「鍋島直泰」の版間の差分

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'''鍋島 直泰'''(なべしま なおやす、[[1907年]]([[明治]]40年)[[10月3日]] - [[1981年]]([[昭和]]56年)[[5月1日]])は旧[[佐賀藩]]主・[[鍋島氏|鍋島家]]の13代当主。12代[[鍋島直映|直映]]の嫡男。母は禎子([[黒田長知]]の娘。[[学習院]]・[[東京大学|東京帝国大学]]を卒業、[[宮内省]]式部官を務めた後、[[1943年]](昭和18年)に家督を相続・[[侯爵]]を襲爵し[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員となり、貴族院の廃止までその任にあった。
'''鍋島 直泰'''(なべしま なおやす、[[1907年]]([[明治]]40年)[[10月3日]] - [[1981年]]([[昭和]]56年)[[5月1日]])は旧[[佐賀藩]]主・[[鍋島氏|鍋島家]]の13代当主。12代[[鍋島直映|直映]]の嫡男。母は[[黒田長知]]の娘・禎子。[[学習院]]・[[東京大学|東京帝国大学]]を卒業、[[宮内省]]式部官を務めた後、[[1943年]](昭和18年)に家督を相続・[[侯爵]]を襲爵し[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員となり、貴族院の廃止までその任にあった。


名ゴルファーとして知られ、1933年から1935年の[[日本アマチュアゴルフ選手権競技|日本アマチュア選手権]]に3連覇、1ラウンドで2度ホールインワンを記録するなどの記録で知られる。また、蝶の研究・収集などでも有名。
名ゴルファーとして知られ、1933年から1935年の[[日本アマチュアゴルフ選手権競技|日本アマチュア選手権]]に3連覇、1ラウンドで2度ホールインワンを記録するなどの記録で知られる。また、蝶の研究・収集などでも有名である


夫人は[[朝香宮鳩彦王]]第一王女 [[朝香宮紀久子女王|紀久子]](1911年-1989年)。嫡子は直要(なおもと1936年-2008鍋島報效会会長、日本ゴルフ協会常任理事)。
夫人は[[朝香宮鳩彦王]]第一王女[[朝香宮紀久子女王|紀久子]](1911年 - 1989年)。嫡子は直要(なおもと1936年 - 2008鍋島報效会会長、日本ゴルフ協会常任理事)。


直泰は自動車マニアとしても知られ、1935年には[[イスパノ・スイザ]]K6をベアシャシー(ボディがない状態)で輸入、自邸内の小屋で自らデザインした2ドアクーペボディを、約半年かけて日本人職人に製作・架装させた。完成当初のボディカラーはナス紺と溜色(小豆色)のコンビネーションだったと言われるが、その後も昭和40年頃まで、塗色の変更、ホイールカバーの取り外し(ワイアホイールをそのまま見せる)、バンパーを分割にするの改良を積み重ね、死去するまでナンバーを付けて時折実用に供し続けた。このイスパノ・スイザは1983年、直要が[[佐賀県立博物館]]に管理を委託、約25年間にわたり、同博物館1階ホールに展示されていたが、2008年になって[[トヨタ博物館]]に寄託されることになった。
直泰は自動車マニアとしても知られ、1935年には[[イスパノ・スイザ]]K6をベアシャシー(ボディがない状態)で輸入、自邸内の小屋で自らデザインした2ドアクーペボディを、約半年かけて日本人職人に製作・架装させた。完成当初のボディカラーはナス紺と溜色(小豆色)のコンビネーションだったと言われるが、その後も昭和40年頃まで、塗色の変更、ホイールカバーの取り外し(ワイアホイールをそのまま見せる)、バンパーを2分割にするなどの改良を積み重ね、死去するまでナンバーを付けて時折実用に供し続けた。このイスパノ・スイザは1983年、直要が[[佐賀県立博物館]]に管理を委託、約25年間にわたり、同博物館1階ホールに展示されていたが、2008年になって[[トヨタ博物館]]に寄託されることになった。


==外部リンク==
== 外部リンク ==
* [http://www.nabeshima.or.jp/ 徴古館(ちょうこかん)HP(旧佐賀藩主 鍋島家に伝来した美術工芸品・歴史資料を主に収蔵・展示する博物館)]
* [http://www.nabeshima.or.jp/ 徴古館(ちょうこかん)HP(旧佐賀藩主 鍋島家に伝来した美術工芸品・歴史資料を主に収蔵・展示する博物館)]
* [http://www.toyota.co.jp/Museum/index-j.html トヨタ博物館HP]
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[[Category:1907年生]]
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2019年7月4日 (木) 13:57時点における版

鍋島 直泰(なべしま なおやす、1907年明治40年)10月3日 - 1981年昭和56年)5月1日)は、旧佐賀藩主・鍋島家の13代当主。12代直映の嫡男。母は黒田長知の娘・禎子。学習院東京帝国大学を卒業、宮内省式部官を務めた後、1943年(昭和18年)に家督を相続・侯爵を襲爵し貴族院議員となり、貴族院の廃止までその任にあった。

名ゴルファーとして知られ、1933年から1935年の日本アマチュア選手権に3連覇、1ラウンドで2度ホールインワンを記録するなどの記録で知られる。また、蝶の研究・収集などでも有名である。

夫人は朝香宮鳩彦王第一王女・紀久子(1911年 - 1989年)。嫡子は直要(なおもと、1936年 - 2008年、鍋島報效会会長、日本ゴルフ協会常任理事)。

直泰は自動車マニアとしても知られ、1935年にはイスパノ・スイザK6をベアシャシー(ボディがない状態)で輸入、自邸内の小屋で自らデザインした2ドアクーペボディを、約半年かけて日本人職人に製作・架装させた。完成当初のボディカラーはナス紺と溜色(小豆色)のコンビネーションだったと言われるが、その後も昭和40年頃まで、塗色の変更、ホイールカバーの取り外し(ワイアホイールをそのまま見せる)、バンパーを2分割にするなどの改良を積み重ね、死去するまでナンバーを付けて時折実用に供し続けた。このイスパノ・スイザは1983年、直要が佐賀県立博物館に管理を委託、約25年間にわたり、同博物館1階ホールに展示されていたが、2008年になってトヨタ博物館に寄託されることになった。

外部リンク

日本の爵位
先代
鍋島直映
侯爵
佐賀鍋島家第3代
1943年 - 1947年
次代
(華族制度廃止)