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[[2010年]]の国勢調査によると、12,269人のマンシ人がロシア国内に居住している。
[[2010年]]の国勢調査によると、12,269人のマンシ人がロシア国内に居住している。


==歴史==
== 起源・歴史 ==
[[File:IstSib008 1.jpg|thumb|イェルマークに貢物を運ぶヴォグル族]]
[[File:IstSib008 1.jpg|thumb|イェルマークに貢物を運ぶヴォグル族]]
マンシ人の祖先は[[ウラル山脈]]の西側に居住していた<ref name="Red Book">{{cite web|title=The Mansis|work=The Peoples of the Red Book|url= http://www.eki.ee/books/redbook/mansis.shtml|place=EE|publisher=EKI|accessdate=2015/5/4}}</ref>。[[ペルミ]]近郊でマンシ人の遺跡が発掘されている<ref name="Red Book"/>。
マンシ人の祖先はハンティ人の祖先と同祖であり、[[ウラル山脈]]の西側に居住していた<ref name="Red Book">{{cite web|title=The Mansis|work=The Peoples of the Red Book|url= http://www.eki.ee/books/redbook/mansis.shtml|place=EE|publisher=EKI|accessdate=2015/5/4}}</ref>。[[ペルミ]]近郊でマンシ人の遺跡が発掘されている<ref name="Red Book"/>。


そして、紀元前10世紀以降に[[西シベリア平原]]に移住し、その土地の民と同化していったと言われる<ref name="Red Book"/>。一方、他の文献によると、紀元500年頃に、南にある[[ウラル・ステップ]]から現在の位置にやってきたとされる<ref>{{cite web|title=Khanty & Mansi|work=Encyclopædia Britannica|url= http://www.britannica.com/EBchecked/topic/316322/Khanty-and-Mansi#ref272005|accessdate=2015/5/4}}</ref>。
そして、[[紀元前10世紀]]以降に[[西シベリア平原]]に移住し、その土地の民と同化していったと言われる<ref name="Red Book"/>。一方、他の文献によると、紀元500年頃に、南にある[[ウラル・ステップ]]から現在の位置にやってきたとされる<ref>{{cite web|title=Khanty & Mansi|work=Encyclopædia Britannica|url= http://www.britannica.com/EBchecked/topic/316322/Khanty-and-Mansi#ref272005|accessdate=2015/5/4}}</ref>。鉄器時代以降[[紀元1世紀]]頃に分かれたとされる


古くは騎馬文化を持っていたようであるが、[[シベリア]]の環境への適応から、[[狩猟]]・[[漁猟]]・[[トナカイ]]飼育の生活を導入するようになった。[[10世紀頃]]には[[ロシア人]]との接触をはじめ、11世紀までには定期的な交易を行っていた。[[モンゴル帝国]]の拡大にともない服属し、[[西シベリア汗国]]に含まれた。その後、[[ロシア帝国]]の[[ピョートル1世|ピョートル大帝]]によるシベリア征服で、[[イェルマーク]]によって西シベリア平原がロシア帝国による支配を受けた。
マンシ人は[[イェルマーク]]によって西シベリア平原が[[ロシア]]の支配下におかれるようになった16世紀には遅くとも同国との接触をしていた。ロシア及び[[ソビエト連邦]]政府との接触が多かったため、マンシ人は方の[[ハンティ人]]に較べると、ロシア人との同化が全般的により進んでいる。


遅くとも[[16世紀]]に[[ロシア]]との接触をしていた。ロシア及び[[ソビエト連邦]]政府との接触が多かったため、マンシ人は方のハンティ人に較べると、ロシア人との同化が全般的により進んでいる。
1960年代、[[ハンティ・マンシ自治管区・ユグラ]]で[[石油]]開発が始まると、[[第二次世界大戦]]以降では[[ソビエト連邦]]史上最大規模の内地強制移住が行われた。この結果、マンシ人・ハンティ人の少数民族化が進み、今日では自治管区の人口に彼らが占める割合はか1%強と言われる{{要出典|date=2015年6月}}。

1960年代、[[ハンティ・マンシ自治管区・ユグラ]]で[[石油]]開発が始まると、[[第二次世界大戦]]以降では[[ソビエト連邦]]史上最大規模の内地強制移住が行われた。この結果、マンシ人・ハンティ人の少数民族化が進み、今日では自治管区の人口に彼らが占める割合はわずか1%強と言われる{{要出典|date=2015年6月}}。


他の北方民族の多くと同様、ソビエト連邦はマンシ人にも「国民文学」を作るように要求し、主に[[ウラジーミル・レーニン|レーニン革命]]によってもたらされた啓蒙と進歩を称揚する作品が作られた。この分野における最も著名な作家として、{{仮リンク|ユーヴァン・シェスタロフ|en|Yuvan Shestalov}}がいるが、ソヴィエト連邦崩壊後には、彼はシャーマニズムに転向し、マンシ人は[[シュメール]]の末裔であると主張するようになった{{要出典|date=2015年6月}}。
他の北方民族の多くと同様、ソビエト連邦はマンシ人にも「国民文学」を作るように要求し、主に[[ウラジーミル・レーニン|レーニン革命]]によってもたらされた啓蒙と進歩を称揚する作品が作られた。この分野における最も著名な作家として、{{仮リンク|ユーヴァン・シェスタロフ|en|Yuvan Shestalov}}がいるが、ソヴィエト連邦崩壊後には、彼はシャーマニズムに転向し、マンシ人は[[シュメール]]の末裔であると主張するようになった{{要出典|date=2015年6月}}。

2019年5月8日 (水) 04:37時点における版

マンシ人
(12,500)
居住地域
ハンティ・マンシ自治管区・ユグラロシア
ロシアの旗 ロシア12,269 (2010)[1]
ウクライナの旗 ウクライナ43 (2001)[2]
言語
ロシア語マンシ語
宗教
シャーマニズムロシア正教会

マンシ人Манси - Mansi)はシベリアチュメニ州にあるハンティ・マンシ自治管区・ユグラに住むウラル語族系民族。旧称ウォグル族Вогулы - Voguly)。ロシア人の居住地にも混在しており、人口は全体で約12500人。人種はモンゴロイドモンゴロイドが混じり合ったウラル人種に属し、ハプログループNが高頻度~中頻度で見られる。

言語

マンシ語は、ハンティ語とともにオビ・ウゴル諸語に分類され、ハンガリー語とも類縁関係にある。マンシ語の話者数は940人(2010年)。ハンティ人とマンシ人は元来同じ民族であったが、鉄器時代以降紀元後1000年頃に分かれたとされ、近い関係にある。東方に多く住むハンティ人とともに「オブスキー・ウゴル」と総称された。

人口

2002年の国勢調査によるマンシ人の人口
総計 男性 女性
総計 11,432 5,167 6,265
チュメニ州 10,561 4,786 5,775
うちハンティ・マンシ自治管区・ユグラ 9,894 4,510 5,384
スヴェルドロフスク州 259 130 129
コミ共和国 11 8 3

2010年の国勢調査によると、12,269人のマンシ人がロシア国内に居住している。

起源・歴史

イェルマークに貢物を運ぶヴォグル族

マンシ人の祖先はハンティ人の祖先と同祖であり、ウラル山脈の西側に居住していた[3]ペルミ近郊でマンシ人の遺跡が発掘されている[3]

そして、紀元前10世紀以降に西シベリア平原に移住し、その土地の民と同化していったと言われる[3]。一方、他の文献によると、紀元500年頃に、南にあるウラル・ステップから現在の位置にやってきたとされる[4]。鉄器時代以降紀元1世紀頃に分かれたとされる。

古くは騎馬文化を持っていたようであるが、シベリアの環境への適応から、狩猟漁猟トナカイ飼育の生活を導入するようになった。10世紀頃にはロシア人との接触をはじめ、11世紀までには定期的な交易を行っていた。モンゴル帝国の拡大にともない服属し、西シベリア汗国に含まれた。その後、ロシア帝国ピョートル大帝によるシベリア征服で、イェルマークによって西シベリア平原がロシア帝国による支配を受けた。

遅くとも16世紀にはロシアとの接触をしていた。ロシア及びソビエト連邦政府との接触が多かったため、マンシ人は東方のハンティ人に較べると、ロシア人との同化が全般的により進んでいる。

1960年代、ハンティ・マンシ自治管区・ユグラ石油開発が始まると、第二次世界大戦以降ではソビエト連邦史上最大規模の内地強制移住が行われた。この結果、マンシ人・ハンティ人の少数民族化が進み、今日では自治管区の人口に彼らが占める割合はわずか1%強と言われる[要出典]

他の北方民族の多くと同様、ソビエト連邦はマンシ人にも「国民文学」を作るように要求し、主にレーニン革命によってもたらされた啓蒙と進歩を称揚する作品が作られた。この分野における最も著名な作家として、ユーヴァン・シェスタロフ英語版がいるが、ソヴィエト連邦崩壊後には、彼はシャーマニズムに転向し、マンシ人はシュメールの末裔であると主張するようになった[要出典]

著名人

参考文献

  1. ^ ru:Официальный сайт Всероссийской переписи населения 2010 года. Информационные материалы об окончательных итогах Всероссийской переписи населения 2010 года” (ロシア語). GKS. 2015年5月4日閲覧。
  2. ^ National composition of population” (ウクライナ語). Census. State statistics committee of Ukraine (2001年). 2015年5月4日閲覧。
  3. ^ a b c The Mansis”. The Peoples of the Red Book. EKI. 2015年5月4日閲覧。
  4. ^ Khanty & Mansi”. Encyclopædia Britannica. 2015年5月4日閲覧。
  5. ^ MansiKasliwal:Profile”. 2015年5月4日閲覧。

外部リンク