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役の行者([[役小角]])が石鎚山の頂上を目指すもあまりの厳しさで諦めて下山しようとしたとき、斧(鈇)を砥石で磨ぐ老人に出会い、行者が問うと曰く「之は磨いて針にするのだ」と、この言葉に行者は挫折してはならない「成せば成る」と自分に言い聞かせ再び頂上に向かい、ついには登り着き修行を続けると釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するため合体し石鈇[[蔵王権現]]となって現れたのを感得した。その後、行者が当地(現在は[[石鎚神社]]中宮成就社のある場所)まで下山してきたとき「わが願い成就せり」と云ったといわれる。そして、その尊像を彫って祀ったのが当寺の開基とされている。 |
役の行者([[役小角]])が石鎚山の頂上を目指すもあまりの厳しさで諦めて下山しようとしたとき、斧(鈇)を砥石で磨ぐ老人に出会い、行者が問うと曰く「之は磨いて針にするのだ」と、この言葉に行者は挫折してはならない「成せば成る」と自分に言い聞かせ再び頂上に向かい、ついには登り着き修行を続けると釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するため合体し石鈇[[蔵王権現]]となって現れたのを感得した。その後、行者が当地(現在は[[石鎚神社]]中宮成就社のある場所)まで下山してきたとき「わが願い成就せり」と云ったといわれる。そして、その尊像を彫って祀ったのが当寺の開基とされている。 |
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後に石仙<ref>寂仙・上仙とも云われ同一人物とみられている</ref>(しゃくせん)が[[桓武天皇]]([[782年]]〜[[805年]])の病気平癒を[[祈願]]し[[成就]]したことによって当地に[[七堂伽藍]]が建てられ「金色院前神寺」の称号を下賜され、石仙には菩薩号を賜ったと伝えられる。さらに『三教指帰』に[[空海]](弘法大師)自ら記されているように空海も若い時に石鎚山で修行をし、後年、当寺を巡錫している。また、[[文徳天皇]]、[[高倉天皇]]、[[後鳥羽天皇]]、[[順徳天皇]]、[[後醍醐天皇]]など多くの歴代[[天皇]]の[[信仰]]が厚かったことでも知られる。なお、当寺は山頂の弥山に存在する[[石鉄権現|石鈇山大権現]]の[[別当寺]]で、東の遥拝所でもあった。 |
後に石仙<ref>寂仙・上仙とも云われ同一人物とみられている</ref>(しゃくせん)が[[桓武天皇]]([[782年]]〜[[805年]])の病気平癒を[[祈願]]し[[成就]]したことによって当地に[[七堂伽藍]]が建てられ勅願寺とし「金色院前神寺」の称号を下賜され、石仙には菩薩号を賜ったと伝えられる。さらに『三教指帰』に[[空海]](弘法大師)自ら記されているように空海も若い時に石鎚山で修行をし、後年、当寺を巡錫している。また、[[文徳天皇]]、[[高倉天皇]]、[[後鳥羽天皇]]、[[順徳天皇]]、[[後醍醐天皇]]など多くの歴代[[天皇]]の[[信仰]]が厚かったことでも知られる。なお、当寺は山頂の弥山に存在する[[石鉄権現|石鈇山大権現]]の[[別当寺]]で、東の遥拝所でもあった。 |
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江戸時代初期には、札所としての便宜をはかるため麓に出張所として里前神寺(現在の石鎚神社口之宮本社の場所)を設置し、本寺を奥前神寺と呼び区分するようになった。なお、奥前神寺から山頂弥山への登拝は、6月1日から3日の三日間しか許されていなかった<ref>寂本『四國徧禮霊場記』の里前神寺の項より</ref>。また、[[西条藩]]主である[[松平家]]の信仰も集め松平頼純は寛文10年(1670年)[[東照宮]]を里前神寺にまつり、[[三葉葵]]の寺紋を許した。 |
江戸時代初期には、札所としての便宜をはかるため麓に出張所として里前神寺(現在の石鎚神社口之宮本社の場所)を設置し、本寺を奥前神寺と呼び区分するようになった。なお、奥前神寺から山頂弥山への登拝は、6月1日から3日の三日間しか許されていなかった<ref>寂本『四國徧禮霊場記』の里前神寺の項より</ref>。また、[[西条藩]]主である[[松平家]]の信仰も集め松平頼純は寛文10年(1670年)[[東照宮]]を里前神寺にまつり、[[三葉葵]]の寺紋を許した。 |
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昭和22年(1947年)御室派から独立、真言宗石鈇派の総本山となった。 |
昭和22年(1947年)御室派から独立、真言宗石鈇派の総本山となった。 |
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その後、本堂は火災で焼失、昭和47年(1972年)再建された。 |
その後、本堂は火災で焼失、昭和47年(1972年)再建された。 |
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== 境内 == |
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[[ファイル:Maeɡamizi0ø.jpg|thumb|180px|桜満開の山門付近]] |
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2019年1月15日 (火) 13:30時点における版
前神寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 愛媛県西条市洲之内甲1426番地 |
位置 | 北緯33度53分24.8秒 東経133度09分38.4秒 / 北緯33.890222度 東経133.160667度座標: 北緯33度53分24.8秒 東経133度09分38.4秒 / 北緯33.890222度 東経133.160667度 |
山号 | 石鈇山 |
宗派 | 真言宗石鈇派 |
寺格 | 総本山 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 奈良時代の初期 |
開基 | 役小角 |
正式名 | 石鈇山 金色院 前神寺 |
札所等 | 四国八十八箇所64番 |
法人番号 | 6500005004023 |
前神寺(まえがみじ)は、愛媛県西条市州之内にある真言宗石鈇派総本山の寺院。石鈇山(いしづちさん)、金色院(こんじきいん)と号す。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所霊場の第六十四番札所。日本七霊山の1つ、霊峰石鎚山 (1982m) の麓に位置する。
ご本尊真言:おん あみりた ていぜい からうん
ご詠歌:前は神 後は仏 極楽の よろずの罪を くだくいしづち
納経印:当寺本尊、奥前神寺石鈇山蔵王大権現
概要
西日本最高峰石鎚山の7合目標高1400mにあり、発祥より千年法灯を守ってきた山岳寺院であったが、江戸時代以降の変遷により、麓の西田に本拠を移すも、数十年後の神仏分離令により廃寺の憂き目に遭い苦難の末再建し現在の隆盛に繋げている。本堂前での柴燈護摩は節分・お山開き開闢・閉闢の年三回あり、さらにお山開き開闢時には石鎚登山ロープウェイ下谷駅前でも催行され、不動護摩は、新年当初と毎月20日行われ、新年当初には護摩堂に続いて奥前神寺でも管長自ら導師として催行している。
歴史
役の行者(役小角)が石鎚山の頂上を目指すもあまりの厳しさで諦めて下山しようとしたとき、斧(鈇)を砥石で磨ぐ老人に出会い、行者が問うと曰く「之は磨いて針にするのだ」と、この言葉に行者は挫折してはならない「成せば成る」と自分に言い聞かせ再び頂上に向かい、ついには登り着き修行を続けると釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するため合体し石鈇蔵王権現となって現れたのを感得した。その後、行者が当地(現在は石鎚神社中宮成就社のある場所)まで下山してきたとき「わが願い成就せり」と云ったといわれる。そして、その尊像を彫って祀ったのが当寺の開基とされている。 後に石仙[1](しゃくせん)が桓武天皇(782年〜805年)の病気平癒を祈願し成就したことによって当地に七堂伽藍が建てられ勅願寺とし「金色院前神寺」の称号を下賜され、石仙には菩薩号を賜ったと伝えられる。さらに『三教指帰』に空海(弘法大師)自ら記されているように空海も若い時に石鎚山で修行をし、後年、当寺を巡錫している。また、文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かったことでも知られる。なお、当寺は山頂の弥山に存在する石鈇山大権現の別当寺で、東の遥拝所でもあった。
江戸時代初期には、札所としての便宜をはかるため麓に出張所として里前神寺(現在の石鎚神社口之宮本社の場所)を設置し、本寺を奥前神寺と呼び区分するようになった。なお、奥前神寺から山頂弥山への登拝は、6月1日から3日の三日間しか許されていなかった[2]。また、西条藩主である松平家の信仰も集め松平頼純は寛文10年(1670年)東照宮を里前神寺にまつり、三葉葵の寺紋を許した。
文政8年(1825)別当を名乗るようになっていた横峰寺と別当職の独占を争い幕府の裁定を受け、勝つことができたため、奥前神寺は常住社、里前神寺は前神寺と称するようになり本寺の機能も移されるようになった。
明治の神仏分離令により、常住社(奥前神寺)と前神寺(里前神寺)ともに石鎚神社となり、当寺は廃寺となる。また、東照宮は明治5年西条市大町に西条東照宮として移転した[3]。なお、廃寺となり前神寺を出る時、本尊と権現像と僅かの寺宝は持ち出し、その後、1878年(明治11年)に塔頭寺院の医王院のあった現在地に前上寺として復興され、1907年、前神寺の旧称に復す。奥前神寺は、今宮道の最終地点に再興され、さらに石鎚登山ロープウェイの開通(1969年開業)の翌年に山上駅の上の現在地に移転される。
昭和22年(1947年)御室派から独立、真言宗石鈇派の総本山となった。 その後、本堂は火災で焼失、昭和47年(1972年)再建された。
境内
浄土橋
- 十三仏像(舟形石仏)
- 水子地蔵菩薩像(鋳造像)
- 修行大師像(レリーフ石像)
- 金毘羅堂(小堂)
- 穴薬師(側面に掘られた祠)
- 大師堂:全身真っ黒い大師像。玉眼。不定期で拝顔できる。
- 鐘楼堂
- 庫裡・納経所
極楽橋
- 駐車場:30台、大型5台、無料。
- 山門(惣門)
惣門をくぐって参道を進み左に折れて薬師谷川をわたると右手に手水場、鐘楼が左手に庫裏・納経所がある。そして右に折れると左に大師堂、穴薬師が右には金毘羅堂、修行大師像、水子地蔵菩薩像が並び、浄土橋を渡ると右に水が滴り落ちるお滝不動明王像、弁財天祠、稲荷社祠がある。石段を上がるとすぐに護摩堂、薬師堂があって、最も奥に本堂が建つ。本堂右の丘に石鉄権現堂がある。参道の鬱蒼とした杉・檜の木立や古い灯籠が何基も立ち並ぶ境内には、老樹が生い茂り、深山幽谷の佇まいを見せている。
- 宿坊:なし
文化財
西条市指定書跡
- 石鎚修験道に関する古文書(御室御所ご裁許後道後先達中の披露の節定書:巻物一巻、修験道に関する綴:一冊)昭和51年3月10日指定
行事
- 毎月20日 権現様縁日
- 石鉄権現堂で、20時00分から開帳される3体の蔵王権現に体の悪い部分をこすりつけて病気平癒を祈願する。
- 御開帳後は護摩堂にて護摩祈祷で御縁日を締めくくる。
- 7月1日からの10日間 山開き
- 6月30日午前7時に前神寺本堂前で柴灯護摩を催行後、開創以来脈々と受け継がれた三体の権現様と一緒に信者達はバスで石鎚山ロープウェイ下谷駅に向かう。
- 午前9時ごろ下谷駅の後方広場で柴灯護摩を行い、ロープウェイで山上駅へ上がり奥前神寺に到着後、権現様の御開帳が行われ午前10時頃には本日の行事は終了。
- 7月1日から10日は、奥前神寺で朝夕5時より護摩が焚かれ参拝者を迎え入れる。この期間は志料で権現様の開帳を受けることができ、特別護摩も随時催行される。
- 7月11日午前6時に奥前神寺を出発した権現様と信者達はロープウェイで下山。一方、前神寺を午前6時にバスで山に向かった信者達と下谷駅で合流後、白衣に身をかためた信者や山伏たち一行が法螺貝の音に仏の名を称えながら3つの唐櫃(からびつ)に入れられた権現像を担ぎ黒瀬峠を越え前神寺へ列をなし約20kmを歩いて帰る。途中、御旅所で待ち構えた一般信徒は拝戴を受ける。帰寺後、待ち構えた信徒たちと昼頃本堂前で柴燈護摩が行われる。
交通案内
- 鉄道
- バス
- せとうちバス 新居浜駅行き・マイントピア行き「石鎚神社」下車 (0.5km)
- 道路
奥の院
- 奥前神寺
成就から今宮道の終点近くの今宮道に面した所に奥前神は移されていたが、ロープウェイ開通により、その翌年に、現在の場所にお堂が建設される。その場所には現在、前神寺コテージが建っている。
- 所在地:愛媛県西条市小松町石鎚417 北緯33度47分38.6秒 東経133度07分55.4秒
- 本尊:石鈇山蔵王大権現
なお、石の口の上に点を付けた石の古字『䂖』を使う場合があり、これは古いを強調し此方が本家であることを意味する。
- 納経印:7月1日から10日までの間のみ現地でも納経を行う、それ以外は里の当寺にて。なお、現地ですると天狗印がプラスされる。
-
奥前神寺
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石鈇山大権現
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前神寺コテージ
隣の札所
周辺情報
- 弘法水:海中から真水が湧いている。北緯33度55分43.15秒 東経133度10分28.22秒
- 湯之谷温泉
- 石鎚神社
- 石鎚スカイライン
- 面河渓
参考文献
- 四国八十八箇所霊場会 編 『先達教典』 2006年
- 宮崎建樹 著 『四国遍路ひとり歩き同行二人』地図編 へんろみち保存協力会 2007年(第8版)
関連項目
外部リンク
- 第64番札所 石鈇山 金色院 前神寺(四国八十八ヶ所霊場会公式)