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'''革新主義'''(かくしんしゅぎ、{{lang-en-short|Progressivism}}{{refnest|name="ニッポニカ"|[ 「プログレシビズム」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。}})とは[[イデオロギー]]、[[主義]]の類型のひとつ。[[市場]]を信頼せず、[[計画経済]]や[[統制経済]]などの公的介入によって[[経済格差]]などの[[社会問題]]や社会的不平等を是正や、[[政治]]機構の改革などを主張する[[左派]]思想のこと。広義には、[[社会改良主義|改革主義]]、[[急進主義]]、[[共産主義]]、[[社会主義]]、[[社会民主主義]]、[[進歩主義]]などを含む。
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2019年1月6日 (日) 15:30時点における版

革新主義(かくしんしゅぎ、: Progressivism[1])とはイデオロギー主義の類型のひとつ。市場を信頼せず、計画経済統制経済などの公的介入によって経済格差などの社会問題や社会的不平等を是正や、政治機構の改革などを主張する左派思想のこと。広義には、改革主義急進主義共産主義社会主義社会民主主義進歩主義などを含む。

概説

政治学経済学などの 社会科学においては、市場を絶対的に信頼することをせず、政府の公的な介入によって経済格差を是正しようとする平等主義的な思想のことをさす。

広い意味では、改革主義、急進主義、共産主義、社会主義、社会民主主義、進歩主義、ナチズムファシズム民主主義リベラリズムなどを含む。この意味では、自由主義保守主義などと対置されることがある。

革新主義には左翼革新主義だけでなく、右翼革新主義もありうる。たとえば、ロシア革命に見られるマルクス主義レーニン主義スターリン主義が左翼革新主義であるのに対して、第1次世界大戦後のドイツやイタリアのナチズムファシズムは右翼革新主義であるといえる。

また、アメリカにおけるセオドア・ルーズヴェルトからウッドロウ・ウィルソン大統領に至るまで、独占資本主義・トラスト同盟によって生じた社会問題を、公共の利益という観点から連邦政府が経済に介入するようになったProgressivismが「革新主義」と訳される。

日本における革新主義の歴史

明治

日本においては、明治維新の殖産興業により産業革命が進行するのに伴い、社会問題が発生し、労働運動などが展開されるようになる。

明治30年、高野房太郎片山潜らによって労働組合期成会が結成され、翌明治31年(1898年)に幸徳秋水と片山らが社会主義研究会を結成された。

さらに明治34年には、安部磯雄、片山潜、木下尚江、幸徳秋水、西川光二郎河上清らが日本で最初の社会主義政党である社会民主党を結成したが直後に禁止された。

明治44年に大逆事件が起こり、幸徳を筆頭に24名が死刑判決を受けた。これにより社会主義運動は下火になる。

大正

大正デモクラシーの時代に、黎明会新人会民人同盟会友愛会日本労働総同盟日本農民組合新婦人協会全国水平社日本共産党など諸団体が結成され、河上肇によるの「貧乏物語」(大阪朝日新聞)の連載など革新主義が台頭した。

麻生久佐野学棚橋小虎野坂参三らによって木曜会が開催され、これらの人々の後援により、大正7年(1918年)2月に赤松克麿を中心に東京帝国大学学生らによる新人会が発足し、これには石浜知行、嘉治隆一、門田武雄、児島健爾、佐々弘雄、荘原達、新明正道、平貞蔵石渡春雄波多野鼎早坂二郎、細野三千雄、宮崎龍介三輪寿荘、山崎一雄、松沢兼人蝋山政道らが参加した。

翌大正8年(1919年)2月には早稲田大学でも北沢新次郎大山郁夫教授のもとにロシア革命を公然と賛美する民人同盟会が結成され、浅沼稲次郎荒井邦之助稲村隆一川合義虎川崎悦行、佐野学、浦田武雄高野実高津正道平田晋作八幡博堂渡辺政之輔らが参加する。また、早稲田には建設者同盟が組織され、これには、浅沼稲次郎、稲村隆一、田所輝明、平野力三などが所属していた。高津のグループは明治以来の古い社会主義者とも交流があった。

アナキストとしては、北風会の大杉栄、近藤憲二らがいた。荒畑寒村、堺利彦、山川均ら共産主義者も大正7 - 8年にかけて活動した。

以上のさまざまな社会主義者たちの大同団結として、大正9年に日本社会主義研究会が結成されるが、翌年の5月に解散する。

大正9年(1920年)4月ごろに、堺利彦を委員長に、片山潜、近藤栄蔵、橋浦時雄、山川均、荒畑寒村らが日本共産党準備会(コミンテルン日本支部準備会)を結成した。また民人同盟会の高津らは暁民会を結成したが、これは大正10年12月に一斉検挙にあい解消した(「暁民共産党事件」)。同年8月には、稲村隆一、田所輝明、徳田球一、山川均、渡辺政之輔らが水曜会を組織する。

大正11年7月には日本共産党(第一次共産党)が結成される。党員は、堺、荒畑、徳田、山川、野坂、佐野学、鍋山貞親、猪俣津南雄らである。同年11月にペトログラード、モスクワで開催されたコミンテルン第4回大会で正式に承認され、コミンテルン日本支部=日本共産党となる。コミンテルン作成の綱領(テーゼ)を審議するため、同年12月に千葉県市川で第2回党大会、翌大正12年の3月に臨時党大会を開くが綱領の審議は未了のまま、6月に一斉検挙にあい、荒畑を除く指導部全員の意見として解答してしまう。

昭和

ドイツにおける左翼革新派

1926 - 28年ごろに文部省によってドイツに派遣された留学生、有沢広巳谷口吉彦、堀江邑一、舟橋純一山本勝市、蝋山政道らによって組織された社会科学研究会が結成された。1927年にドイツ共産党に入党した国崎定洞菊池勇夫千田是也高野岩三郎土屋喬雄蜷川虎三らとともにこれに参加した。やがて国崎はベルリン滞在中の日本の革新主義者たちを糾合して、ドイツ共産党日本語部を結成する。国崎や千田の周辺で「ベルリン反帝グループ」として活動した在独日本人左翼青年は、安達鶴太郎嬉野満洲雄大岩誠、小栗喬太郎、小林陽之助佐野碩勝本清一郎喜多村浩小林義雄三枝博音服部英太郎与謝野譲藤森成吉島崎蓊助野村平爾平野義太郎三宅鹿之助八木政三和井田一雄など錚々たるメンバーであった。

右翼的革新派

昭和には、陸軍内部に、北一輝の思想に共鳴して「昭和維新」を唱えて、後に二・二六事件を引き起こした皇道派と、総力戦に備えて、国力を最も有効に発揮するために、人的・物的資源の動員・再配置を、政府と軍部が計画的に行うべきだとする統制派が存在し、官僚機構では、満州事変以後、統制経済の進展を背景に政治に進出して、政治家以上の発言権を持ち、国防国家体制への移行を目指した内務官僚を中心とする新官僚(後藤文夫など)や、日中戦争の全面化とともに、企画院において経済統制・総動員計画などを立案・推進し、国家総動員法の制定などでも活躍した経済官僚を中心とする革新官僚(星野直樹岸信介など)が存在した。外務省にも牛場信彦白鳥敏夫などの革新官僚が多数いた[2]

北一輝が『日本改造法案大綱』を著すと、西田税は陸海軍の青年将校らを糾合し、「昭和維新」を目指した。また大川周明は、橋本欣五郎らの桜会と結び、クーデターを計画して、三月事件十月事件を引き起こす。

戦後

参考文献

脚注

  1. ^ [ 「プログレシビズム」 - 日本大百科全書(ニッポニカ)]、小学館。
  2. ^ 戸部良一『外務省革新派』中公新書

関連項目