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'''中嶋 勝彦'''(なかじま かつひこ、[[1988年]][[3月11日]] - )は、[[日本]]の[[プロレスラー]]。[[福岡県]][[福岡市]]出身[[愛知県]][[江南市]]育ち。元新体操選手・元タレントの[[飯作あゆり]]は妻。[[プロレスリング・ノア]]所属。
'''中嶋 勝彦'''(なかじま かつひこ、[[1988年]][[3月11日]] - )は、[[日本]]の[[プロレスラー]]。妻は元タレント、元新体操選手の[[飯作あゆり]]。[[プロレスリング・ノア]]所属。

[[佐々木健介]]と[[北斗晶]]の子供たちからは「'''かつにい'''」と呼ばれ慕われた。リング上では負けん気が強く、喜怒哀楽を表すファイトぶりを見せる。


== 来歴 ==
== 来歴 ==
=== デビュー前デビューWJ時代 ===
=== デビュー前 - デビュー - WJプロレス時代 ===
5歳から母子家庭で育った。小学校3年生より[[璞名館]]で[[空手道|空手]]を始め、中学1年生の時に全国空手道大会([[極真会館]]松井派主催)で優勝する。この頃[[前田日明]]の目に留まり、卒業後の[[リングス]]へ入団を約束されるがそれを待たずにリングスは解散となった。
5歳から母子家庭で育った。小学校3年生より[[璞名館]]で[[空手道|空手]]を始め、中学1年生の時に全国空手道大会([[極真会館]]松井派主催)で優勝する。この頃[[前田日明]]の目に留まり、卒業後の[[リングス]]へ入団を約束されるがそれを待たずにリングスは解散となった。


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しかし2004年3月、WJ崩壊に伴い退団となった。母子家庭<!--中嶋には兄・妹がいる-->の中嶋にとっては、WJに「保険制度(保険会社の保険を指すのかプロレス興行会社としての負傷欠場中の保険=生活補償金を指すのかは不明)」が無いことが退団原因の1つであった。中嶋は一旦実家に帰ったが、元WJの[[佐々木健介]]に弟子入りした。
しかし2004年3月、WJ崩壊に伴い退団となった。母子家庭<!--中嶋には兄・妹がいる-->の中嶋にとっては、WJに「保険制度(保険会社の保険を指すのかプロレス興行会社としての負傷欠場中の保険=生活補償金を指すのかは不明)」が無いことが退団原因の1つであった。中嶋は一旦実家に帰ったが、元WJの[[佐々木健介]]に弟子入りした。


=== 健介オフィス/ダイヤモンド・リング時代 (2004年4月〜) ===
=== 健介オフィス / ダイヤモンド・リング時代 ===
2004年4月より[[ダイヤモンド・リング (プロレス)|健介office]]に所属する。以後中嶋は'''健介ファミリー'''の「息子」という[[ギミック (プロレス)|ギミック]]を得て、健介の付き人をこなしつつ各団体へも参戦した。試合を重ねるにつれ個人の評価も上がり、単独参戦も増加していった。なお、当時中嶋が上がるリングは「必ず保険を団体もしくは主催興行会社が掛けてくれること」を最低条件として健介の妻の[[北斗晶]]が交渉した。
2004年4月より[[ダイヤモンド・リング (プロレス)|健介office]]に所属する。以後中嶋は'''健介ファミリー'''の「息子」という[[ギミック (プロレス)|ギミック]]を得て、健介の付き人をこなしつつ各団体へも参戦した。試合を重ねるにつれ個人の評価も上がり、単独参戦も増加していった。なお、当時中嶋が上がるリングは「必ず保険を団体もしくは主催興行会社が掛けてくれること」を最低条件として健介の妻の[[北斗晶]]が交渉した。


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10月5日、[[横浜文化体育館]]において、KENTAの保持する[[GHCヘビー級王座]]に初挑戦し壮絶な打撃戦を展開したが、最後はgo2sleepに敗れた。
10月5日、[[横浜文化体育館]]において、KENTAの保持する[[GHCヘビー級王座]]に初挑戦し壮絶な打撃戦を展開したが、最後はgo2sleepに敗れた。


=== フリーランス〜プロレスリング・ノア時代 (2014年2月〜) ===
=== フリー - プロレスリング・ノア時代 ===
2014年2月11日、師匠・健介にシングルで初勝利する。その後健介が引退を表明したため、結果的に健介から引導を渡す形になった。また、健介の引退と同時にダイヤモンド・リングはプロレス団体としての活動を休止する。中嶋は活動休止後の唯一のダイヤモンド・リング所属選手となり、事実上のフリーランスの扱いで、これまで通り主戦場としていたプロレスリング・ノアへ継続参戦する<ref>{{Cite news |title=勝彦以外は退団、DR事実上の休眠へ |url=http://www.daily.co.jp/ring/2014/03/05/0006753008.shtml |newspaper=デイリースポーツ |date=2014-03-05 }}</ref>。
2014年2月11日、師匠・健介にシングルで初勝利する。その後健介が引退を表明したため、結果的に健介から引導を渡す形になった。また、健介の引退と同時にダイヤモンド・リングはプロレス団体としての活動を休止する。中嶋は活動休止後の唯一のダイヤモンド・リング所属選手となり、事実上のフリーランスの扱いで、これまで通り主戦場としていたプロレスリング・ノアへ継続参戦する<ref>{{Cite news |title=勝彦以外は退団、DR事実上の休眠へ |url=http://www.daily.co.jp/ring/2014/03/05/0006753008.shtml |newspaper=デイリースポーツ |date=2014-03-05 }}</ref>。



2018年6月20日 (水) 07:27時点における版

中嶋 勝彦
中嶋 勝彦の画像
プロフィール
リングネーム 中嶋 勝彦
本名 中嶋 勝彦
ニックネーム 戦慄の蹴撃
身長 175cm
体重 95kg
誕生日 (1988-03-11) 1988年3月11日(36歳)
出身地 福岡県福岡市
所属 プロレスリング・ノア
スポーツ歴 空手
トレーナー マサ斎藤
長州力
佐々木健介
デビュー 2003年9月6日
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中嶋 勝彦(なかじま かつひこ、1988年3月11日 - )は、日本プロレスラー。妻は元タレント、元新体操選手の飯作あゆりプロレスリング・ノア所属。

来歴

デビュー前 - デビュー - WJプロレス時代

5歳から母子家庭で育った。小学校3年生より璞名館空手を始め、中学1年生の時に全国空手道大会(極真会館松井派主催)で優勝する。この頃前田日明の目に留まり、卒業後のリングスへ入団を約束されるがそれを待たずにリングスは解散となった。

2002年12月、中嶋は長州力率いるWJプロレスにスカウトされ入団、親孝行したいというのが入団の動機であった。2003年9月、WJ主催の総合格闘技興行X-1でプロデビューを飾り、金網バーリトゥード戦でジェイソン・"ゴールデンボーイ"・レイに勝利する。2004年1月、後楽園ホール石井智宏戦でプロレスデビューした。中嶋はこのとき15歳9か月であり、男子では史上最年少デビューのプロレスラーとなった。

しかし2004年3月、WJ崩壊に伴い退団となった。母子家庭の中嶋にとっては、WJに「保険制度(保険会社の保険を指すのかプロレス興行会社としての負傷欠場中の保険=生活補償金を指すのかは不明)」が無いことが退団原因の1つであった。中嶋は一旦実家に帰ったが、元WJの佐々木健介に弟子入りした。

健介オフィス / ダイヤモンド・リング時代

2004年4月より健介officeに所属する。以後中嶋は健介ファミリーの「息子」というギミックを得て、健介の付き人をこなしつつ各団体へも参戦した。試合を重ねるにつれ個人の評価も上がり、単独参戦も増加していった。なお、当時中嶋が上がるリングは「必ず保険を団体もしくは主催興行会社が掛けてくれること」を最低条件として健介の妻の北斗晶が交渉した。

2004年6月19日、みちのくプロレス札幌大会に参戦しプロレスのキャリア半年でザ・グレート・サスケを破り、シングルマッチ初勝利を飾った。

2005年3月、DRAGON GATEに健介と共に参戦、同年12月、健介officeの法人化に伴い正式に健介officeに入団し、道場長に就任した。健介ファミリーを名乗り始めた頃は、3か月の期間限定の所属で自分の所属団体を見つけてファミリーから巣立つ構想であったが、結局は健介ファミリーが自分の居場所であるという考えに至って、健介・北斗らと活動することとなった。

またこの頃より全日本プロレスを主戦場とし始め、健介office自主興行に参戦しながら全日本プロレスを中心にしつつ様々な団体へ参戦する。

その間に初代タイガーマスクとシングル、テリー・ファンクミル・マスカラスアブドーラ・ザ・ブッチャーともタッグで対戦。2006年2月11日、健介officeの自主興行・佐々木健介デビュー20周年記念興行で天龍源一郎と組み、健介・小橋建太組とタッグマッチで対戦した。2004年度のプロレス大賞・新人賞、2005年度は敢闘賞を受賞した。

2006年に定時制高校に入学した[1]

2007年2月11日、健介オフィス旗揚げ興行で健介とシングル初対決を行った。2007年2月17日、近藤修司を破り、世界ジュニアヘビー級王座を奪取する。18歳11か月での獲得は同王座最年少記録となった。だが2008年3月1日、シルバー・キングに敗北し世界ジュニアヘビー級王者から陥落した。

2008年3月、健介オフィス自主興行以外の主戦場を全日本プロレスからプロレスリング・ノアへ移す。初参戦にして同月より開催された第1回グローバル・タッグ・リーグ戦に佐々木健介とのタッグチームでエントリー。敢闘賞を獲得した。[2]

8月、第2回日テレ杯争奪ジュニアヘビー級タッグリーグ戦飯伏幸太とタッグを組んで出場する。

2009年2月11日、GHCジュニアヘビー級選手権でKENTAを下し、第17代GHCジュニアヘビー級王者となった。3月1日、初防衛戦でKENTAと再戦しKENTAにリベンジを達成され王座から陥落した。7月には日テレ杯争奪ジュニアヘビー級タッグリーグ戦に宮原健斗とタッグを組んで出場する。

2010年10月、日テレ杯争奪ジュニアヘビー級タッグリーグ戦に梶原慧とタッグを組んで出場する。

2011年9月23日、再びGHCジュニアヘビー級王者になった(対戦相手は鈴木鼓太郎)。しかし急性虫垂炎を患い、自らの申し出でベルトを返上した。

11月27日、リッキー・マルビンとのGHCジュニアヘビー級王座決定戦を行いジャーマンスープレックスホールドで勝利し、第23代GHCジュニアヘビー級王者となった。

2012年2月11日、健介オフィスが団体名称を「ダイヤモンド・リング」に改称(運営企業名称は「健介オフィス」のまま)、中嶋はダイヤモンド・リング所属選手の扱いに変更となった。

6月11日、タレントの飯作あゆりと婚約したことを発表し[3]、8月11日に結婚披露宴を行った。

11月、ノアのグローバル・リーグ戦に初出場。

2013年2月、タッグマッチで怪我のために欠場していた健介の復帰戦の相手を務めた(健介のパートナーは杉浦貴、中嶋のパートナーは大谷晋二郎)。 この頃より、ヘビー級戦線に戦いの場を次第に移していく。

8月4日、ノアの旗揚げ記念大会で第五試合終了後、丸藤正道率いるBRAVEに加入したいという意思を伝える。その場では加入は認められなかったが、この大会後からBRAVE加入のために試合でアピールを続ける。その後、8月24日にモハメド・ヨネとのシングルマッチを行い、試合後に晴れてBRAVEに正式加入した。

10月5日、横浜文化体育館において、KENTAの保持するGHCヘビー級王座に初挑戦し壮絶な打撃戦を展開したが、最後はgo2sleepに敗れた。

フリー - プロレスリング・ノア時代

2014年2月11日、師匠・健介にシングルで初勝利する。その後健介が引退を表明したため、結果的に健介から引導を渡す形になった。また、健介の引退と同時にダイヤモンド・リングはプロレス団体としての活動を休止する。中嶋は活動休止後の唯一のダイヤモンド・リング所属選手となり、事実上のフリーランスの扱いで、これまで通り主戦場としていたプロレスリング・ノアへ継続参戦する[4]

2015年8月25日、自身のブログ上でダイヤモンドリング(健介オフィス)を7月末で退団していたことを発表、完全にフリーランスとして活動をすることになった[5]

12月24日、ダイヤモンド・リング(健介オフィス)時代の2008年からずっと主戦場としてきたプロレスリング・ノアへの入団を発表、2016年1月1日付よりノア所属選手となった[6]

ノア入団後の2016年1月よりGHCヘビー級王者の杉浦貴への挑戦を狙うつもりでいた。しかし、王者・杉浦への挑戦の条件として鈴木軍から鈴木みのるとのシングル戦の勝利(敗北の場合は鈴木軍加入)が提示された。2月24日後楽園ホール大会のメインイベントで鈴木とシングル戦を行い、垂直落下式ブレーンバスター(この後、「ヴァーティカル・スパイク」と命名)で鈴木を撃破し、3月19日の後楽園ホール大会で杉浦への挑戦が決定したが敗北した[7][8]。7月、新日本プロレスG1 CLIMAXにも初参戦。

10月23日、横浜文化体育館で杉浦の保持するGHCヘビーに挑戦、4回目の挑戦で悲願の奪取を果たし初戴冠した。

戦績

総合格闘技 戦績
1 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
1 1 0 0 0 0 0
0 0 0 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 大会名 開催年月日
ジェイソン・"ゴールデンボーイ"・レイ 1R 1:25 TKO(左フック→パウンド) X-1 2003年9月6日

タイトル歴

プロレスリング・ノア
全日本プロレス
ZERO1-MAX
  • WWA世界Jrライトヘビー級王座:3回
みちのくプロレス
  • 東北タッグ王座:1回(パートナー:佐々木健介)
天龍プロジェクト
プロレス大賞
  • 2004年度プロレス大賞 新人賞
  • 2005年度プロレス大賞 敢闘賞
  • 2016年度プロレス大賞 敢闘賞

得意技

空手の腕前を生かした各種キックが得意技である。

主な決め技

ヴァーティカルスパイク
垂直落下式ブレーンバスターと基本的には同様だが、やや横にスライドしながら落とすのが特徴。現在の中嶋のメイン・フィニッシュ・ホールド。元々、後述の垂直落下旋回式ブレーンバスターを「ツイスター」の名称で使用していたが、当時、ノアで金丸義信が同じ技を「タッチアウト」の名称で使用していた為、旋回せずに決める通常型の垂直落下式ブレーンバスターをフィニッシュに切り替えた。
独自の技名称は定めずに使用していたが、2016年2月24日に鈴木みのるを、この技で撃破した後、オリジナルの名称を定めた(翌25日の新宿FACE大会より新名称で使用)[9]
ハイキック
片足を振り上げ、すね辺りで相手の頭部などの上半身を蹴りつけるキック。現在の中嶋のフィニッシュ・ホールドとしての使用頻度も高い。「戦慄の蹴撃」の異名の元になった技。
R-15
若手時代の決め技。現在も、ここ一番で使用することもある。頭部へのジャンピング・ニールキックで、技名は「ローリング・フィフティーン」の略。コーナーポストに乗っている相手にも仕掛けることがある。中嶋は、この技でザ・グレート・サスケの首を負傷させてしまい、サスケはしばらくの間欠場することになった。
デスロール
相手の後頭部へのR-15。
高角度式ジャーマンスープレックス
クラッチ位置を2段階に変えて非常に滞空時間が長い急角度ジャーマンスープレックス。
ダイヤモンドボム
ファイヤーマンズキャリーの体勢から相手を上方へ跳ね上げてから持ち替えて垂直落下式ブレーンバスターを決める荒技で、丸藤とのGHCヘビー級王者戦で対決する前哨戦にて開発された。大一番でしか出さない奥の手。

その他の得意技

打撃技

雷(いかずち)
下段蹴りのフェイントから一気に足を跳ね上げ、上から下へ蹴りを叩き込む技。主にかがんでいる相手の背中から延髄の辺りに打ち込む。
蜃気楼
左ハイキックのフェイントから転じての右ハイキック。
三角蹴り
健介オフィス旗揚げ戦から使用。コーナーポストへ瞬時に駆け上がって相手の胸板に飛び蹴りをする。
サッカーボールキック
尻餅をついている相手の背中を蹴り上げる。場外にいる相手にエプロンを走りこんでの一撃も使用している。
また、座っている相手の胸板を助走をつけてから蹴りつけるランニング式も使用(ペナルティー・キックと同じ技)。
トラースキック
若手時代から使用しているが、現在は自身が劣勢の時に流れを変える時やカウンターでの使用が多い。
各種キック

投げ技

クロスアームスープレックス
相手の腕を、相手の腹部の前で交差させた状態で胴を両腕でクラッチして投げるジャーマン・スープレックス。
ノーザンライトボム
健介と北斗の得意技で、佐々木健介デビュー20周年記念興行と近藤とのジュニアヘビー級王座戦で使用された。
ツイスター
垂直落下旋回式ブレーンバスターと同型。2009年の望月成晃との抗争中に望月に触発される形で使用していたが、後に正式に伝授された。
その後、中嶋のメインの決め技になったが、前述の様にノアにおいて金丸義信が同じ技を決め技としていたため、旋回せずに決める通常型の垂直落下式ブレーンバスターへ変更。

関節技

アンクルホールド
スタンディング式で極めて膝十字に移行する。かつてはジャーマン・スープレックス、デスロールに次ぐ中嶋のフィニッシュ・ホールドであった。
足四の字固め
 グラウンドで相手の足を自分の足に絡めて極めるクラシカルな足関節技。

飛び技

ダイビングフットスタンプ
仰向けに寝ている相手の腹部を、コーナー上からダイブして、両足で踏みつける技。
ミサイルキック
中嶋は放つ前に「いくぞ○○」と試合をしている地名の名前を叫んでから放つ事が多い。
ムーンサルトプレス
倒れている相手に、コーナー上から後ろ向きにダイブし、バック宙して相手の上へ倒れ込んでいく技。2008年の試合中に初公開された。主に大一番限定で使用する。また、かわされた際には着地することもできる。

合体技

鬼嫁殺しシリーズ
健介との合体技。打撃や投げなど数種類ある。
鬼嫁殺し1…走りこんだ中嶋を風車式バックブリーカーの要領で健介が持ち上げ、その勢いのまま中嶋が浴びせ蹴りを脳天に叩き込む。
鬼嫁殺し2…健介がトルネードボムで相手を担ぎ上げたところへ中嶋がR-15を打ち込み、同時に健介も相手をマットへ叩き付ける。
鬼嫁殺し3…中嶋がジャーマン・スープレックスで相手を持ち上げようとするところを、健介が更に中嶋を持ち上げ、相手を2人分の高さから投げ捨てる。

入場テーマ曲

  • GENIUS OF THE KICK - 現在使用中
  • 勝彦
  • POWER (作曲&編曲:鈴木修
  • 2016年1月より新テーマ曲を使用

テレビ出演

脚注

関連項目

外部リンク