「二子玉川園」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
38行目: 38行目:


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[高村弘平]] - 設計者
* [[ナムコ・ワンダーエッグ]] - 閉園後、二子玉川タイムスパークの一角に立てられた遊戯施設。
* [[ナムコ・ワンダーエッグ]] - 閉園後、二子玉川タイムスパークの一角に立てられた遊戯施設。
* [[いぬたま・ねこたま]] - 閉園後、二子玉川タイムスパークの一角に立てられたテーマパーク。
* [[いぬたま・ねこたま]] - 閉園後、二子玉川タイムスパークの一角に立てられたテーマパーク。

2019年2月19日 (火) 05:35時点における版

1950年代の二子玉川園

二子玉川園(ふたこたまがわえん)は東京都二子玉川世田谷区玉川)にあった遊園地である。

現在の東急田園都市線大井町線二子玉川駅東口から200m程離れた位置にあった。閉園後の敷地は二子玉川タイムスパークとして転用され、その後は二子玉川東地区再開発により二子玉川ライズとなっている。

概要

二子玉川園恐竜展 コンクリート製の草食恐竜像

1922年玉川電気鉄道が開設した玉川第二遊園地が起源で、のち玉川電気鉄道を合併した東京横浜電鉄東京急行電鉄の経営・運営を経て、1985年に閉鎖された。

建設地は多摩川左岸に面した景勝地として知られた玉川の瀬田河原と呼ばれた土地である。太平洋戦争による休止前は、パラシュート練習場、玉川プールなどを擁した。戦時中はパラシュート練習場が、海軍空挺部隊陸軍挺進連隊の訓練設備として使用され、当時経営に関わっていた読売新聞社に陸軍から感謝状が贈られている。戦後はフライングコースター等の施設や映画館などを有した。また、原寸大のコンクリート製の草食恐竜像が存在した。松任谷由実の楽曲「かんらん車」はここの観覧車を題材としたものである。

昭和40年代初頭には、当時同じ世田谷区内にあった円谷プロ製作の、ウルトラシリーズのロケ地にも使われるようになったという。野外ステージでは「ウルトラマンショー」などが行われ、催事館には撮影グッズ展示などもあった[1]

正面入口前にはバスロータリーがあり、目黒駅多摩川園駅横浜駅砧本村との間を結ぶ東急バスが発着した。このバスロータリーは二子玉川地区再開発に伴い、移転・閉鎖され現存しない。

年表

自社の路線案内図に「玉川遊園地」「よみうり遊園」として紹介された二子玉川園(右上。『東横・目蒲電車沿線案内図』1938年)。この当時は多摩川スピードウェイ綱島温泉浴場も東京横浜電鉄の直営であった。
  • 1909年 - 玉川電気鉄道の手により、同社の集客施設として東京郊外の荏原郡玉川村大字瀬田に玉川遊園地を開設。浅草花屋敷に業務を委託。「玉川閣」と名付けられた演芸娯楽施設があった。遊戯施設が少ない代わりに大運動場があった。
  • 1922年 7月 - 多摩川沿いに玉川第二遊園地(玉川児童園)を開設。従来の遊園地は玉川第一遊園地(または瀬田遊園地)と呼ばれるようになる。
  • 1925年 6月 - 玉川第二遊園地に隣接して玉川プールを開場。
  • 1927年 - 玉川プールに隣接してテニスコートを設置。
  • 1929年 - 委託経営を取りやめ、玉川電気鉄道の直営となる。
  • 1938年4月1日 - 玉川電気鉄道は東京横浜電鉄に合併。
  • 1939年3月10日 - 玉川第二遊園地は読売新聞と提携し、読売遊園と改称。のちにパラシュート練習塔が設けられる。(戦後、江ノ島に灯台として移築)
  • 1944年 - 玉川第一遊園地を閉鎖。また、読売遊園も休業。東急社員向けの農場に転用される。
  • 1954年3月27日 - 玉川第二遊園地が、東急不動産の手により、二子玉川園として再開。
  • 1955年4月1日 - 東京急行電鉄が経営を受託。
  • 1956年4月20日 - 名物となるフライングコースターを設置(閉園時まで稼働)。
  • 1957年9月30日 - 映画館・二子東急を開館。
  • 1957年12月1日 - 五島ローズガーデンを開園。
  • 1985年3月31日 - 閉園。跡地は二子玉川タイムスパークになる。

アクセス

東急大井町線・東急田園都市線・東急新玉川線 二子玉川園駅下車(各名称は閉鎖当時のもの)。

脚注

  1. ^ 白土健・青井なつき 『なぜ、子どもたちは遊園地に行かなくなったのか?』 創成社新書 2008年 p.74

関連項目