「カール・エスターライヒャー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
出典により出生地修正
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = カール・エスターライヒャー
| Img =
| Img_capt =
| Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 -->
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| Background = classic
| Born = {{生年月日|1923|1|3}}
| Birth_name = <!-- 個人のみ --><!-- 出生時の名前が公表されている場合にのみ記入 -->
| Alias =
| Blood = <!-- 個人のみ -->
| School_background =
| Died = {{死亡年月日と没年齢|1923|1|3|1995|3|11}}
| Origin = {{AUT}}[[ローアバッハ・アン・デア・ゲルセン]]
| Instrument = [[クラリネット]]
| Genre = [[クラシック音楽]]
| Occupation = [[指揮者]]・[[クラリネット]]
| Years_active =
| Label =
| Production =
| Associated_acts =
| Influences =
| URL =
| Current_members = <!-- グループのみ -->
| Past_members = <!-- グループのみ -->
| Notable_instruments =
}}   
{{Portal クラシック音楽}}
{{Portal クラシック音楽}}
'''カール・エスターライヒャー'''('''Karl Österreicher'''、[[1923年]][[1月3日]] - [[1995年]][[3月11日]]<ref>{{Cite web |url=http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.o/o664335.htm |title=Österreicher, Karl |work=Österreich Lexikon |publisher=aeiou |accessdate=2013-10-14}}</ref>)は、[[オーストリア]]の指揮の教育家・[[指揮者]]・[[クラリネット]]奏者。[[ローアバッハ・アン・デア・ゲルセン]]生まれ
'''カール・エスターライヒャー'''('''Karl Österreicher'''、[[1923年]][[1月3日]] - [[1995年]][[3月11日]]<ref>{{Cite web |url=http://www.aeiou.at/aeiou.encyclop.o/o664335.htm |title=Österreicher, Karl |work=Österreich Lexikon |publisher=aeiou |accessdate=2013-10-14}}</ref>)は、[[オーストリア]]の指揮の教育家・[[指揮者]]・[[クラリネット]]奏者。


==経歴==
[[カール・ベーム]]が[[音楽監督]]を務めていた時代に[[ウィーン国立歌劇場管弦楽団]]の第2クラリネット奏者として入団するが、ベームと衝突して首席クラリネットに上がれないまま退団する。
1923年、[[ローアバッハ・アン・デア・ゲルセン]]生まれ。[[カール・ベーム]]が[[音楽監督]]を務めていた時代に[[ウィーン国立歌劇場管弦楽団]]の第2クラリネット奏者として入団するが、ベームと衝突して首席クラリネットに上がれないまま退団する。


その後、指揮者に転向し、[[ウィーン国立音楽大学]]の[[ハンス・スワロフスキー]]のアシスタントを務め、教授の指揮活動で忙しい中、当時の[[クラウディオ・アバド]]や[[ズービン・メータ]]、[[ジュゼッペ・シノーポリ]]、[[ローター・ツァグロセク]]などの生徒のレッスンを代講する。ハンス・スワロフスキーの死後に指揮科の教授に昇格。現在中堅の[[ペーター・シュナイダー]]や[[ヘスス・ロペス=コボス]]、[[アダム・フィッシャー]]と[[イヴァン・フィッシャー]]の兄弟、[[マリス・ヤンソンス]]、[[ガルシア・ナヴァロ]]などの生徒を教える。なお晩年はプライヴェートで[[プラシド・ドミンゴ]]らにも指揮を教えていた。現在、[[ウィーン国立音楽大学]]指揮科助教授の[[湯浅勇治]]も弟子の一人である。
その後、指揮者に転向し、[[ウィーン国立音楽大学]]の[[ハンス・スワロフスキー]]のアシスタントを務め、教授の指揮活動で忙しい中、当時の[[クラウディオ・アバド]]や[[ズービン・メータ]]、[[ジュゼッペ・シノーポリ]]、[[ローター・ツァグロセク]]などの生徒のレッスンを代講する。ハンス・スワロフスキーの死後に指揮科の教授に昇格。現在中堅の[[ペーター・シュナイダー]]や[[ヘスス・ロペス=コボス]]、[[アダム・フィッシャー]]と[[イヴァン・フィッシャー]]の兄弟、[[マリス・ヤンソンス]]、[[ガルシア・ナヴァロ]]などの生徒を教える。なお晩年はプライヴェートで[[プラシド・ドミンゴ]]らにも指揮を教えていた。現在、[[ウィーン国立音楽大学]]指揮科助教授の[[湯浅勇治]]も弟子の一人である。

2018年10月22日 (月) 07:31時点における版

カール・エスターライヒャー
生誕 (1923-01-03) 1923年1月3日
出身地  オーストリアローアバッハ・アン・デア・ゲルセン
死没 (1995-03-11) 1995年3月11日(72歳没)
ジャンル クラシック音楽
職業 指揮者クラリネット
担当楽器 クラリネット

   

カール・エスターライヒャーKarl Österreicher1923年1月3日 - 1995年3月11日[1])は、オーストリアの指揮の教育家・指揮者クラリネット奏者。

経歴

1923年、ローアバッハ・アン・デア・ゲルセン生まれ。カール・ベーム音楽監督を務めていた時代にウィーン国立歌劇場管弦楽団の第2クラリネット奏者として入団するが、ベームと衝突して首席クラリネットに上がれないまま退団する。

その後、指揮者に転向し、ウィーン国立音楽大学ハンス・スワロフスキーのアシスタントを務め、教授の指揮活動で忙しい中、当時のクラウディオ・アバドズービン・メータジュゼッペ・シノーポリローター・ツァグロセクなどの生徒のレッスンを代講する。ハンス・スワロフスキーの死後に指揮科の教授に昇格。現在中堅のペーター・シュナイダーヘスス・ロペス=コボスアダム・フィッシャーイヴァン・フィッシャーの兄弟、マリス・ヤンソンスガルシア・ナヴァロなどの生徒を教える。なお晩年はプライヴェートでプラシド・ドミンゴらにも指揮を教えていた。現在、ウィーン国立音楽大学指揮科助教授の湯浅勇治も弟子の一人である。

その指揮振りはオーソドックスで模範的なもので、どんなタイプの、またどのパートのオーケストラ音楽家にも容易く受け入れられるタイプであり、いわゆるカラヤンバーンスタイン方式を採用し、その生徒の個性的な指揮振りを壊さないような教育法であった。いろいろな名指揮者の分析も欠かさずとりあげ、また実際にホルスト・シュタインヴァーツラフ・ノイマンらを客演教授として招待し、生徒には午前中はピアノを使った指揮のレッスン、午後は毎日のように学生オーケストラを振らせて授業を進めていた。

指揮者での活動は少ないが、サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団オーストリア放送交響楽団等の客演がみられる。学生オーケストラは指揮科主任教授として、ベルリン国立歌劇場NHK交響楽団などの仕事の忙しい同僚のオトマール・スウィトナーを差し置いて、当時すべて統括していた。

1995年にザンクト・ペルテンの病院で死去した。

脚注

  1. ^ Österreicher, Karl”. Österreich Lexikon. aeiou. 2013年10月14日閲覧。