「シティ・ポップ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Femiyesno (会話 | 投稿記録)
→‎関連項目: AORなど
Femiyesno (会話 | 投稿記録)
金井夕子、松原みきなど追加
3行目: 3行目:


== 概要 ==
== 概要 ==
シティ・ポップは、アダルト・コンテンポラリーの日本版<ref>http://rateyourmusic.com/genre/City+Pop/</ref>とも解釈することも可能である。[[1970年代]]に日本で定着した[[シンガーソングライター]]やバンドのミュージシャンのうち、フォーク寄りではなくポップ寄りのミュージシャンがこれにあたる。長門芳郎が好む[[はっぴいえんど]]、[[大滝詠一]]の[[ナイアガラ・レーベル]][[ティン・パン・アレー]]系などが典型であり、彼らは1970年代末から1980年代初頭にかけてアルバムを発売した。洋楽ではオハイオ・ノックス、ザ・フィフス・アベニュー・バンド<ref>山下達郎や長門郎らが詳しいシティ・ポップ・バンド  http://www.discogs.com/Fifth-Avenue-Band</ref>、フル・ムーン<ref>http://www.allmusic.com/album/full-moon-mw0000454427</ref>などが、これにあたる。日本のシティ・ポップのミュージシャンの場合、ボズ・スキャッグスやスティーリー・ダンのような、多様性や音楽的幅の広さが不足しているのが、難点でもある。
シティ・ポップは、アダルト・コンテンポラリーの日本版<ref>http://rateyourmusic.com/genre/City+Pop/</ref>とも解釈することも可能である。[[1970年代]]に日本で定着した[[シンガーソングライター]]やバンドのミュージシャンのうち、フォーク寄りではなくポップ寄りのミュージシャンがこれにあたる。長門芳郎が好む[[はっぴいえんど]]、[[大滝詠一]]の[[ナイアガラ・レーベル]][[ティン・パン・アレー]]系などが典型であり、彼らは1970年代末から1980年代初頭にかけてアルバムを発売した。洋楽ではオハイオ・ノックス、ザ・フィフス・アベニュー・バンド<ref>山下達郎や長門郎らが詳しいシティ・ポップ・バンド  http://www.discogs.com/Fifth-Avenue-Band</ref>、フル・ムーン<ref>http://www.allmusic.com/album/full-moon-mw0000454427</ref>、ラーセン=フェイトン・バンドなどが、これにあたる。日本のシティ・ポップのミュージシャンの場合、ボズ・スキャッグスやスティーリー・ダンのような、多様性や音楽的幅の広さが不足しているのが、難点でもある。


既存の「歌謡曲」「フォーク」が強く持っていた「歌」ではなく、「ニューミュージック」寄りのサウンド([[ポップ・ロック]]、や[[ジャズ]]、[[クロスオーバー_(音楽)|クロスオーバー]]、[[フュージョン_(音楽)|フュージョン]])を前面に打ち出した音楽スタイルは、聴衆から洗練された都会的なものであると同時に中流、中産階級志向と受け取られ、レコード会社もこれを既存の音楽とは違うものとして「'''都会のポップ=シティ・ポップ'''」という呼称でアピールを行うようになった。
既存の「歌謡曲」「フォーク」が強く持っていた「歌」ではなく、「ニューミュージック」寄りのサウンド([[ポップ・ロック]]、や[[ジャズ]]、[[クロスオーバー_(音楽)|クロスオーバー]]、[[フュージョン_(音楽)|フュージョン]])を前面に打ち出した音楽スタイルは、聴衆から洗練された都会的なものであると同時に中流、中産階級志向と受け取られ、レコード会社もこれを既存の音楽とは違うものとして「'''都会のポップ=シティ・ポップ'''」という呼称でアピールを行うようになった。
32行目: 32行目:
*[[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]]
*[[安全地帯 (ロックバンド)|安全地帯]]
*[[杏里]]
*[[杏里]]
*[[池田聡]]
*[[石川優子]]
*[[石川優子]]
*[[1986オメガトライブ]]
*[[伊藤銀次]]
*[[伊藤銀次]]
*[[稲垣潤一]]
*[[稲垣潤一]]
58行目: 58行目:
*:「[[ANOTHER SUMMER]]」(1985年)
*:「[[ANOTHER SUMMER]]」(1985年)
*:「[[Navigator (アルバム)|Navigator]]」(1986年)
*:「[[Navigator (アルバム)|Navigator]]」(1986年)
*カシオペア
*[[角松敏生]]
*[[角松敏生]]
*:「[[WEEKEND FLY TO THE SUN]]」(1982年)
*:「[[WEEKEND FLY TO THE SUN]]」(1982年)
65行目: 66行目:
*:「[[BEFORE THE DAYLIGHT]]」(1988年)
*:「[[BEFORE THE DAYLIGHT]]」(1988年)
*:「[[REASONS FOR THOUSAND LOVERS]]」(1989年)
*:「[[REASONS FOR THOUSAND LOVERS]]」(1989年)
*[[金井夕子]]
*[[紙風船]]
*[[紙風船]]
*[[カルロストシキ]]
*[[カルロストシキ]]
99行目: 101行目:
*[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]
*[[鈴木茂 (ギタリスト)|鈴木茂]]
*[[スターダストレビュー]]
*[[スターダストレビュー]]
*:「[[NIGHT SONGS]]」(1987年)
*:「[[RENDEZ-VOUS (スターダストレビューのアルバム)|RENDEZ-VOUS]]」(1988年)
*:「[[RENDEZ-VOUS (スターダストレビューのアルバム)|RENDEZ-VOUS]]」(1988年)
*[[スペクトラム]]
*[[センチメンタル・シティ・ロマンス]]
*[[センチメンタル・シティ・ロマンス]]
*[[惣領智子]](TINNA)
*[[惣領智子]](TINNA)
*[[高木麻早]]
*[[高木麻早]]
*[[高中正義]]
*[[高野寛]]
*[[高野寛]]
*:「CUE」(1990年)
*:「CUE」(1990年)
*[[竹内まりや]]
*[[竹内まりや]]
*[[田島貴男]]([[ORIGINAL LOVE]])
*[[田島貴男]]([[ORIGINAL LOVE]])
*T-SQUARE
*[[寺尾聰]]
*[[寺尾聰]]
*:「[[Reflections]]」(1981年)
*:「[[Reflections]]」(1981年)
122行目: 126行目:
*:「鏡の中のアクトレス」(1988年)
*:「鏡の中のアクトレス」(1988年)
*:「303 EAST 60TH STREET」(1990年)
*:「303 EAST 60TH STREET」(1990年)
*[[ネイティブ・サン]]
*[[二名敦子]]
*[[ハイ・ファイ・セット]]
*[[ハイ・ファイ・セット]]
*:「White Moon」(1990年)
*:「White Moon」(1990年)
131行目: 135行目:
*[[平松愛理]]
*[[平松愛理]]
*[[ブレッド&バター]]
*[[ブレッド&バター]]
*[[松原みき]]
*[[マリーン]]
*[[マリーン]]
*:「マジック」(1983年)
*:「マジック」(1983年)
169行目: 174行目:
*[[村上秀一]]
*[[村上秀一]]
*[[村松邦男]]
*[[村松邦男]]
*[[矢島]]
*[[矢島]]
*[[芳野藤丸]]
*[[芳野藤丸]]


183行目: 188行目:
*[[アダルト・コンテンポラリー]]
*[[アダルト・コンテンポラリー]]
*[[ディスコ]]
*[[ディスコ]]
*[[クロスオーバー]]
*[[歌謡曲]]
*[[音楽のジャンル一覧]]・[[ポピュラー音楽のジャンル一覧]]
*[[音楽のジャンル一覧]]・[[ポピュラー音楽のジャンル一覧]]
**[[ポピュラー音楽の音楽家一覧 (日本・個人)]]
**[[ポピュラー音楽の音楽家一覧 (日本・個人)]]

2018年8月22日 (水) 04:04時点における版

シティ・ポップ (City pop) は、日本ポピュラー音楽ジャンルのひとつ。正式な音楽用語ではないが、主に1970年代後半から1980年代に流行した、都会的なイメージを前面に出したポップスを指す。60年代、70年代を通過したアダルト層へのアピールを意識したイージー・リスニング的、ミドル・オブ・ザ・ロード的(中道的)でソフトなロック、ポップスなどの総称である。なお、「シティポップ」というジャンル分け用の音楽用語は後年創られており、70年、80年のリアルタイムではAORなどと呼ばれていた。元々日本国内でのみ制作され消費されるジャンルであったが、2010年以降、約30年の時を経て、サンプリングネタとして取り上げられ始め、YouTubeで元ネタの音源の発掘が進むと共に、2016年頃には海外の一部でも知られるジャンルとなった。

概要

シティ・ポップは、アダルト・コンテンポラリーの日本版[1]とも解釈することも可能である。1970年代に日本で定着したシンガーソングライターやバンドのミュージシャンのうち、フォーク寄りではなくポップ寄りのミュージシャンがこれにあたる。長門芳郎が好むはっぴいえんど大滝詠一ナイアガラ・レーベルティン・パン・アレー系などが典型であり、彼らは1970年代末から1980年代初頭にかけてアルバムを発売した。洋楽ではオハイオ・ノックス、ザ・フィフス・アベニュー・バンド[2]、フル・ムーン[3]、ラーセン=フェイトン・バンドなどが、これにあたる。日本のシティ・ポップのミュージシャンの場合、ボズ・スキャッグスやスティーリー・ダンのような、多様性や音楽的幅の広さが不足しているのが、難点でもある。

既存の「歌謡曲」「フォーク」が強く持っていた「歌」ではなく、「ニューミュージック」寄りのサウンド(ポップ・ロック、やジャズクロスオーバーフュージョン)を前面に打ち出した音楽スタイルは、聴衆から洗練された都会的なものであると同時に中流、中産階級志向と受け取られ、レコード会社もこれを既存の音楽とは違うものとして「都会のポップ=シティ・ポップ」という呼称でアピールを行うようになった。

そして、1981年にこのジャンルの寺尾聰のシングル「ルビーの指環」が大ヒットを飛ばしたことにより、こうした音楽スタイルは一般にも認知され、急速に浸透した。(もっとも、シティ・ポップスと言う呼称自体はそれほど一般化しなかった)また、1982年には当時東芝EMIに所属していた稲垣潤一安部恭弘らがいた。東芝EMIには他にも、山本達彦などのシティ・ポップ系のアーティストが多数在籍していた。

また、これらのアーティストの一部は作曲家として活動し、シティ・ポップス系統の楽曲はアイドルの歌謡曲にも広まった。林哲司角松敏生、荒井由実らはアイドルも手掛けた。

「歌謡曲」の職業作家もこのジャンルに乗り出すようになり、都会的で洗練された音楽性に合わせて、歌詞世界も、それまでの「反戦平和」「政治権力批判」などを歌う傾向にあったフォークとは一線を画した。都市生活者の快適な中流生活や、生活感の薄い無機的な描写、ローカル、田舎の生活感の切り捨て、豊かさを背景にした享楽的傾向、しらけ世代を象徴する無気力など、が強く表れる歌詞の楽曲が増えていった。

広告会社、テレビ局、レコード会社の営業マンが好むような、「企業のCMのタイアップソング」というお粗末な現象が増えたのも、この時期である。バブル景気への移行過程で商業主的、都会的なものが日本中にあふれ、「都会的なこと」自体がセールスポイントになった。フォークのたま、ロックのレベッカTHE BLUE HEARTSなどが中心となった第二次バンドブームは、シティ・ポップとは異なったブームだったが、すぐにピチカート・ファイヴなどの渋谷系が台頭し、シティ・ポップ、AOR的な音楽は残っていった。

1990年代以降はシティ・ポップという呼称は、あまり使用されなくなっていたが、2000年代後半に入ると、1980年代に青年期を過ごした聴衆が音楽業界や社会の中枢を占めるようになり、シティ・ポップというジャンルの再評価・再発見を行おうとする機運もある。

2000年以降ではキンモクセイというミュージシャンがシティ・ポップ・グループを自称し、キリンジなども「自分たちの音楽はシティ・ポップだ」という趣旨の発言をしている。他にも土岐麻子CeroSuchmosなどがこうした路線に追随する作品を発表している。

著名なミュ-ジシャン

  • 参考文献
  • 『昭和40年男 2014年 02月号』(クレタパブリッシング)
  • 『ジャパニーズ・シティ・ポップ』(木村ユタカ監修・シンコーミュージック・2006年)
    • 参考文献と文献以外の中から、特に著名な音楽家を掲載する。

スタジオ・ミュージシャン

作曲家、編曲家、プロデューサー

関連項目

脚注