1967年8月12日公開、日活、声のみ)
  • 『君は恋人』(齋藤武市監督、1967年11月3日公開、日活、石崎監督役)
  • 『黄金の野郎ども』(江崎実生監督、1967年12月23日公開、日活、立原英次役)
  • 『遊侠三国志・鉄火の花道』(松尾昭典監督、1968年1月13日公開、日活、小村伸次郎役)
  • 黒部の太陽』(熊井啓監督、1968年2月17日公開、日活、岩岡役)
  • 『昭和のいのち』(舛田利雄監督、1968年6月22日公開、日活、日下真介役)
  • 『忘れるものか』(松尾昭典監督、1968年12月28日公開、日活、岡部司郎役)
  • 風林火山』(稲垣浩監督、1969年3月1日公開、東宝、上杉謙信役)
  • 栄光への5000キロ』(蔵原惟繕監督、1969年7月15日公開、松竹、五代高之役)
  • 人斬り』(五社英雄監督、1969年8月9日公開、大映、坂本竜馬役)
  • 『嵐の勇者たち』(舛田利雄監督、1969年12月31日公開、日活、島地陶介役)
  • 富士山頂』(村野鐵太郎監督、1970年2月28日公開、日活、梅原悟郎役)
  • 待ち伏せ』(稲垣浩監督、1970年3月21日公開、東宝、弥太郎役)
  • ある兵士の賭け』(キース・ラーセン/千野皓司/白井伸明監督、1970年6月6日公開、松竹、北林宏役)
  • スパルタ教育くたばれ親父』(舛田利雄監督、1970年8月12日公開、ダイニチ、田上悠三役)
  • 戦争と人間(1部)』 (山本薩夫監督、1970年8月1日公開、ダイニチ、篠崎書記官役)
  • 『男の世界』(長谷部安春監督、1971年1月13日公開、ダイニチ、紺野忠夫役)
  • 『甦える大地』(中村登監督、1971年2月26日公開、松竹、植松一也役)
  • 影狩り』(舛田利雄監督、1972年6月10日公開、東宝、十兵衛役)
  • 『影狩り・ほえろ大砲』(舛田利雄監督、1972年10月10日公開、東宝、室戸十兵衛役)
  • 『反逆の報酬』(澤田幸弘監督、1973年2月17日公開、東宝、沖田徹男役)
  • 『凍河』(斎藤耕一監督、1976年4月24日公開、松竹、竜野一郎役)
  • わが青春のアルカディア』(勝間田具治監督、1982年7月28日公開、東映、(声)ファントム・F・ハーロックI世役)
  • 『アゲイン』(1984年、新撮部分への出演なし)
  • 零戦燃ゆ』(舛田利雄監督、1984年8月11日公開、東宝、主題歌のみ)

テレビドラマ

テレビ・ラジオ

レギュラー番組

ラジオドラマ

CM

※放映されなかったCMであり、死去直後に『幻のCM』として放送されたほかDVD「生誕80周年記念 石原裕次郎 松竹梅CM集」に収録。

大会出場

  • 大島ヨットレース(1959年・1963年)
  • トランス・パシフィック・レース(1965年・1973年・1975年)
  • アドミラルズ・カップ・レース(1977年)
  • パンナム・クリッパーカップ・ヨットレース(1982年)
  • インビテーショナル・ゴルフ大会-途中ホールアウト(1986年)
  • 石原裕次郎メモリアルヨットレース(死後)

パチンコ

歌手活動

書籍

写真集

出版

連載

演じた俳優

脚注

注釈

  1. ^ この時石原を治療したチームの中に、後にオウム真理教に入信し地下鉄サリン事件などを引き起こした林郁夫がいた。
  2. ^ ただし、ヘッドランプを含むフロントフェンダー部分は所有当初から300SLロードスター用のものに交換されている。

出典

  1. ^ 石原慎太郎・裕次郎の母 〜時代の寵児を育んで〜”. グレートマザー物語. テレビ朝日 (2002年2月24日). 2002年12月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年10月9日閲覧。
  2. ^ 佐野眞一『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』(講談社 2003年)
  3. ^ “石原まき子さん 裕次郎さん32回忌法要で「いまだに裕次郎の女房という誇りを持っております」「石原裕次郎の軌跡」展の開催を発表” (日本語). スポーツ報知. (2018年7月17日). https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180717-OHT1T50105.html 2018年7月20日閲覧。 
  4. ^ 近代映画 近代映画社 1970年2月号 146頁。
  5. ^ 石原慎太郎「弟」1996年幻冬舎刊
  6. ^ 以上の2件は近代映画 近代映画社 1970年3月号 141-142頁。
  7. ^ 高柳六郎『石原裕次郎 歌伝説―音づくりの現場から』社会思想社(現代教養文庫)、2000年、101-104頁。ISBN 4-390-11637-1
  8. ^ 村西とおるの閻魔帳 「人生は喜ばせごっこ」でございます。(コスモの本、2010年)にも収録の◆ 石原裕次郎と語られることのなかった「男の物語」 村西とおる日記 2009年10月9日より。
  9. ^ さよなら石原裕次郎 文藝春秋8月緊急増刊、1987年
  10. ^ (11)松方「初対面でいい思い出」(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年6月17日
  11. ^ TV初公開!石原裕次郎の遺品・遺した時計に衝撃の価値! - JCCテレビすべて フジテレビ【バイキング】2018年7月19日放送
  12. ^ 【石原裕次郎32回忌でまき子夫人&舘ひろしが坂上に秘話告白】 - gooテレビ番組(関東版) 直撃!シンソウ坂上 2018年7月19日
  13. ^ (2)「兄弟」勝新、最後の晩餐(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年6月3日
  14. ^ (5)勝新と玉緒のケンカ仲裁(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年6月6日
  15. ^ (1)昭和に風、長嶋さん語った(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年6月02日
  16. ^ 「彼は闘えないと思った…」妻が語る“昭和の大スター”石原裕次郎の素顔 - FNN.jpプライムオンライン 2018年7月19日
  17. ^ (24)石原軍団、今でも映画製作の夢(裕次郎とともに) - nikkansports.com 2009年7月4日
  18. ^ 太平洋の果実 第2部 石原裕次郎の贈りもの(PHP研究所増田久雄
  19. ^ 有吉弘行&劇団ひとり&ビビる大木の天才リトル(2014年3月30日、フジテレビ[出典無効]
  20. ^ 洋泉社 2016年11月『映画秘宝コレクション 完全版アナーキー日本映画史1959-2016』75p
  21. ^ キネマ旬報オールタイムベスト 映画遺産200」。2009。同書160pの『紅の流れ星』の解説より
  22. ^ 「土と役者と考古学」苅谷俊介 近畿医学検査学会

関連項目

関連人物

外部リンク