「中国の宰相」の版間の差分
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表を見れば中国の中央行政機関が[[六卿|六官]]→[[三公]]→[[三省六部|三省]]→[[内閣]]→[[軍機処]]、と移り変わっていくのが分かる。特に三公の[[丞相]](秦、漢代)は権限が強く、まさに宰相の名に相応しい。三公が有名無実化したのちの三省では[[尚書省]]が最も重要で、『[[周礼]]』の天、地、春、夏、秋、冬の[[六卿|六官]]に淵源をもつ吏、戸、礼、兵、刑、工の6官庁(=[[六部]])を総覧した。 |
表を見れば中国の中央行政機関が[[六卿|六官]]→[[三公]]→[[三省六部|三省]]→[[内閣]]→[[軍機処]]、と移り変わっていくのが分かる。特に三公の[[丞相]](秦、漢代)は権限が強く、まさに宰相の名に相応しい。三公が有名無実化したのちの三省では[[尚書省]]が最も重要で、『[[周礼]]』の天、地、春、夏、秋、冬の[[六卿|六官]]に淵源をもつ吏、戸、礼、兵、刑、工の6官庁(=[[六部]])を総覧した。 |
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尚書省の長を[[尚書令]]といい<ref>日本では[[太政官]]が尚書省、太政大臣が[[尚書令]]に相当するとされた。</ref>、副官を[[僕射]](ぼくや)といった。[[唐]]代、[[太宗 (唐)|太宗]]が尚書令に就いてからは空席となり、左右僕射が尚書省の実質的長官となった<ref>日本では[[左大臣]]・[[右大臣]]が左右僕射に相当するとされた。[[方広寺鐘銘事件]]で、当時右大臣だった[[徳川家康]]の事を「右僕射源朝臣」と鐘銘に書いた所、その語句に幕府が因縁をつけた逸話は有名である。</ref>。また各部の長官は[[尚書]]と呼ばれた。僕射はのちに丞相と改称され、尚書のうち文官の人事を統括する吏部尚書は冢宰(ちょうさい)と呼ばれた。尚書省の制は元代に廃止されるが、六部は中書省に属し、明代に中書省が廃されてのちは皇帝直属として清末まで続いた。 |
尚書省の長を[[尚書令]]といい<ref>日本では[[太政官]]が尚書省、太政大臣が[[尚書令]]に相当するとされた。</ref>、副官を[[僕射]](ぼくや)といった。[[唐]]代、[[太宗 (唐)|太宗]]が尚書令に就いてからは空席となり、左右僕射が尚書省の実質的長官となった<ref>日本では[[左大臣]]・[[右大臣]]が左右僕射に相当するとされた。[[大坂の陣#方広寺鐘銘事件|方広寺鐘銘事件]]で、当時右大臣だった[[徳川家康]]の事を「右僕射源朝臣」と鐘銘に書いた所、その語句に幕府が因縁をつけた逸話は有名である。</ref>。また各部の長官は[[尚書]]と呼ばれた。僕射はのちに丞相と改称され、尚書のうち文官の人事を統括する吏部尚書は冢宰(ちょうさい)と呼ばれた。尚書省の制は元代に廃止されるが、六部は中書省に属し、明代に中書省が廃されてのちは皇帝直属として清末まで続いた。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
2019年7月15日 (月) 02:09時点における版
宰相(さいしょう)は歴代中国の王朝で君主を補佐した最高位の官職。およびその通称。
中国の宰相は歴代王朝によって呼称が異なる。詳細は下表を参照。
王朝 | 宰相 | 内容 | |
---|---|---|---|
周 | 冢宰(ちょうさい) | 天官の長、太宰(たいさい)が兼任 | |
秦、漢 | 丞相 太尉 御史大夫 |
大司徒。皇帝を輔佐し政務を総攬し百官を統率する 大司馬。軍事を司る 大司空。監察官の御史を統率する |
三公 |
後漢 | 司徒 太尉 司空 |
丞相は司徒、御史大夫は司空と改称 実権は尚書に移り、名誉職化していく |
三公 |
↓ | |||
尚書 | 皇帝側近の秘書官 | ||
魏、晋 | 丞相 | 三公が復活 | |
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録尚書事 | 尚書の最高官 | ||
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尚書令 門下侍中 中書令 |
尚書の先任者 皇帝の側近 皇帝の秘書官長 |
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唐 | 尚書令 侍中 中書令 |
尚書省長官 門下省長官 中書省長官 |
三省の長官 |
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尚書僕射(しょうしょぼくや) | 尚書令は皇帝が就任のため空席。尚書省副官。左右僕射 | ||
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同中書門下平章事 | 中書と門下を合わせた官。同中書門下平章事とも | ||
北宋 | 同中書門下平章事 | ||
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門下侍郎兼尚書左僕射 中書侍郎兼尚書右僕射 |
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南宋 | 丞相 | 僕射を左右丞相に改称 | |
元 | 丞相 | 尚書省は廃止。北方風俗に倣い右丞相が左丞相の上位 | |
明 | 丞相 | 丞相胡惟庸(こいよう)の専権ののち廃止 | |
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内閣大学士 | 皇帝の秘書官兼教育係 | ||
清 | 内閣大学士 | 最高行政機関内閣の長 | |
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軍機大臣 | 軍機処の長官 | ||
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内閣総理大臣 | 日本の制度を模倣 |
表を見れば中国の中央行政機関が六官→三公→三省→内閣→軍機処、と移り変わっていくのが分かる。特に三公の丞相(秦、漢代)は権限が強く、まさに宰相の名に相応しい。三公が有名無実化したのちの三省では尚書省が最も重要で、『周礼』の天、地、春、夏、秋、冬の六官に淵源をもつ吏、戸、礼、兵、刑、工の6官庁(=六部)を総覧した。
尚書省の長を尚書令といい[1]、副官を僕射(ぼくや)といった。唐代、太宗が尚書令に就いてからは空席となり、左右僕射が尚書省の実質的長官となった[2]。また各部の長官は尚書と呼ばれた。僕射はのちに丞相と改称され、尚書のうち文官の人事を統括する吏部尚書は冢宰(ちょうさい)と呼ばれた。尚書省の制は元代に廃止されるが、六部は中書省に属し、明代に中書省が廃されてのちは皇帝直属として清末まで続いた。