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'''ハリー・クプファー'''('''Harry Kupfer''', [[1935年]][[8月12日]] - )は[[ドイツ]]の[[オペラ]][[演出家]]。 |
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== 概要 == |
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1950年代に旧[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[ライプツィヒ]]で劇場演出を学ぶ。[[1958年]]には[[ハレ・オペラ]](現:[[ザクセン=アンハルト州]][[ハレ (ザーレ)|ハレ]])の演出助手となり、[[アントニン・ドヴォルザーク|ドヴォルザーク]]の「ルサルカ」を演出する。[[1958年]]から[[1962年]]まで[[メクレンブルク=フォアポンメルン州]][[シュトラールズント]]、[[1962年]]から[[1966年]]まで[[カール=マルクス=シュタット]]で活動。[[1967年]]には[[ヴァイマル・ドイツ国民劇場]]の演出家となり、[[1973年]]から[[1980年]]まで[[ゼンパー・オーパー]](ドレスデン州立歌劇場)で演出を続ける。[[1981年]]には[[ベルリン・コーミッシェ・オーパー]]の首席演出家となり、ここでの活動によりヨーロッパで最も前衛的なオペラ演出家としての評価が定着する。[[2002年]]に[[ベルリン]]を離れるが、同年には[[ベンジャミン・ブリテン|ブリテン]]の「ねじの回転」を演出し話題をさらう。すでに175を超える作品を演出しており、国外でも[[コペンハーゲン]]、[[アムステルダム]]、[[ウィーン]]、[[ロンドン]]、[[サンフランシスコ]]、[[モスクワ]]などで活動している。[[バイロイト音楽祭]]では[[1978年]]に「[[さまよえるオランダ人]]」、[[1988年]]から[[1992年]]に[[ダニエル・バレンボイム]]指揮の「[[ニーベルングの指環]]」を演出し、大きな評価を得た。[[1986年]]の[[ザルツブルク音楽祭]]では[[クシシュトフ・ペンデレツキ]]の「Die schwarze Maske」を初演している。[[ミュージカル]]の演出にも携わり、[[1992年]]には[[アン・デア・ウィーン劇場]]で[[ピア・ドゥーヴェス]]主演の「[[エリザベート (ミュージカル)|エリザベート]]」を初めて舞台に乗せた。また |
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[[ミュージカル]]の演出にも携わり、[[1992年]]には[[アン・デア・ウィーン劇場]]で[[ピア・ドゥーヴェス]]主演の「[[エリザベート (ミュージカル)|エリザベート]]」を初めて舞台に乗せた。 |
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またクプファーは[[ベルリン芸術アカデミー]]、[[ハンブルク自由芸術アカデミー]]の一員であり、[[ベルリン芸術大学]]で教鞭をとり、後進の指導にも当っている。 |
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==家族・親族== |
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夫人は[[声楽家]]、音楽教育家の[[マリアンネ・フィッシャー=クプファー]]、娘に女優の[[クリスチアーネ・クプファー]]がいる。 |
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== 脚注 == |
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2018年10月20日 (土) 11:52時点における版
ハリー・クプファー | |
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生誕 | 1935年8月12日 |
出身地 | ドイツライプツィヒ |
ジャンル | クラシック音楽演出 |
職業 | オペラ演出家 |
ハリー・クプファー(Harry Kupfer, 1935年8月12日 - )はドイツのオペラ演出家。
概要
1950年代に旧東ドイツのライプツィヒで劇場演出を学ぶ。1958年にはハレ・オペラ(現:ザクセン=アンハルト州ハレ)の演出助手となり、ドヴォルザークの「ルサルカ」を演出する。1958年から1962年までメクレンブルク=フォアポンメルン州シュトラールズント、1962年から1966年までカール=マルクス=シュタットで活動。1967年にはヴァイマル・ドイツ国民劇場の演出家となり、1973年から1980年までゼンパー・オーパー(ドレスデン州立歌劇場)で演出を続ける。1981年にはベルリン・コーミッシェ・オーパーの首席演出家となり、ここでの活動によりヨーロッパで最も前衛的なオペラ演出家としての評価が定着する。2002年にベルリンを離れるが、同年にはブリテンの「ねじの回転」を演出し話題をさらう。すでに175を超える作品を演出しており、国外でもコペンハーゲン、アムステルダム、ウィーン、ロンドン、サンフランシスコ、モスクワなどで活動している。バイロイト音楽祭では1978年に「さまよえるオランダ人」、1988年から1992年にダニエル・バレンボイム指揮の「ニーベルングの指環」を演出し、大きな評価を得た。1986年のザルツブルク音楽祭ではクシシュトフ・ペンデレツキの「Die schwarze Maske」を初演している。
ミュージカルの演出にも携わり、1992年にはアン・デア・ウィーン劇場でピア・ドゥーヴェス主演の「エリザベート」を初めて舞台に乗せた。
またクプファーはベルリン芸術アカデミー、ハンブルク自由芸術アカデミーの一員であり、ベルリン芸術大学で教鞭をとり、後進の指導にも当っている。
家族・親族
夫人は声楽家、音楽教育家のマリアンネ・フィッシャー=クプファー、娘に女優のクリスチアーネ・クプファーがいる。