「水野忠政」の版間の差分

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#   女 ([[於大の方]])                      1528年-1602年
#   女 ([[於大の方]])                      1528年-1602年
#   女 ([[石川清兼]]の妻)
#   女 ([[石川清兼]]の妻)
#    女 (水野豊信の妻)
#五男 近信              伝兵衛。             ?-1602年
#五男 近信              伝兵衛。             ?-1602年
#   忠勝              弥平大夫。            ?-1568年
#   忠勝              弥平大夫。            ?-1568年
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#九男 [[水野忠重|忠重]]              藤十郎、惣兵衛。和泉守。  1541年-1600年
#九男 [[水野忠重|忠重]]              藤十郎、惣兵衛。和泉守。  1541年-1600年
*「近守」および「信元」の長子、次子の区別は明記されていない。没年の記載はあるが生年の逆算は不能。また、「近守」については、[[弘治]]2年([[1556年]])3月20日「父にさきだちて死す」とあるが、これは[[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])を没年とする「忠政」の記述と矛盾する。「刈谷市史」(第二巻、1994年)は、両者は父子ではないとする。
*「近守」および「信元」の長子、次子の区別は明記されていない。没年の記載はあるが生年の逆算は不能。また、「近守」については、[[弘治]]2年([[1556年]])3月20日「父にさきだちて死す」とあるが、これは[[天文 (元号)|天文]]12年([[1543年]])を没年とする「忠政」の記述と矛盾する。「刈谷市史」(第二巻、1994年)は、両者は父子ではないとする。
*三男「信近」は[[永禄]]3年([[1560年]])4月19日に岡部長教([[岡部元信]])の攻撃を受け、[[刈谷城]]にて戦死。36歳。[[数え年]]として逆算できる生年は[[1525年]]で、四男忠守と同じである([[1600年]]に76歳で死去)。「新編 東浦町誌 資料編3」(2003年)所収の「水野氏法名一覧」([[寛政]]12年)には、忠守が「長江院殿堅雄」(忠政)の三男となっている。ここでは「近守」を忠政の子としており、「刈谷市史」の立場と理由を異にする(注5)。また「信近」戦死の際、ともに刈谷城にいた五男「近信」が負傷これが原因で障害を負ったが、家康の関東入封後知行500石を与えられた。[[慶長]]7年8月9日([[1600年]]9月15日)刈谷にて死去。墓所は「信近」と同じく、愛知県[[刈谷市]]天王町6-7の[[楞厳寺]]。また子孫は江戸旗本となっている。
*三男「信近」は[[永禄]]3年([[1560年]])4月19日に岡部長教([[岡部元信]])の攻撃を受け、[[刈谷城]]にて戦死。36歳。[[数え年]]として逆算できる生年は[[1525年]]で、四男忠守と同じである([[1600年]]に76歳で死去)。「新編 東浦町誌 資料編3」(2003年)所収の「水野氏法名一覧」([[寛政]]12年)には、忠守が「長江院殿堅雄」(忠政)の三男となっている。ここでは「近守」を忠政の子としており、これを否定する「刈谷市史」の立場とは、その理由を異にする(注5)。また「信近」戦死の際、ともに刈谷城にいた五男「近信」が負傷し、これが原因で障害を負ったが、家康の関東入封後知行500石を与えられた。[[慶長]]7年8月9日([[1600年]]9月15日)刈谷にて死去。墓所は「信近」と同じく、愛知県[[刈谷市]]天王町6-7の[[楞厳寺]]。また子孫は江戸[[旗本]]となっている。
*「忠勝」は[[今川氏真]]に属し、[[武田信玄]]に密書を送った罪により[[永禄]]10年12月22日([[1568年]]1月30日)自害。子は康忠。子孫は町年寄になるという。「藤助」については「母は某氏」として「忠守」「於大の方」「近信」と母を違えること以外の記述がないが、前掲の「水野氏法名一覧」に、[[天正]]2年(12年の誤記と思われる。よって[[1584年]])4月9日に「於尾州[[小牧・長久手の戦い|長久手戦]]死」とある(ちなみに「忠重」がこの戦いに参加しており、三好秀次([[羽柴秀次]])を敗走させている)。いずれも生年はわからない。
*「忠勝」は[[今川氏真]]に属し、[[武田信玄]]に密書を送った罪により[[永禄]]10年12月22日([[1568年]]1月30日)自害。子は康忠。子孫は江戸の[[町年寄]]になるという。「藤助」については「母は某氏」として「忠守」「於大の方」「近信」と母を違えること以外の記述がないが、前掲の「水野氏法名一覧」に、[[天正]]2年(12年の誤記と思われる。よって[[1584年]])4月9日に「於尾州[[小牧・長久手の戦い|長久手戦]]死」とある(ちなみに「忠重」がこの戦いに参加しており、三好秀次([[羽柴秀次]])を敗走させている)。いずれも生年はわからない。
*「水野豊信」とその子孫についての記述が「寛政譜」6巻118項以下にある。それによると「豊信」は、家康に仕え、関東移封に付き従い、[[武蔵国]][[豊嶋郡 (武蔵国)|豊嶋郡]]に知行210石を与えられたという。子孫は江戸旗本となっている。墓所は[[東京都]][[文京区]][[本駒込]]の[[吉祥寺 (文京区)|吉祥寺]]。
*「中山勝時の妻」の生没年の記載が前掲「刈谷市史」第二巻の64項にあり、それによると没年は寛永21年(1644年)だという。しかし末子「忠重」ですら1541年生まれであって、この間100年以上の開きがある。「士林泝洄」36巻丁ノ二にあらわれる「中山五郎左衛門」の妻「信元女」(「寛政譜」新訂6巻37項に「信元」の娘としてあらわれる「大崎七郎右衛門某が妻の没年が誤記された可能性がある。
*「中山勝時の妻」の生没年の記載が前掲「刈谷市史」第二巻の64項にあり、それによると没年は寛永21年(1644年)だという。しかし末子「忠重」ですら1541年生まれであって、この間100年以上の開きがある。「[[士林泝洄]]」36巻丁ノ二にあらわれる「中山五郎左衛門」の妻「信元女」(「寛政譜」新訂6巻37項に「信元」の娘としてあらわれる「大崎七郎右衛門某が妻の没年が誤記された可能性がある。
*この表では末の娘となる女性が嫁いだのは、四男の「忠守」(織部)ではないこともちろんである。「寛政譜」記載の大膳介「忠守」とは、かつて[[大高城]]([[名古屋市]]緑区大高町城山)主であった「大高水野家」(水野大膳家)の「忠守」である。ただ、生没年がわからないことや、「大膳家」が本拠とした「大高城」とは、現在の[[愛知県]][[武豊町]]東大高周辺を城邑域とする[[富貴城]](主郭の跡は武豊町富貴字郷北。名古屋市大高町より20km以上南の知多半島東岸)である、との説がある。また、忠政の娘との婚姻そのものを疑問とする立場もある。因みに、息子「正勝」の生年を寛政譜の記述から逆算すると1505年となる。
*注1.旧暦天正3年12月27日は1575年ではなく、1576年1月にあたる。
*注1.旧暦天正3年12月27日は1575年ではなく、1576年1月にあたる。
*注2.「松平家広の妻」は「於上の方」(於丈の方)と呼ばれている。松平家広に嫁ぐ前の、最初の夫はかつての緒川城主で、天文2年(1533年)に緒川の地で「生害」したとされる[[水野成清]](常陸介成清)であり、間にもうけた子が[[水野長勝]](石見守)であるという(「寛政譜」6巻34項および6巻116項)。「寄居町史 近世資料編」(1983年)所収(530項)の「昌国寺文書」227(文久3年4月)に「水野石見守長勝母、水野右衛門大夫忠政嫡女」として、慶長2年(1597年)5月5日卒とある。法名は覚法院殿月貞妙心で、「伝通院の姉」とされている。墓所は[[埼玉県]][[寄居町]]赤浜915の[[昌国寺]]。(ただし、忠政-信元=忠勝を嫡流とする、[[水野勝成]]以降の福山・結城水野家家譜では、「於上の方」が松平家広以前に婚姻していたことが認められないという。)
*注2.「松平家広の妻」は「於上の方」(於丈の方)と呼ばれている。松平家広に嫁ぐ前の、最初の夫はかつての緒川城主で、天文2年(1533年)に緒川の地で「生害」したとされる[[水野成清]](常陸介成清)であり、間にもうけた子が[[水野長勝]](石見守)であるという(「寛政譜」6巻34項および6巻116項)。「寄居町史 近世資料編」(1983年)所収(530項)の「昌国寺文書」227(文久3年4月)に「水野石見守長勝母、水野右衛門大夫忠政嫡女」として、慶長2年(1597年)5月5日卒とある。法名は覚法院殿月貞妙心で、「伝通院の姉」とされている。墓所は[[埼玉県]][[寄居町]]赤浜915の[[昌国寺]]。(ただし、忠政-信元=忠勝を嫡流とする、[[水野勝成]]以降の福山・結城水野家家譜では、「於上の方」が松平家広以前に婚姻していたことが認められないという。)
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*注3.前述のごとく、没年は天正12年。したがって1584年である。
*注3.前述のごとく、没年は天正12年。したがって1584年である。
*注4.旧暦天正6年12月8日は1587年ではなく1579年1月にあたる。
*注4.旧暦天正6年12月8日は1587年ではなく1579年1月にあたる。
*注5.「近守」と没年が一致する「春河全芳」が「右衛門大夫御子」となっている。また「右衛門大夫」を忠政のみの呼称として用いている。
*注5.この「法名一覧」では、「近守」と没年が一致する「春河全芳」が「右衛門大夫御子」となっている。また「右衛門大夫」を忠政の呼称としてのみ用いている。


== 妻および子供たちの生母について ==
== 妻および子供たちの生母について ==
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3. 三昭貞富禅定尼 
3. 三昭貞富禅定尼 
:「水野藤次郎殿母」藤次郎=忠分、つまり忠分の母である。没年は天文12年(1543年)2月4日。半年後に忠政が死亡。
:「水野藤次郎殿母」藤次郎=忠分、つまり忠分の母である。没年は天文12年(1543年)2月4日。半年後に忠政が死亡。
4. 本樹院殿栄岩宗盛大姉
4. 本樹院殿栄岩宗盛大姉
:「水野和泉守殿之母」没年は天正15年(1587年)6月13日。「水野藤九郎」がその名を見せる、永正13年(1516年)の記述([[柴屋軒宗長]]「宇津山記」)から71年経過しており、水野藤九郎=和泉守近守の母ではありえない。ここでの「水野和泉守」は「忠重」であり、「栄岩宗盛」がその母である。
:「水野和泉守殿之母」没年は天正15年(1587年)6月13日。「水野藤九郎」がその名を見せる、永正13年(1516年)の記述([[柴屋軒宗長]]「宇津山記」)から71年経過しており、水野藤九郎=和泉守近守の母ではありえない。ここでの「水野和泉守」は「忠重」であり、「栄岩宗盛」がその母である。
以上、冒頭の2名の妻と、その他「某」とされる者を含め、4名以上の女性が子供たちの母として存在していたことがわかる。
以上、冒頭の2名の妻と、その他「某」とされる者を含め、4名以上の女性が子供たちの母として存在していたことがわかる。



2006年7月28日 (金) 02:47時点における版

水野 忠政(みずの ただまさ、?-天文12年7月12日1543年8月22日))は戦国時代の武将。 徳川家康の生母・於大の方(伝通院)の父であり、江戸時代に成立した水野諸家および徳川家の祖にあたる。

はじめ尾張国緒川城愛知県東浦町)を中心として知多半島北部をその支配下においたが、天文2年(1533年)、三河国刈谷に新城(刈谷城)を築き、これを本拠とした。織田信秀の西三河進攻に協力しつつ、他方では岡崎城松平広忠形原城松平家広などに娘を嫁がせて、領土の保全を図った。

墓所は愛知県東浦町緒川字沙弥田の乾坤院。法名は長江院殿大渓堅雄大居士。


忠政の子

寛政譜」が掲げるのは次の9男6女である。記載の順に示す。

  1.    近守              藤九郎。和泉守。         ?-1556年
  2.    信元              藤七郎、四郎衛門。下野守。    ?-1576年(注1)   
  3.    女 (松平家広の妻)                       ?-1597年(注2)
  4. 三男 信近              藤四郎、藤九郎。      1525年-1560年
  5. 四男 忠守              清六郎。織部。       1525年-1600年 
  6.    女 (於大の方)                      1528年-1602年
  7.    女 (石川清兼の妻)
  8.    女 (水野豊信の妻)
  9. 五男 近信              伝兵衛。             ?-1602年
  10.    忠勝              弥平大夫。            ?-1568年
  11.    某 (藤助)                           ?-1584年(注3)
  12.    女 (中山勝時の妻)
  13.    女 (水野大膳介忠守の妻)
  14. 八男 忠分(ただちか)        藤次郎。          1537年-1579年(注4)
  15. 九男 忠重              藤十郎、惣兵衛。和泉守。  1541年-1600年
  • 「近守」および「信元」の長子、次子の区別は明記されていない。没年の記載はあるが生年の逆算は不能。また、「近守」については、弘治2年(1556年)3月20日「父にさきだちて死す」とあるが、これは天文12年(1543年)を没年とする「忠政」の記述と矛盾する。「刈谷市史」(第二巻、1994年)は、両者は父子ではないとする。
  • 三男「信近」は永禄3年(1560年)4月19日に岡部長教(岡部元信)の攻撃を受け、刈谷城にて戦死。36歳。数え年として逆算できる生年は1525年で、四男忠守と同じである(1600年に76歳で死去)。「新編 東浦町誌 資料編3」(2003年)所収の「水野氏法名一覧」(寛政12年)には、忠守が「長江院殿堅雄」(忠政)の三男となっている。ここでは「近守」を忠政の子としており、これを否定する「刈谷市史」の立場とは、その理由を異にする(注5)。また「信近」戦死の際、ともに刈谷城にいた五男「近信」が負傷し、これが原因で障害を負ったが、家康の関東入封後知行500石を与えられた。慶長7年8月9日(1600年9月15日)刈谷にて死去。墓所は「信近」と同じく、愛知県刈谷市天王町6-7の楞厳寺。また子孫は江戸旗本となっている。
  • 「忠勝」は今川氏真に属し、武田信玄に密書を送った罪により永禄10年12月22日(1568年1月30日)自害。子は康忠。子孫は江戸の町年寄になるという。「藤助」については「母は某氏」として「忠守」「於大の方」「近信」と母を違えること以外の記述がないが、前掲の「水野氏法名一覧」に、天正2年(12年の誤記と思われる。よって1584年)4月9日に「於尾州長久手戦死」とある(ちなみに「忠重」がこの戦いに参加しており、三好秀次(羽柴秀次)を敗走させている)。いずれも生年はわからない。
  • 「水野豊信」とその子孫についての記述が「寛政譜」6巻118項以下にある。それによると「豊信」は、家康に仕え、関東移封に付き従い、武蔵国豊嶋郡に知行210石を与えられたという。子孫は江戸旗本となっている。墓所は東京都文京区本駒込吉祥寺
  • 「中山勝時の妻」の生没年の記載が前掲「刈谷市史」第二巻の64項にあり、それによると没年は寛永21年(1644年)だという。しかし末子「忠重」ですら1541年生まれであって、この間100年以上の開きがある。「士林泝洄」36巻丁ノ二にあらわれる「中山五郎左衛門」の妻「信元女」(「寛政譜」新訂6巻37項に「信元」の娘としてあらわれる「大崎七郎右衛門某が妻」の没年が誤記された可能性がある。
  • この表では末の娘となる女性が嫁いだのは、四男の「忠守」(織部)ではないこともちろんである。「寛政譜」記載の大膳介「忠守」とは、かつて大高城名古屋市緑区大高町城山)主であった「大高水野家」(水野大膳家)の「忠守」である。ただ、生没年がわからないことや、「大膳家」が本拠とした「大高城」とは、現在の愛知県武豊町東大高周辺を城邑域とする富貴城(主郭の跡は武豊町富貴字郷北。名古屋市大高町より20km以上南の知多半島東岸)である、との説がある。また、忠政の娘との婚姻そのものを疑問とする立場もある。因みに、息子「正勝」の生年を寛政譜の記述から逆算すると1505年となる。
  • 注1.旧暦天正3年12月27日は1575年ではなく、1576年1月にあたる。
  • 注2.「松平家広の妻」は「於上の方」(於丈の方)と呼ばれている。松平家広に嫁ぐ前の、最初の夫はかつての緒川城主で、天文2年(1533年)に緒川の地で「生害」したとされる水野成清(常陸介成清)であり、間にもうけた子が水野長勝(石見守)であるという(「寛政譜」6巻34項および6巻116項)。「寄居町史 近世資料編」(1983年)所収(530項)の「昌国寺文書」227(文久3年4月)に「水野石見守長勝母、水野右衛門大夫忠政嫡女」として、慶長2年(1597年)5月5日卒とある。法名は覚法院殿月貞妙心で、「伝通院の姉」とされている。墓所は埼玉県寄居町赤浜915の昌国寺。(ただし、忠政-信元=忠勝を嫡流とする、水野勝成以降の福山・結城水野家家譜では、「於上の方」が松平家広以前に婚姻していたことが認められないという。)

新訂「寛政譜」はその6巻116項で、天文2年3月24日に「戦死」もしくは「生害」した緒川城主、「成清」と、その父水野成政(水野藤助。尾張国平島城主。城跡は愛知県東海市荒尾町金山周辺)を取り上げ、「寛永諸家系図」清和源氏満政流「水野-坤」では「水野藤助」を忠政の兄として扱う。乾坤院文書の「水野氏嫡流略系図」(前掲「東浦町誌 資料編3」513項)では成政(藤助)-成清-長勝の系統(水野石見守家)を嫡流とする。また、結城水野家とのあいだに、嫡庶についての争いがあったことが認められる(「寛政譜」6巻35項および116項)。

  • 注3.前述のごとく、没年は天正12年。したがって1584年である。
  • 注4.旧暦天正6年12月8日は1587年ではなく1579年1月にあたる。
  • 注5.この「法名一覧」では、「近守」と没年が一致する「春河全芳」が「右衛門大夫御子」となっている。また「右衛門大夫」を忠政の呼称としてのみ用いている。

妻および子供たちの生母について

「寛政譜」がその出自を示すのは次の2名である。

1. 松平信貞(昌安)の娘

「信元」「松平家広の妻」の母。「死別」ではなく「離婚」となっている。

2. 大河内元網の養女

「於富の方」(華陽院)として知られる。「継室」とされている。「忠守」「於大の方」「近信」にくわえて「忠分」「忠重」の母とする。しかし伝えられている松平清康(1535年死亡)との再婚が事実とすれば、これ以後の出生と考えられる「忠分」「忠重」の母ではありえない。

「水野氏法名一覧」の中に次の2名が記されている。

3. 三昭貞富禅定尼 

「水野藤次郎殿母」。藤次郎=忠分、つまり忠分の母である。没年は天文12年(1543年)2月4日。半年後に忠政が死亡。

4. 本樹院殿栄岩宗盛大姉

「水野和泉守殿之母」。没年は天正15年(1587年)6月13日。「水野藤九郎」がその名を見せる、永正13年(1516年)の記述(柴屋軒宗長「宇津山記」)から71年経過しており、水野藤九郎=和泉守近守の母ではありえない。ここでの「水野和泉守」は「忠重」であり、「栄岩宗盛」がその母である。

以上、冒頭の2名の妻と、その他「某」とされる者を含め、4名以上の女性が子供たちの母として存在していたことがわかる。

関連項目