「嵐璃寛 (3代目)」の版間の差分
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旅役者の生島岩五郎の子として生まれる。当初は父岩五郎と共に旅芝居に出ていたが、のちに[[尾上多見蔵 (2代目)|二代目尾上多見蔵]]門下となって尾上和三郎と名乗り、[[文政]]10年(1827年)春に京の宮地芝居に若[[女形]]として出る。[[天保]]元年(1830年)には[[嵐璃寛 (2代目)|二代目嵐璃寛]]門人となり、三代目[[嵐徳三郎]]を襲名。以後女形として二代目璃寛の相手役を勤め、美しい女形という評判を取った。天保5年(1834年)11月に嵐橘蝶と名乗るが、同8年6月に師匠の璃寛が死去したのを受け、再び徳三郎を名乗る。天保10年(1839年)以降は[[立役]]も手がけるようになり、天保14年(1843年)11月、大坂大西芝居で三代目[[嵐璃寛]]を襲名した。 |
旅役者の生島岩五郎の子として生まれる。当初は父岩五郎と共に旅芝居に出ていたが、のちに[[尾上多見蔵 (2代目)|二代目尾上多見蔵]]門下となって尾上和三郎と名乗り、[[文政]]10年(1827年)春に京の宮地芝居に若[[女形]]として出る。[[天保]]元年(1830年)には[[嵐璃寛 (2代目)|二代目嵐璃寛]]門人となり、三代目[[嵐徳三郎]]を襲名。以後女形として二代目璃寛の相手役を勤め、美しい女形という評判を取った。天保5年(1834年)11月に嵐橘蝶と名乗るが、同8年6月に師匠の璃寛が死去したのを受け、再び徳三郎を名乗る。天保10年(1839年)以降は[[立役]]も手がけるようになり、天保14年(1843年)11月、大坂大西芝居で三代目[[嵐璃寛]]を襲名した。 |
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当り役は『[[小野道風青柳硯]]』の小野道風、『[[双蝶々曲輪日記]]』の濡髪長五郎、『[[妹背山婦女庭訓]]』のお三輪など。[[上方]]や江戸の舞台で活躍し、口跡がよく若女形、立役を得意としたが、女形の役のほうが評判はよかったという。享年52。実子に[[嵐璃寛 (4代目)|四代目嵐璃寛]]がいる。映画『[[鞍馬天狗 (小説)|鞍馬天狗]]』で名を馳せた[[嵐寛寿郎]]は子孫に当たる<ref>寛寿郎の祖母が三代目璃寛の孫娘であった。竹中労著『鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代』(『ちくま文庫』、2001年)参照。</ref>。 |
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*俳優堂夢遊 『俳優世々の接木』〈『演劇文庫』第1編〉 演芸珍書刊行会、1914年 ※[{{NDLDC|948795}} 国立国会図書館デジタルコレクション]に本文あり。149コマ目。 |
* 俳優堂夢遊 『俳優世々の接木』〈『演劇文庫』第1編〉 演芸珍書刊行会、1914年 ※[{{NDLDC|948795}} 国立国会図書館デジタルコレクション]に本文あり。149コマ目。 |
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*野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年 |
* 野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年 |
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2018年9月5日 (水) 00:00時点における版
三代目 嵐璃寛(さんだいめ あらし りかん、文化9年〈1812年〉 - 文久3年4月21日〈1863年6月7日〉)とは、江戸時代後期の大坂の歌舞伎役者。俳名は巌獅・橘蝶、屋号は葉村屋。
来歴
旅役者の生島岩五郎の子として生まれる。当初は父岩五郎と共に旅芝居に出ていたが、のちに二代目尾上多見蔵門下となって尾上和三郎と名乗り、文政10年(1827年)春に京の宮地芝居に若女形として出る。天保元年(1830年)には二代目嵐璃寛門人となり、三代目嵐徳三郎を襲名。以後女形として二代目璃寛の相手役を勤め、美しい女形という評判を取った。天保5年(1834年)11月に嵐橘蝶と名乗るが、同8年6月に師匠の璃寛が死去したのを受け、再び徳三郎を名乗る。天保10年(1839年)以降は立役も手がけるようになり、天保14年(1843年)11月、大坂大西芝居で三代目嵐璃寛を襲名した。
当り役は『小野道風青柳硯』の小野道風、『双蝶々曲輪日記』の濡髪長五郎、『妹背山婦女庭訓』のお三輪など。上方や江戸の舞台で活躍し、口跡がよく若女形、立役を得意としたが、女形の役のほうが評判はよかったという。享年52。実子に四代目嵐璃寛がいる。映画『鞍馬天狗』で名を馳せた嵐寛寿郎は子孫に当たる[1]。
脚注
- ^ 寛寿郎の祖母が三代目璃寛の孫娘であった。竹中労著『鞍馬天狗のおじさんは 聞書アラカン一代』(『ちくま文庫』、2001年)参照。
参考文献
- 俳優堂夢遊 『俳優世々の接木』〈『演劇文庫』第1編〉 演芸珍書刊行会、1914年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり。149コマ目。
- 野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年