「高代延博」の版間の差分
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{{By|2002年}}10月24日に大学の先輩・[[山本功児]]が監督を務める[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]の一軍ヘッドコーチに就任したが山本の解任もあり1年限りで退団。 |
{{By|2002年}}10月24日に大学の先輩・[[山本功児]]が監督を務める[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]の一軍ヘッドコーチに就任したが山本の解任もあり1年限りで退団。 |
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{{By|2003年}}10月15日に |
{{By|2003年}}10月15日に一軍野手総合チーフコーチとして中日に復帰すること発表され、翌{{By|2004年}}から{{By|2008年}}まで中日一軍野手総合チーフコーチを歴任。三塁ベースコーチとしての打球への判断がよく、中日が[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]のペナントを制した{{By|2006年}}は本塁での憤死をリーグ最小の1にとどめた。2008年は、ベンチ専従となった。 |
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{{By|2008年}}11月12日には[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回WBC]]の[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]の内野守備・走塁コーチに就任した。三塁ベースコーチを担当し、WBC日本代表の連覇に貢献した。また、議論の的になった[[亀井義行]]の代表入りを推薦した。WBC終了後、株式会社スーパーエージェントと[[マネジメント]]契約し[[東京中日スポーツ]]で[[野球評論家]]、古巣・東芝で臨時コーチを務めていた。 |
{{By|2008年}}11月12日には[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック|第2回WBC]]の[[2009 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]の内野守備・走塁コーチに就任した。三塁ベースコーチを担当し、WBC日本代表の連覇に貢献した。また、議論の的になった[[亀井義行]]の代表入りを推薦した。WBC終了後、株式会社スーパーエージェントと[[マネジメント]]契約し[[東京中日スポーツ]]で[[野球評論家]]、古巣・東芝で臨時コーチを務めていた。 |
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同年10月、[[韓国野球委員会|韓国]]の[[ハンファ・イーグルス]]の臨時インストラクターに就任し、翌年は同球団で総合コーチを務めた<ref>{{Cite web|date=2010-01-17|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/01/17/24.html|title=侍ジャパン高代コーチ ハンファのコーチ就任|publisher=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]|accessdate=2010-01-17}}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。 |
同年10月、[[韓国野球委員会|韓国]]の[[ハンファ・イーグルス]]の臨時インストラクターに就任し、翌年は同球団で総合コーチを務めた<ref>{{Cite web|date=2010-01-17|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2010/01/17/24.html|title=侍ジャパン高代コーチ ハンファのコーチ就任|publisher=[[スポーツニッポン|Sponichi Annex]]|accessdate=2010-01-17}}{{リンク切れ|date=2017年9月}}</ref>。 |
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{{By|2010年}}11月2日、翌{{By|2011年}}シーズンより[[オリックス・バファローズ]]のヘッドコーチを務めることが発表される。同年9月16日のロッテ戦からは走者の本塁憤死が多かったことから[[松山秀明]] |
{{By|2010年}}11月2日、翌{{By|2011年}}シーズンより[[オリックス・バファローズ]]の一軍ヘッドコーチを務めることが発表される。同年9月16日のロッテ戦からは走者の本塁憤死が多かったことから[[松山秀明]]一軍内野守備・走塁コーチに代わり、三塁ベースコーチも務めた<ref>{{cite news|author = |url = http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/09/17/kiji/K20110917001638550.html|title = オリ三塁ベースコーチ交代 岡田監督「大きいミスが…」|newspaper = |publisher = |date=2011-09-17|accessdate=2013-03-09}}</ref>。シーズン最下位が確定した{{By|2012年}}9月25日、球団から監督の[[岡田彰布]]と共に休養(事実上の解任)を告げられ、同年シーズン終了を以って正式に退団。 |
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{{by|2012年}}10月10日、[[野球日本代表]]の内野守備・走塁コーチに就任したことが発表された<ref>[http://www.npb.or.jp/japan/news20121010b.html 侍ジャパン 監督、コーチ] NPB公式サイト (2012年10月10日) 2015年4月15日閲覧</ref>。11月13日に、背番号が「'''63'''」となった事が発表された<ref>[http://www.npb.or.jp/japan/news20121113.html 侍ジャパン 監督、コーチ背番号決定のお知らせ] NPB公式サイト (2012年11月13日) 2015年4月15日閲覧</ref>。 |
{{by|2012年}}10月10日、[[野球日本代表]]の内野守備・走塁コーチに就任したことが発表された<ref>[http://www.npb.or.jp/japan/news20121010b.html 侍ジャパン 監督、コーチ] NPB公式サイト (2012年10月10日) 2015年4月15日閲覧</ref>。11月13日に、背番号が「'''63'''」となった事が発表された<ref>[http://www.npb.or.jp/japan/news20121113.html 侍ジャパン 監督、コーチ背番号決定のお知らせ] NPB公式サイト (2012年11月13日) 2015年4月15日閲覧</ref>。 |
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{{By|2013年}}10月21日、翌{{By|2014年}}シーズンより[[阪神タイガース]]で一軍内野守備・走塁コーチに就任することが発表された。オリックス時代に続いて三塁のベースコーチ担当<ref>[http://hanshintigers.jp/news/topics/info_3024.html 高代延博氏のコーチ就任について]阪神球団公式サイト2013年10月21日配信</ref>。 |
{{By|2013年}}10月21日、翌{{By|2014年}}シーズンより[[阪神タイガース]]で一軍内野守備・走塁コーチに就任することが発表された。オリックス時代に続いて三塁のベースコーチを担当<ref>[http://hanshintigers.jp/news/topics/info_3024.html 高代延博氏のコーチ就任について]阪神球団公式サイト2013年10月21日配信</ref>。 |
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{{By|2015年}}、一軍の |
{{By|2015年}}、一軍の戦兼内野守備走塁コーチに配置転換された。 |
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[[2016年]]、広島のコーチ時代に指導した[[金本知憲]]監督を一軍ヘッドコーチとして支えながら、金本の意向で引き続き三塁のベースコーチを務めた<ref name=mimura>{{cite news|author = |url = http://www.daily.co.jp/tigers/2015/10/26/0008512460.shtml|title = 高代ヘッドコーチ 監督意向受け来季も三塁コーチ|newspaper =デイリースポーツ |publisher = |date=2015-10-26|accessdate=2015-10-28}}</ref>。[[2018年]]からは、前年まで一軍作戦兼バッテリーコーチを務めた[[矢野燿大]]が[[二軍監督]]に配置転換されたため、一軍作戦兼総合コーチに配置転換される。2019年は二軍チーフコーチ。 |
[[2016年]]、広島のコーチ時代に指導した[[金本知憲]]監督を一軍ヘッドコーチとして支えながら、金本の意向で引き続き三塁のベースコーチを務めた<ref name=mimura>{{cite news|author = |url = http://www.daily.co.jp/tigers/2015/10/26/0008512460.shtml|title = 高代ヘッドコーチ 監督意向受け来季も三塁コーチ|newspaper =デイリースポーツ |publisher = |date=2015-10-26|accessdate=2015-10-28}}</ref>。[[2018年]]からは、前年まで一軍作戦兼バッテリーコーチを務めた[[矢野燿大]]が[[二軍監督]]に配置転換されたため、一軍作戦兼総合コーチに配置転換される。 |
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2019年は二軍チーフコーチ。 |
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== コーチとして == |
== コーチとして == |
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前述のとおり、三塁ベースコーチとしての打球への判断がよく、{{By|2006年}}にはシーズン本塁憤死を1に留め[[中日ドラゴンズ|中日]]のリーグ優勝に貢献した。[[野村克也]]は高代を「日本一の三塁ベースコーチ」と語り、メディアでも「日本一の三塁ベースコーチ」と称されることがある<ref>{{cite news|author = |url = http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/117968/|title = 「日本一の三塁コーチ」の異名はダテじゃない|newspaper = [[東京スポーツ|東スポWeb]]|publisher = |date=2013-03-09|accessdate=2013-03-09}}</ref><ref>{{cite news|author = |url = https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2014/01/17/post_341/index_2.php|title =「日本一の三塁コーチ」高代延博が阪神を変える|newspaper = sportiva|date=2014-01-17|accessdate=2018-08-11}}</ref>。 |
前述のとおり、三塁ベースコーチとしての打球への判断がよく、{{By|2006年}}にはシーズン本塁憤死を1に留め[[中日ドラゴンズ|中日]]のリーグ優勝に貢献した。[[野村克也]]は高代を'''「日本一の三塁ベースコーチ」'''と語り、メディアでも'''「日本一の三塁ベースコーチ」'''と称されることがある<ref>{{cite news|author = |url = http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/baseball/117968/|title = 「日本一の三塁コーチ」の異名はダテじゃない|newspaper = [[東京スポーツ|東スポWeb]]|publisher = |date=2013-03-09|accessdate=2013-03-09}}</ref><ref>{{cite news|author = |url = https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2014/01/17/post_341/index_2.php|title =「日本一の三塁コーチ」高代延博が阪神を変える|newspaper = sportiva|date=2014-01-17|accessdate=2018-08-11}}</ref>。 |
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[[毎日放送]]グループが[[猛虎ファイル#「ホームイン with Tigers」(2015年度)|「ホームイン with Tigers」]](阪神の公式戦チーム総得点数に着目した応援キャンペーン)を展開していた{{By|2015年}}には、『[[ちちんぷいぷい (テレビ番組)|ちちんぷいぷい]]』([[MBSテレビ]]平日午後の情報番組)で阪神の得点シーンの映像を定期的に放送していたことから、阪神の三塁ベースコーチとして身振り手振りで塁上の走者に指示を送る高代を(「得点=ホームイン」という連想から)「虎のお帰りジャッジマン」と称していた<ref>[http://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/mbs/25312/393067/ gooTV 『ちちんぷいぷい』2015年7月17日(金曜日)放送分「昨夜のホームイン! with Tigers」 ]</ref>。 |
[[毎日放送]]グループが[[猛虎ファイル#「ホームイン with Tigers」(2015年度)|「ホームイン with Tigers」]](阪神の公式戦チーム総得点数に着目した応援キャンペーン)を展開していた{{By|2015年}}には、『[[ちちんぷいぷい (テレビ番組)|ちちんぷいぷい]]』([[MBSテレビ]]平日午後の情報番組)で阪神の得点シーンの映像を定期的に放送していたことから、阪神の三塁ベースコーチとして身振り手振りで塁上の走者に指示を送る高代を(「得点=ホームイン」という連想から)「虎のお帰りジャッジマン」と称していた<ref>[http://tvtopic.goo.ne.jp/kansai/program/mbs/25312/393067/ gooTV 『ちちんぷいぷい』2015年7月17日(金曜日)放送分「昨夜のホームイン! with Tigers」 ]</ref>。 |
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[[山崎武司]]は著書の中で高代について上司に媚びる・監督に媚を売る・権力にものを言わせる・選手目線で対話できない指導者と記し、山崎は高代との確執でスタメンを外れることが多くなったという<ref>山崎武司著『さらば、プロ野球:ジャイアンの27年』、2014年、[[宝島社]]、P78-P80</ref>。 |
[[山崎武司]]は著書の中で高代について上司に媚びる・監督に媚を売る・権力にものを言わせる・選手目線で対話できない指導者と記し、山崎は高代との確執でスタメンを外れることが多くなったという<ref>山崎武司著『さらば、プロ野球:ジャイアンの27年』、2014年、[[宝島社]]、P78-P80</ref>。 |
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2004年から2006年の3年間中日でコーチで同僚だった[[長嶋清幸]]作戦・外野守備走塁コーチ(当時)は「オレと高代さんの仲が悪いのは選手もみんな知っている。年下なのにいろいろと意見したことが気にいらなかったんだろ。でも選手をマイナス方向へ動かしたことはない。コーチが意見を出して決定するのは監督。やっかみだよな」と長嶋は高代との間に確執があったことまで示唆した<ref>解任長嶋コーチ[[落合博満|落合]]監督に捨てゼリフ、[[スポーツニッポン]]、2006年10月29日より</ref>。 |
2004年から2006年の3年間中日でコーチで同僚だった[[長嶋清幸]]作戦・外野守備走塁コーチ(当時)は'''''「オレと高代さんの仲が悪いのは選手もみんな知っている。年下なのにいろいろと意見したことが気にいらなかったんだろ。でも選手をマイナス方向へ動かしたことはない。コーチが意見を出して決定するのは監督。やっかみだよな」'''''と長嶋は高代との間に確執があったことまで示唆した<ref>解任長嶋コーチ[[落合博満|落合]]監督に捨てゼリフ、[[スポーツニッポン]]、2006年10月29日より</ref>。 |
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中日コーチ時代は球種を全て見破っているかのような素振りをするので、当時日ハムの[[ダルビッシュ有]]に嫌われていた<ref>{{cite news|author = |url = http://www.sankei.com/west/news/130623/wst1306230071-n1.html|title = WBC三塁コーチの舞台裏(5)ダルに嫌われ、金本の人生を変え、福留も…野球の財産、いつかタクトも振る|newspaper = 産経新聞|publisher = 産経新聞社|date=2013-06-23|accessdate=2018-08-11}}</ref>。 |
中日一軍野手総合チーフコーチ時代は球種を全て見破っているかのような素振りをするので、当時日本ハムの[[ダルビッシュ有]]に嫌われていた<ref>{{cite news|author = |url = http://www.sankei.com/west/news/130623/wst1306230071-n1.html|title = WBC三塁コーチの舞台裏(5)ダルに嫌われ、金本の人生を変え、福留も…野球の財産、いつかタクトも振る|newspaper = 産経新聞|publisher = 産経新聞社|date=2013-06-23|accessdate=2018-08-11}}</ref>。 |
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== 詳細情報 == |
== 詳細情報 == |
2019年3月5日 (火) 12:09時点における版
阪神タイガース 二軍チーフコーチ #70 | |
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2015年4月30日 阪神甲子園球場にて撮影 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 奈良県吉野郡下市町 |
生年月日 | 1954年5月27日(69歳) |
身長 体重 |
170 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 遊撃手 |
プロ入り | 1978年 ドラフト1位 |
初出場 | 1979年4月7日 |
最終出場 | 1989年10月18日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
| |
この表について
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高代 延博(たかしろ のぶひろ、1954年5月27日 - )は、奈良県吉野郡下市町出身の元プロ野球選手、プロ野球コーチ。
現在は阪神タイガース二軍チーフコーチを務める。
経歴
プロ入り前
智辯学園高校では内野手兼控え投手として活躍。1972年春季近畿大会で優勝を飾るが、甲子園には出場できなかった。高校同期に田中昌宏、1年下に柳原隆弘がいた。
卒業後は法政大学へ進学。東京六大学リーグでは3年生の時からレギュラーとして出場、2回の優勝に貢献。3年生秋に首位打者になる。1976年には明治神宮野球大会でも決勝で早稲田大学を降し優勝。リーグ通算50試合出場、190打数55安打、打率.289、1本塁打、17打点。ベストナイン3回(三塁手1回、遊撃手2回)。
卒業後は東芝に入社、中心打者として活躍する。1977年、1978年に都市対抗野球大会連続出場。1978年の大会ではチームの初優勝に貢献した。1977年には遊撃手として社会人ベストナインに選出され、第3回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表となっている。
実家の割り箸工場が石油ショックの影響で経営難に陥り、纏まった現金の用立てを迫られたためにプロ入りを決めた[1]。
プロ入り後
1978年のドラフト1位で日本ハムファイターズに入団。1年目から遊撃手のレギュラーに定着しチャンスメーカーとして活躍、同年のゴールデングラブ賞も受賞した。翌1980年にはベストナインにも選ばれた。1981年のリーグ優勝に貢献、同年の読売ジャイアンツとの日本シリーズでも全6試合に先発出場するが、22打数5安打1打点と真価を発揮できなかった。1984年には前半戦を故障欠場し定位置を岩井隆之に譲るが、8月にはレギュラーに復帰した。1985年、高代慎也(たかしろ しんや)に変更した。1987年には田中幸雄が台頭し、三塁手に回るが段々と出番が減る。
1988年10月28日に広島東洋カープへ鍋屋道桜、滝口光則らとの交換トレードで移籍[2]。
1989年、登録名を高代延博に戻し5試合に先発出場するが、同年限りで現役引退。
引退後
1990年から1998年まで広島一軍守備・走塁コーチを務める。三村敏之が監督の時、中日監督の星野仙一から再三「高代をコーチとして譲ってほしい」と打診があった。しかし、三村は「私がいるうちは高代だけは出せない」と拒否した。[3]
1998年10月21日に中日コーチへの就任が発表される。ノックを浴びせていた福留孝介、立浪和義のあまりの守備の緩慢さに大激怒し、「お前ら! PLに返すぞ!」と怒鳴り散らした。その後 2001年まで中日の一軍内野守備・走塁コーチを務めた。
2002年には古巣・日本ハムの一軍ヘッド兼内野守備・走塁コーチに就任、審判への暴力行為で出場停止となった監督の大島康徳の代わりに4月3日、4日のオリックス戦は監督代行を務め(成績2勝0敗)、同年退団。
2002年10月24日に大学の先輩・山本功児が監督を務めるロッテの一軍ヘッドコーチに就任したが山本の解任もあり1年限りで退団。
2003年10月15日に一軍野手総合チーフコーチとして中日に復帰すること発表され、翌2004年から2008年まで中日一軍野手総合チーフコーチを歴任。三塁ベースコーチとしての打球への判断がよく、中日がセ・リーグのペナントを制した2006年は本塁での憤死をリーグ最小の1にとどめた。2008年は、ベンチ専従となった。
2008年11月12日には第2回WBCの日本代表の内野守備・走塁コーチに就任した。三塁ベースコーチを担当し、WBC日本代表の連覇に貢献した。また、議論の的になった亀井義行の代表入りを推薦した。WBC終了後、株式会社スーパーエージェントとマネジメント契約し東京中日スポーツで野球評論家、古巣・東芝で臨時コーチを務めていた。 同年10月、韓国のハンファ・イーグルスの臨時インストラクターに就任し、翌年は同球団で総合コーチを務めた[4]。
2010年11月2日、翌2011年シーズンよりオリックス・バファローズの一軍ヘッドコーチを務めることが発表される。同年9月16日のロッテ戦からは走者の本塁憤死が多かったことから松山秀明一軍内野守備・走塁コーチに代わり、三塁ベースコーチも務めた[5]。シーズン最下位が確定した2012年9月25日、球団から監督の岡田彰布と共に休養(事実上の解任)を告げられ、同年シーズン終了を以って正式に退団。
2012年10月10日、野球日本代表の内野守備・走塁コーチに就任したことが発表された[6]。11月13日に、背番号が「63」となった事が発表された[7]。
2013年10月21日、翌2014年シーズンより阪神タイガースで一軍内野守備・走塁コーチに就任することが発表された。オリックス時代に続いて三塁のベースコーチを担当[8]。
2015年、一軍の戦兼内野守備走塁コーチに配置転換された。
2016年、広島のコーチ時代に指導した金本知憲監督を一軍ヘッドコーチとして支えながら、金本の意向で引き続き三塁のベースコーチを務めた[9]。2018年からは、前年まで一軍作戦兼バッテリーコーチを務めた矢野燿大が二軍監督に配置転換されたため、一軍作戦兼総合コーチに配置転換される。
2019年は二軍チーフコーチ。
コーチとして
前述のとおり、三塁ベースコーチとしての打球への判断がよく、2006年にはシーズン本塁憤死を1に留め中日のリーグ優勝に貢献した。野村克也は高代を「日本一の三塁ベースコーチ」と語り、メディアでも「日本一の三塁ベースコーチ」と称されることがある[10][11]。
毎日放送グループが「ホームイン with Tigers」(阪神の公式戦チーム総得点数に着目した応援キャンペーン)を展開していた2015年には、『ちちんぷいぷい』(MBSテレビ平日午後の情報番組)で阪神の得点シーンの映像を定期的に放送していたことから、阪神の三塁ベースコーチとして身振り手振りで塁上の走者に指示を送る高代を(「得点=ホームイン」という連想から)「虎のお帰りジャッジマン」と称していた[12]。
金本が阪神移籍後の2006年に連続フルイニング出場の世界記録を更新した際の会見では、「広島時代に自分に大きな影響を与えてくれた3人」のうち、「守備・走塁を根気よく教えてくれたコーチ」として高代の名を挙げた。高代自身も、広島時代に当時の監督・三村敏之から金本と共に野球観を学んだ縁で、金本の阪神一軍監督就任を機に一軍ヘッドコーチへ異動している[9]。
山崎武司は著書の中で高代について上司に媚びる・監督に媚を売る・権力にものを言わせる・選手目線で対話できない指導者と記し、山崎は高代との確執でスタメンを外れることが多くなったという[13]。
2004年から2006年の3年間中日でコーチで同僚だった長嶋清幸作戦・外野守備走塁コーチ(当時)は「オレと高代さんの仲が悪いのは選手もみんな知っている。年下なのにいろいろと意見したことが気にいらなかったんだろ。でも選手をマイナス方向へ動かしたことはない。コーチが意見を出して決定するのは監督。やっかみだよな」と長嶋は高代との間に確執があったことまで示唆した[14]。
中日一軍野手総合チーフコーチ時代は球種を全て見破っているかのような素振りをするので、当時日本ハムのダルビッシュ有に嫌われていた[15]。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1979 | 日本ハム | 123 | 432 | 397 | 48 | 99 | 19 | 1 | 7 | 141 | 47 | 14 | 5 | 11 | 6 | 16 | 0 | 2 | 39 | 8 | .249 | .278 | .355 | .633 |
1980 | 119 | 438 | 383 | 55 | 103 | 14 | 0 | 5 | 132 | 35 | 11 | 6 | 13 | 4 | 33 | 0 | 5 | 39 | 8 | .269 | .332 | .345 | .677 | |
1981 | 86 | 352 | 325 | 50 | 87 | 14 | 1 | 7 | 124 | 40 | 2 | 3 | 6 | 2 | 17 | 0 | 2 | 23 | 7 | .268 | .306 | .382 | .688 | |
1982 | 116 | 442 | 385 | 37 | 101 | 18 | 1 | 3 | 130 | 33 | 3 | 2 | 22 | 1 | 32 | 0 | 2 | 22 | 10 | .262 | .321 | .338 | .659 | |
1983 | 124 | 551 | 466 | 69 | 128 | 25 | 0 | 9 | 180 | 55 | 12 | 3 | 27 | 4 | 44 | 0 | 10 | 31 | 7 | .275 | .347 | .386 | .733 | |
1984 | 33 | 122 | 107 | 12 | 28 | 4 | 0 | 5 | 47 | 18 | 0 | 0 | 5 | 1 | 8 | 0 | 1 | 12 | 2 | .262 | .316 | .439 | .755 | |
1985 | 111 | 492 | 402 | 61 | 109 | 18 | 2 | 11 | 164 | 58 | 5 | 2 | 41 | 3 | 40 | 1 | 5 | 43 | 9 | .271 | .341 | .408 | .749 | |
1986 | 113 | 422 | 355 | 54 | 80 | 15 | 2 | 8 | 123 | 39 | 4 | 2 | 20 | 4 | 40 | 1 | 3 | 48 | 9 | .225 | .308 | .346 | .654 | |
1987 | 58 | 180 | 147 | 17 | 29 | 2 | 0 | 2 | 37 | 17 | 2 | 5 | 5 | 3 | 25 | 2 | 0 | 27 | 3 | .197 | .309 | .252 | .561 | |
1988 | 10 | 16 | 12 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1989 | 広島 | 24 | 35 | 32 | 2 | 8 | 1 | 0 | 0 | 9 | 4 | 1 | 1 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 6 | 1 | .250 | .286 | .281 | .567 |
NPB:11年 | 917 | 3482 | 3011 | 406 | 772 | 130 | 7 | 57 | 1087 | 346 | 54 | 29 | 151 | 29 | 260 | 4 | 30 | 291 | 64 | .256 | .319 | .361 | .680 |
通算監督成績
- 2試合2勝0敗0分、勝率1.000
表彰
- ベストナイン:1回(1980年)
- ダイヤモンドグラブ賞:1回(1979年)
記録
- 初記録
- 初出場・初先発出場:1979年4月7日、対ロッテオリオンズ前期1回戦(後楽園球場)、8番・遊撃手として出場
- 初安打:1979年4月12日、対南海ホークス前期3回戦(後楽園球場)、5回裏に佐々木宏一郎から
- 初打点:1979年4月24日、対近鉄バファローズ前期3回戦(後楽園球場)、4回裏に井本隆から
- 初本塁打:1979年5月17日、対西武ライオンズ前期10回戦(西武ライオンズ球場)、2回表に東尾修から先制2ラン
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:3回(1979年、1980年、1983年)
背番号
- 2 (1979年 - 1988年)
- 5 (1989年)
- 70 (1990年 - 1995年、2010年、2014年 - )
- 81 (1996年 - 1998年、2004年 - 2008年)
- 86 (1999年 - 2001年)
- 87 (2002年 - 2003年)
- 63 (2009年 WBC、2013年 WBC)
- 78 (2011年 - 2012年)
登録名
- 高代 延博 (たかしろ のぶひろ、1979年 - 1984年、1989年 - )
- 高代 慎也 (たかしろ しんや、1985年 - 1988年)
関連情報
著書
- 『WBCに愛があった。』(2009年6月:ゴマブックス)
- 『WBC 侍ジャパンの死角』(2013年6月:角川書店)
- 『高校球児に伝えたい! プロでも間違う守備・走塁の基本』(2013年12月:東邦出版)
- 『目指せ! 侍ジャパン 夢を現実にする「走攻守」の極意』(2015年2月:竹書房) ISBN 9784801901131
脚注
- ^ “WBC三塁コーチの舞台裏(3)あの江川と同部屋…おやじのためプロ入り”. 産経新聞 (産経新聞社). (2013年6月21日) 2018年8月11日閲覧。
- ^ 中国新聞社刊「カープの歩み 1949-2011」113ページ
- ^ 週刊ベースボール1999年選手名鑑号より
- ^ “侍ジャパン高代コーチ ハンファのコーチ就任”. Sponichi Annex (2010年1月17日). 2010年1月17日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “オリ三塁ベースコーチ交代 岡田監督「大きいミスが…」”. (2011年9月17日) 2013年3月9日閲覧。
- ^ 侍ジャパン 監督、コーチ NPB公式サイト (2012年10月10日) 2015年4月15日閲覧
- ^ 侍ジャパン 監督、コーチ背番号決定のお知らせ NPB公式サイト (2012年11月13日) 2015年4月15日閲覧
- ^ 高代延博氏のコーチ就任について阪神球団公式サイト2013年10月21日配信
- ^ a b “高代ヘッドコーチ 監督意向受け来季も三塁コーチ”. デイリースポーツ. (2015年10月26日) 2015年10月28日閲覧。
- ^ “「日本一の三塁コーチ」の異名はダテじゃない”. 東スポWeb. (2013年3月9日) 2013年3月9日閲覧。
- ^ “「日本一の三塁コーチ」高代延博が阪神を変える”. sportiva. (2014年1月17日) 2018年8月11日閲覧。
- ^ gooTV 『ちちんぷいぷい』2015年7月17日(金曜日)放送分「昨夜のホームイン! with Tigers」
- ^ 山崎武司著『さらば、プロ野球:ジャイアンの27年』、2014年、宝島社、P78-P80
- ^ 解任長嶋コーチ落合監督に捨てゼリフ、スポーツニッポン、2006年10月29日より
- ^ “WBC三塁コーチの舞台裏(5)ダルに嫌われ、金本の人生を変え、福留も…野球の財産、いつかタクトも振る”. 産経新聞 (産経新聞社). (2013年6月23日) 2018年8月11日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 高代延博 - NPB.jp 日本野球機構
- 高代延博 公式ブログ
- 野球のツボ - Yahoo!ニュース 個人