「ランニング・ネックブリーカー・ドロップ」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
相手をロープに振って戻ってきたところに走り込んで、[[カウンターアタック#格闘技|カウンター]]で腕を首に引っかけるようにして倒して後頭部をマットに叩きつける。立っている相手に走って仕掛けることもある。形は[[ラリアット]]に似ているが、ラリアットが腕力で相手の首を痛めつけるのに対して、ランニング・ネックブリーカー・ドロップは相手の首に腕を引っかけて後頭部を叩きつけるもので技の狙いが異なる。
相手をロープに振って戻ってきたところに走り込んで、[[カウンターアタック#格闘技|カウンター]]で腕を首に引っかけるようにして倒して後頭部を打ちつける。立っている相手に走って仕掛けることもある。形は[[ラリアット]]に似ているが、ラリアットが腕力で相手の首を痛めつけるのに対して、ランニング・ネックブリーカー・ドロップは相手の首に腕を引っかけて後頭部を叩きつけるもので技の狙いが異なる。


[[ジャイアント馬場]]が考案したとされ、1969年12月3日に[[東京体育館|旧・東京都体育館]]で挙行された[[日本プロレス]]の東京大会における[[ドリー・ファンク・ジュニア]]との[[NWA世界ヘビー級王座|NWA世界ヘビー級選手権]]試合で初公開。以来、[[ジャック・ブリスコ]](1974年)と[[ハーリー・レイス]](1979年)からこの技で[[ピンフォール]]勝ちしてNWA世界ヘビー級王座を獲得、レイス戦以後は「世界を獲ったネックブリーカー・ドロップ」と[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の中継では[[倉持隆夫]](当時日本テレビアナウンサー)の実況によって称された。なお、馬場は[[大木金太郎]]や[[ビル・ロビンソン]]などの大物選手からもこの技でピンフォールを奪っている。年に12回大試合で出すだけであったため、馬場の代名詞と言われた[[16文キック|十六文キック]]や[[ドロップキック|32文ロケット砲]]に比べると一般的知名度は低いが、晩年に至るまで節目の試合では必ず披露した大技の一つである。馬場以外の日本人では[[アニマル浜口]]が得意技としていた。
[[ジャイアント馬場]]が考案したとされ、1969年12月3日に[[東京体育館|旧・東京都体育館]]で挙行された[[日本プロレス]]の東京大会における[[ドリー・ファンク・ジュニア]]との[[NWA世界ヘビー級王座|NWA世界ヘビー級選手権]]試合で初公開。以来、[[ジャック・ブリスコ]](1974年)と[[ハーリー・レイス]](1979年)からこの技で[[ピンフォール]]勝ちしてNWA世界ヘビー級王座を獲得、レイス戦以後は「世界を獲ったネックブリーカー・ドロップ」と[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の中継では[[倉持隆夫]](当時日本テレビアナウンサー)の実況によって称された。なお、馬場は[[大木金太郎]]や[[ビル・ロビンソン]]などの大物選手からもこの技でピンフォールを奪っている。年に12回大試合で出すだけであったため、馬場の代名詞と言われた[[16文キック|十六文キック]]や[[ドロップキック|32文ロケット砲]]に比べると一般的知名度は低いが、晩年に至るまで節目の試合では必ず披露した大技の一つである。馬場以外の日本人では[[アニマル浜口]]が得意技としていた。


日本人以外では[[ビル・イーディー|マスクド・スーパースター]]が得意技としていたが、日本でスーパースターが参戦していた[[新日本プロレス]]を中継する[[テレビ朝日]]では、ランニング・ネックブリーカー・ドロップという呼称は対立団体[[全日本プロレス]]の総帥である馬場のオリジナル技だったため、当初は'''フライング・スリーパー'''と呼んでいた(以降は'''フライング・ネックブリーカー・ドロップ'''の呼称が定着)。
日本人以外では[[ビル・イーディー|マスクド・スーパースター]]が得意技としていたが、日本でスーパースターが参戦していた[[新日本プロレス]]を中継する[[テレビ朝日]]では、ランニング・ネックブリーカー・ドロップという呼称は対立団体[[全日本プロレス]]の総帥である馬場のオリジナル技だったため、当初は'''フライング・スリーパー'''と呼んでいた(以降は'''フライング・ネックブリーカー・ドロップ'''の呼称が定着)。

2018年6月20日 (水) 18:06時点における版

ランニング・ネックブリーカー・ドロップRunning Neckbreaker Drop)は、プロレス技の一種でネックブリーカー・ドロップ(空中首折り落とし)の一種である。ランニング・ネックブリーカー・ドロップを略してネックブリーカー・ドロップという場合もある。

ネックブリーカーは別の技である。

概要

相手をロープに振って戻ってきたところに走り込んで、カウンターで腕を首に引っかけるようにして倒して後頭部を打ちつける。立っている相手に走って仕掛けることもある。形はラリアットに似ているが、ラリアットが腕力で相手の首を痛めつけるのに対して、ランニング・ネックブリーカー・ドロップは相手の首に腕を引っかけて後頭部を叩きつけるもので技の狙いが異なる。

ジャイアント馬場が考案したとされ、1969年12月3日に旧・東京都体育館で挙行された日本プロレスの東京大会におけるドリー・ファンク・ジュニアとのNWA世界ヘビー級選手権試合で初公開。以来、ジャック・ブリスコ(1974年)とハーリー・レイス(1979年)からこの技でピンフォール勝ちしてNWA世界ヘビー級王座を獲得、レイス戦以後は「世界を獲ったネックブリーカー・ドロップ」と日本テレビの中継では倉持隆夫(当時日本テレビアナウンサー)の実況によって称された。なお、馬場は大木金太郎ビル・ロビンソンなどの大物選手からもこの技でピンフォールを奪っている。年に1、2回大試合で出すだけであったため、馬場の代名詞と言われた十六文キック32文ロケット砲に比べると一般的知名度は低いが、晩年に至るまで節目の試合では必ず披露した大技の一つである。馬場以外の日本人ではアニマル浜口が得意技としていた。

日本人以外ではマスクド・スーパースターが得意技としていたが、日本でスーパースターが参戦していた新日本プロレスを中継するテレビ朝日では、ランニング・ネックブリーカー・ドロップという呼称は対立団体全日本プロレスの総帥である馬場のオリジナル技だったため、当初はフライング・スリーパーと呼んでいた(以降はフライング・ネックブリーカー・ドロップの呼称が定着)。

派生技には三沢光晴が用いていたコーナーポスト最上段からのダイビング式があり、1994年に馬場から、この技でピンフォールを取ったため、一時期は三沢の最大の必殺技とされていた。だが、田上明喉輪落としに切り返されてフォール負けして以降は、この技を封印して一度も使うことはなかった。

また、保永昇男は通常の仕掛け方の他にダイビング攻撃を見舞うため、飛んできた相手にカウンターで仕掛けるなど新しいバリエーションを作り出している。

関連項目