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中学3年時には第9回[[天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会|全国都道府県対抗男子駅伝競走大会]]に神奈川県代表として出場。2区を走り区間17位の成績を残した。
中学3年時には第9回[[天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会|全国都道府県対抗男子駅伝競走大会]]に神奈川県代表として出場。2区を走り区間17位の成績を残した。


2004年に藤枝明誠高校に進学。
[[2004年]]に藤枝明誠高校に進学。
当初より主力として活躍し、チームが2年ぶりに出場した[[全国高等学校駅伝競走大会|全国高校駅伝]]では5区を務めた。
当初より主力として活躍し、チームが2年ぶりに出場した[[全国高等学校駅伝競走大会|全国高校駅伝]]では5区を務めた。
翌2006年には2度目の全国高校駅伝に出場、アンカーを務めた。
[[2006年]]には2度目の全国高校駅伝に出場、アンカーを務めた。


箱根駅伝出場を目指し、2007年に箱根の古豪日本体育大学(体育学部)に進学したものの、部内の雰囲気になじめずわずか2ヶ月で退部・大学も退学してしまう。その後、実家の近くの公園で1人で練習を続けていたが、その姿が近くに拠点を置き、箱根駅伝初出場を目指している松蔭大学のマネージャーの目に留まり、翌2008年に松蔭大学に再入学し、箱根駅伝を目指すことになった。
[[東京箱根間往復大学駅伝競走|箱根駅伝]]出場を目指し、[[2007年]]に箱根の古豪日本体育大学(体育学部)に進学したものの、部内の雰囲気になじめずわずか2ヶ月で退部・大学も退学してしまう。その後、実家の近くの公園で1人で練習を続けていたが、その姿が近くに拠点を置き、箱根駅伝初出場を目指している松蔭大学のマネージャーの目に留まり、翌[[2008年]]に松蔭大学に再入学し、箱根駅伝を目指すことになった。
元々、箱根駅伝出場常連校である日体大に1度は入学したこともあり、1年生ながらも部内では走力のある選手であった。
元々、箱根駅伝出場常連校である日体大に1度は入学したこともあり、1年生ながらも部内では走力のある選手であった。
[[第85回東京箱根間往復大学駅伝競走|第85回箱根駅伝]]予選会は、学内1位となる個人48位に入るも、チームは予選会19位に終わり、母校の初出場はならなかったが、本大会出場を逃した大学の選手の中では9番目のタイムで、1年生ながら学連選抜入りを果たす。
[[第85回東京箱根間往復大学駅伝競走|第85回箱根駅伝]]予選会は、学内1位となる個人48位に入るも、チームは予選会19位に終わり、母校の初出場はならなかったが、本大会出場を逃した大学の選手の中では9番目のタイムで、1年生ながら学連選抜入りを果たす。


自身初出場となった第85回箱根駅伝本大会では7区にエントリーされ、学習院大学4年の[[川内優輝]]から11位でタスキを受け取ると、区間5位の成績を残して、順位を2つ上げ、総合9位と2年連続シード権獲得に貢献した。
自身初出場となった第85回箱根駅伝本大会では7区にエントリーされ、[[学習院大学]]4年の[[川内優輝]]から11位でタスキを受け取ると、区間5位の成績を残して、順位を2つ上げ、総合9位と2年連続シード権獲得に貢献した。
なお、1年生では梶原以外に流通経済大学の下田貴志が学連選抜に選ばれ3区に区間エントリーされていたが、当日に平成国際大学の佐藤雄治にエントリー変更となったため、梶原が学連選抜の中では1年生で唯一走ったメンバーとなった。
なお、1年生では梶原以外に[[流通経済大学]]の下田貴志が学連選抜に選ばれ3区に区間エントリーされていたが、当日に[[平成国際大学]]の佐藤雄治にエントリー変更となったため、梶原が学連選抜の中では1年生で唯一走ったメンバーとなった。


2009年の[[第86回東京箱根間往復大学駅伝競走|第86回箱根駅伝]]予選会は、2年連続学内1位となる個人35位に入るも、チームは予選19位に終わり、またしても母校の初出場はならなかったが、本大会出場を逃した大学の選手の中では4番目のタイムで、2年連続の学連選抜入りを果たす。
[[2009年]]の[[第86回東京箱根間往復大学駅伝競走|第86回箱根駅伝]]予選会は、2年連続学内1位となる個人35位に入るも、チームは予選19位に終わり、またしても母校の初出場はならなかったが、本大会出場を逃した大学の選手の中では4番目のタイムで、2年連続の学連選抜入りを果たす。
本大会では2年連続の7区を走ったものの、残り数キロで足が痙攣する事態で区間20位に終わり、チームも見た目順位最下位に落ち(実際順位は11位から16位に順位を下げる)、3年連続シード入りを逃す。
本大会では2年連続の7区を走ったものの、残り数キロで足が痙攣する事態で区間20位に終わり、チームも見た目順位最下位に落ち(実際順位は11位から16位に順位を下げる)、3年連続シード入りを逃す。


2010年の[[第87回東京箱根間往復大学駅伝競走|第87回箱根駅伝]]予選会は、3年連続学内1位となる個人21位に入るも、チームは予選15位に終わり、またしても母校の初出場はならなかったが、本大会出場を逃した大学の選手の中では2番目のタイムで、3年連続の学連選抜入りを果たす。
[[2010年]]の[[第87回東京箱根間往復大学駅伝競走|第87回箱根駅伝]]予選会は、3年連続学内1位となる個人21位に入るも、チームは予選15位に終わり、またしても母校の初出場はならなかったが、本大会出場を逃した大学の選手の中では2番目のタイムで、3年連続の学連選抜入りを果たす。
本大会では学連選抜メンバーの中で過去の経験値が高かったことから花の2区に抜擢される。1時間08分50秒とタイム的にはそれほど悪くはなかったが、全体のペースが速く、区間12位であった。
本大会では学連選抜メンバーの中で過去の経験値が高かったことから花の2区に抜擢される。1時間08分50秒とタイム的にはそれほど悪くはなかったが、全体のペースが速く、区間12位であった。


2011年9月24日に行われた[[日体大長距離記録会|日体大記録会]]で、28分52秒55と自身初の10000m28分台を記録した。
[[2011年]]9月24日に行われた[[日体大長距離記録会|日体大記録会]]で、28分52秒55と自身初の10000m28分台を記録した。
同年の[[第88回東京箱根間往復大学駅伝競走|第88回箱根駅伝]]予選会は、4年連続となる学内1位となるも、目標としていた10位以内には届かず個人20位に終わり、他の選手も不調でチームは予選会17位に終わり、ついに在学中に母校の初出場はならなかったが、史上初の4年生連続の学連選抜入りを果たす。
同年の[[第88回東京箱根間往復大学駅伝競走|第88回箱根駅伝]]予選会は、4年連続となる学内1位となるも、目標としていた10位以内には届かず個人20位に終わり、他の選手も不調でチームは予選会17位に終わり、ついに在学中に母校の初出場はならなかったが、史上初の4年生連続の学連選抜入りを果たす。
最後の箱根となった第88回箱根駅伝では、3区を区間11位で走った。
最後の箱根となった第88回箱根駅伝では、3区を区間11位で走った。


母校及び学連選抜の両方で4年連続箱根駅伝を走った選手は法政大学OBの姜山佑樹、明治大学OBの[[石川卓哉]]、神奈川大学OBの森本卓司、東海大学OBの早川翼等、数例あるが、在学中いずれも母校が出場権を逃し、かつ学連選抜入りして走ったのは梶原が初であった。<!--
母校及び学連選抜の両方で4年連続箱根駅伝を走った選手は[[法政大学]]の姜山佑樹、[[明治大学]]の[[石川卓哉]]、[[神奈川大学]]の森本卓司、[[東海大学]]の早川翼等、数例あるが、在学中いずれも母校が出場権を逃し、かつ学連選抜入りして走ったのは梶原が初であった。<!--


なお、学連選抜は[[第90回東京箱根間往復大学駅伝競走|第90回箱根駅伝]]で一旦廃止され、[[第91回東京箱根間往復大学駅伝競走|第91回箱根駅伝]]から「関東学生連合チーム」として復活することになったが、この際本大会への選抜メンバーは本大会出場回数が2回を超えない選手に限定されることになった(但し、この出場回数は第91回大会への出場から適用され、第90回以前の出場はカウントされない)。第89回大会まで梶原以外学連選抜だけで4年間出場した選手は皆無であり、今後規約が改正されない限り、学連選抜だけで4年間出場することは不可能になる<ref>[http://www.kgrr.org/event/2014/kgrr/91-hakone/91sennbatu_hakone.pdf 東京箱根間往復大学駅伝競走における 関東学連選抜チームについて ]</ref>。-->
なお、学連選抜は[[第90回東京箱根間往復大学駅伝競走|第90回箱根駅伝]]で一旦廃止され、[[第91回東京箱根間往復大学駅伝競走|第91回箱根駅伝]]から「関東学生連合チーム」として復活することになったが、この際本大会への選抜メンバーは本大会出場回数が2回を超えない選手に限定されることになった(但し、この出場回数は第91回大会への出場から適用され、第90回以前の出場はカウントされない)。第89回大会まで梶原以外学連選抜だけで4年間出場した選手は皆無であり、今後規約が改正されない限り、学連選抜だけで4年間出場することは不可能になる<ref>[http://www.kgrr.org/event/2014/kgrr/91-hakone/91sennbatu_hakone.pdf 東京箱根間往復大学駅伝競走における 関東学連選抜チームについて ]</ref>。-->


2012年、[[プレス工業]]に入社。
[[2012年]]、[[プレス工業]]に入社。


2013年、[[びわ湖毎日マラソン]]で初マラソンを走り、2時間18分01秒の34位となった。
[[2013]]年、[[びわ湖毎日マラソン]]で初マラソンを走り、2時間18分01秒の34位となった。


2013年9月29日に行われた日体大記録会では、5000mを自己ベストとなる13分36秒79で走り、1993年に仲村明(当時[[富士通]]所属、現[[順天堂大学]]駅伝監督)の持っていた5000m神奈川県記録を20年ぶりに更新した。
2013年9月29日に行われた日体大記録会では、5000mを自己ベストとなる13分36秒79で走り、1993年に仲村明(当時[[富士通]]所属)の持っていた5000m神奈川県記録を20年ぶりに更新した。


2013年、2014年に行われた[[全日本実業団対抗駅伝競走大会|ニューイヤー駅伝]]では2年連続で最長距離となるエース区間である4区を走った。
2013年、[[2014年]]に行われた[[全日本実業団対抗駅伝競走大会|ニューイヤー駅伝]]では2年連続で最長距離となるエース区間である4区を走った。


2014年、自身3度目の出場となった第19回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会では強力選手が走る3区を区間4位で走り順位を2位に上げ、神奈川県史上最高の総合9位に貢献した。
2014年、自身3度目の出場となった第19回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会では強力選手が走る3区を区間4位で走り順位を2位に上げ、神奈川県史上最高の総合9位に貢献した。


2015年のニューイヤー駅伝では1区を走り、区間賞を獲得した[[大迫傑]](当時[[日清食品グループ]]所属)に最後まで食らいつき区間2位で襷をつなぎ、チーム史上最高の総合21位に貢献。プレス工業はニューイヤー駅伝初出場以来6年連続で最高順位を更新することとなった。同年10月にプレス工業を退部。今後は市民ランナーとして競技を続けるということを、本人Twitter上で表明してい
[[2015年]]のニューイヤー駅伝では1区を走り、区間賞を獲得した[[大迫傑]](当時[[日清食品グループ]]所属)に最後まで食らいつき区間2位で襷をつなぎ、チーム史上最高の総合21位に貢献。プレス工業はニューイヤー駅伝初出場以来6年連続で最高順位を更新することとなった。同年10月にプレス工業を退部。今後は市民ランナーとして競技を続けるということを、Twitter上で表明してい

[[2017年]]から[[佐賀県]][[小城市]]のひらまつ病院に所属。


== 主な戦績 ==
== 主な戦績 ==

2018年11月7日 (水) 11:12時点における版

梶原 有高
Aritaka KAJIWARA
Portal:陸上競技
選手情報
国籍 日本の旗 日本
種目 長距離種目
生年月日 (1988-06-16) 1988年6月16日(35歳)
生誕地 日本の旗 神奈川県愛川町
身長 167cm
体重 54kg
自己ベスト 5000m:13分36秒79(2013年
10000m:28分13秒42(2015年
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梶原 有高(かじわら ありたか、1988年6月16日 - )は、神奈川県愛川町出身の陸上競技選手。専門は長距離種目藤枝明誠高等学校卒業、日本体育大学中退後、松蔭大学経営文化学部卒業。プレス工業に約3年半所属し、現在はひらまつ病院に所属。

経歴

愛川町立愛川中原中学校入学時から陸上競技を始め、当初から長距離を専門とした。 中学3年時には第9回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会に神奈川県代表として出場。2区を走り区間17位の成績を残した。

2004年に藤枝明誠高校に進学。 当初より主力として活躍し、チームが2年ぶりに出場した全国高校駅伝では5区を務めた。 翌2006年には2度目の全国高校駅伝に出場、アンカーを務めた。

箱根駅伝出場を目指し、2007年に箱根の古豪日本体育大学(体育学部)に進学したものの、部内の雰囲気になじめずわずか2ヶ月で退部・大学も退学してしまう。その後、実家の近くの公園で1人で練習を続けていたが、その姿が近くに拠点を置き、箱根駅伝初出場を目指している松蔭大学のマネージャーの目に留まり、翌2008年に松蔭大学に再入学し、箱根駅伝を目指すことになった。 元々、箱根駅伝出場常連校である日体大に1度は入学したこともあり、1年生ながらも部内では走力のある選手であった。 第85回箱根駅伝予選会は、学内1位となる個人48位に入るも、チームは予選会19位に終わり、母校の初出場はならなかったが、本大会出場を逃した大学の選手の中では9番目のタイムで、1年生ながら学連選抜入りを果たす。

自身初出場となった第85回箱根駅伝本大会では7区にエントリーされ、学習院大学4年の川内優輝から11位でタスキを受け取ると、区間5位の成績を残して、順位を2つ上げ、総合9位と2年連続シード権獲得に貢献した。 なお、1年生では梶原以外に流通経済大学の下田貴志が学連選抜に選ばれ3区に区間エントリーされていたが、当日に平成国際大学の佐藤雄治にエントリー変更となったため、梶原が学連選抜の中では1年生で唯一走ったメンバーとなった。

2009年第86回箱根駅伝予選会は、2年連続学内1位となる個人35位に入るも、チームは予選19位に終わり、またしても母校の初出場はならなかったが、本大会出場を逃した大学の選手の中では4番目のタイムで、2年連続の学連選抜入りを果たす。 本大会では2年連続の7区を走ったものの、残り数キロで足が痙攣する事態で区間20位に終わり、チームも見た目順位最下位に落ち(実際順位は11位から16位に順位を下げる)、3年連続シード入りを逃す。

2010年第87回箱根駅伝予選会は、3年連続学内1位となる個人21位に入るも、チームは予選15位に終わり、またしても母校の初出場はならなかったが、本大会出場を逃した大学の選手の中では2番目のタイムで、3年連続の学連選抜入りを果たす。 本大会では学連選抜メンバーの中で過去の経験値が高かったことから花の2区に抜擢される。1時間08分50秒とタイム的にはそれほど悪くはなかったが、全体のペースが速く、区間12位であった。

2011年9月24日に行われた日体大記録会で、28分52秒55と自身初の10000m28分台を記録した。 同年の第88回箱根駅伝予選会は、4年連続となる学内1位となるも、目標としていた10位以内には届かず個人20位に終わり、他の選手も不調でチームは予選会17位に終わり、ついに在学中に母校の初出場はならなかったが、史上初の4年生連続の学連選抜入りを果たす。 最後の箱根となった第88回箱根駅伝では、3区を区間11位で走った。

母校及び学連選抜の両方で4年連続箱根駅伝を走った選手は法政大学の姜山佑樹、明治大学石川卓哉神奈川大学の森本卓司、東海大学の早川翼等、数例あるが、在学中いずれも母校が出場権を逃し、かつ学連選抜入りして走ったのは梶原が初であった。

2012年プレス工業に入社。

2013年、びわ湖毎日マラソンで初マラソンを走り、2時間18分01秒の34位となった。

2013年9月29日に行われた日体大記録会では、5000mを自己ベストとなる13分36秒79で走り、1993年に仲村明(当時富士通所属)の持っていた5000m神奈川県記録を20年ぶりに更新した。

2013年、2014年に行われたニューイヤー駅伝では2年連続で最長距離となるエース区間である4区を走った。

2014年、自身3度目の出場となった第19回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会では強力選手が走る3区を区間4位で走り順位を2位に上げ、神奈川県史上最高の総合9位に貢献した。

2015年のニューイヤー駅伝では1区を走り、区間賞を獲得した大迫傑(当時日清食品グループ所属)に最後まで食らいつき区間2位で襷をつなぎ、チーム史上最高の総合21位に貢献。プレス工業はニューイヤー駅伝初出場以来6年連続で最高順位を更新することとなった。同年10月にプレス工業を退部。今後は市民ランナーとして競技を続けるということを、Twitter上で表明していた。

2017年から佐賀県小城市のひらまつ病院に所属。

主な戦績

  • 2010年 第45回千葉国際クロスカントリー大会 12 km 123位 40分24秒
  • 2011年 第46回千葉国際クロスカントリー大会 12 km 15位 36分28秒
  • 2011年 第40回世界クロスカントリー選手権 12 km 86位 37分40秒
  • 2011年 第90回関東インカレ2部 10000m 5位 29分24秒30
  • 2011年 第90回関東インカレ2部 ハーフマラソン 4位 1時間06分37秒
  • 2011年 第80回日本インカレ 5000m 10位 14分15秒11
  • 2012年 第26回福岡国際クロスカントリー大会 10 km 31位 32分10秒
  • 2013年 びわ湖毎日マラソン 34位 2時間18分01秒
  • 2013年 第97回日本陸上競技選手権大会 5000m 7位 13分54秒75
  • 2013年 第26回上尾シティハーフマラソン 3位 1時間02分37秒
  • 2014年 東京マラソン2014 32位 2時間18分58秒
  • 2014年 第98回日本陸上競技選手権大会 5000m 4位 13分45秒88

駅伝成績

  • 2004年 第9回天皇盃全国都道府県対抗男子駅伝競走大会 2区区間17位 9分00秒
  • 2005年 第56回全国高等学校駅伝競走大会 5区区間17位 8分58秒
  • 2006年 第57回全国高等学校駅伝競走大会 7区区間33位 15分11秒
  • 2009年 第85回箱根駅伝 7区区間5位 1時間05分40秒
  • 2010年 第86回箱根駅伝 7区区間20位 1時間10分54秒
  • 2011年 第87回箱根駅伝 2区区間12位 1時間08分50秒
  • 2012年 第88回箱根駅伝 3区区間11位 1時間04分02秒
  • 2012年 第17回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会 7区区間28位 39分13秒
  • 2013年 第57回ニューイヤー駅伝 4区区間20位 1時間05分24秒
  • 2014年 第58回ニューイヤー駅伝 4区区間20位 1時間05分43秒
  • 2014年 第19回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会 3区区間4位 23分57秒
  • 2015年 第59回ニューイヤー駅伝 1区区間2位 34分52秒
  • 2018年 第62回ニューイヤー駅伝 1区区間3位 34分58秒
  • 2018年 第23回全国都道府県対抗男子駅伝競走大会 7区区間22位 39分04秒

自己記録

脚注

外部リンク