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無党派だったが、社会民主主義を志向し、フィンランドの中道派に大きな影響力を有した。1928年から1929年には国防相を務めた。その後、国民進歩党に入党し、同党の指導的地位を占めた。 |
無党派だったが、社会民主主義を志向し、フィンランドの中道派に大きな影響力を有した。1928年から1929年には国防相を務めた。その後、国民進歩党に入党し、同党の指導的地位を占めた。 |
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1937年3月12日、社会民主党と連立で組閣を委任され、穏健派のR.ホルスティを外 |
1937年3月12日、社会民主党と連立で組閣を委任され、穏健派のR.ホルスティを外相に据えた。無条件の平和を政策とし、ソ・フィン関係の正常化を求めた。1938年初め、{{要出典範囲|date=2018-05|[[ドイツ]]の圧力により}}ホルスティを更迭し、[[ユホ・エルッコ]]を外相とした。{{要出典範囲|date=2018-08|1938年中盤、[[ソビエト連邦|ソ連]]はカヤンデル政権に圧力を加え、「侵略への対抗」のためにフィンランド領内へのソ連軍の進駐を許可する条約を締結せざるを得なかった。}}ソ連に対抗するために、当時力を蓄えつつあったドイツの影響力を当てにすることとなった。 |
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== 第二次世界大戦と総辞職 == |
== 第二次世界大戦と総辞職 == |
2018年5月19日 (土) 00:06時点における版
アイモ・カールロ・カヤンデル Aimo Kaarlo Cajander | |
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生年月日 | 1879年4月4日 |
出生地 |
フィンランド大公国 トゥルク・ポリ州 ウーシカウプンキ |
没年月日 | 1943年1月21日(63歳没) |
死没地 |
フィンランド ウーシマー州 ヘルシンキ |
前職 | ヘルシンキ大学教授 |
所属政党 | 国民進歩党 |
第8代フィンランド共和国首相 | |
在任期間 | 1922年6月2日 - 1922年11月14日 |
大統領 | カールロ・ユホ・ストールベリ |
第10代フィンランド共和国首相 | |
在任期間 | 1924年1月18日 - 1924年5月31日 |
元首 | カールロ・ユホ・ストールベリ |
第22代フィンランド共和国首相 | |
在任期間 | 1937年3月12日 - 1939年12月1日 |
大統領 | キュオスティ・カッリオ |
アイモ・カールロ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander、1879年4月4日 - 1943年1月21日)は、フィンランドの政治家。元首相。
政治家として
無党派だったが、社会民主主義を志向し、フィンランドの中道派に大きな影響力を有した。1928年から1929年には国防相を務めた。その後、国民進歩党に入党し、同党の指導的地位を占めた。
1937年3月12日、社会民主党と連立で組閣を委任され、穏健派のR.ホルスティを外相に据えた。無条件の平和を政策とし、ソ・フィン関係の正常化を求めた。1938年初め、ドイツの圧力により[要出典]ホルスティを更迭し、ユホ・エルッコを外相とした。1938年中盤、ソ連はカヤンデル政権に圧力を加え、「侵略への対抗」のためにフィンランド領内へのソ連軍の進駐を許可する条約を締結せざるを得なかった。[要出典]ソ連に対抗するために、当時力を蓄えつつあったドイツの影響力を当てにすることとなった。
第二次世界大戦と総辞職
1939年3月、ヘルシンキでソ・フィン交渉が始まり、ソ連はフィンランド湾内のスールサーリ、ラヴァンサーリ、大・小チュテルサーリ島の租借または割譲、ソ連側は代わりに東カレリアの係争地の一部をフィンランドに割譲することを提案した。しかし、フィンランド政府は、これに応ぜず、1939年4月、フィンランド側の発議により交渉は決裂した。1939年5月、カヤンデルは、フィンランドは国際連盟が侵略国に科す制裁の履行から解放されると表明し、ドイツの侵略があった場合、大国の保証を拒否するとイギリスに通告した。7月20日、ドイツの侵略があった場合、ソ連との協力を拒否し、いずれの国の軍事行動も侵略とみなすとソ連に通告した。
第二次世界大戦勃発後、1939年9月3日、カヤンデル政権は、フィンランドの中立を表明した。同年10月、ソ・フィン交渉が行われたが、合意には達しなかった。10月6日、カレリア地峡への部隊集結を決定し、同日、政府に非常大権を賦与する共和国防衛法を採択した。11月30日、ソ連軍が侵攻し、冬戦争が始まった日、連立を構成する社会民主党のベイノ・タナーから退陣を求められ、12月1日、カヤンデル政権は総辞職し、リスト・リュティが首相となった。
政治家である一方、カヤンデルは森林学の学者で、ミュンヘン大学で森林学を学び、1911年から1934年の間、ヘルシンキ大学で森林学の教授を務めた。
1943年1月21日、63歳で死去。