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2018年4月8日 (日) 09:33時点における版
津島 壽一(つしま じゅいち、新字体:寿一、1888年(明治21年)1月1日 - 1967年(昭和42年)2月7日)は、日本の官僚、政治家。正三位勲一等旭日大綬章。
第二次世界大戦後の外債処理や賠償交渉に道筋をつけたことで知られる。
来歴・人物
愛媛県阿野郡坂出村(のちの香川県坂出市)生まれ。旧制丸亀中学、旧制一高、東京帝大法学部卒業後、大蔵省に入省。昭和戦前期の代表的な国際金融官僚であり、金解禁から昭和恐慌を経て高橋財政に至るまでの期間、欧米の駐在財務官などの職にあって、一貫して第一線で実務に関わった。大蔵次官、日銀副総裁、北支那開発総裁などを経て、1945年(昭和20年)2月、内閣書記官長に転じた石渡荘太郎蔵相の後任として小磯内閣の大蔵大臣に就任[1]。終戦後の同年8月には東久邇宮内閣で再び大蔵大臣に就任した[2]。
終戦処理内閣の蔵相として津島が直面したのは戦前に日本が発行した外債の支払い問題だった。敗戦国の外債処理といえばまず返済額の減額を交渉するのが常識と考えられていた時代にあって、津島は戦争で失った国際信用を回復することが重要と考え、元金の減額や利子の停止には一切ふれずに、ただ支払い期限の10年間先延ばしを求めるにとどまった。天皇の従弟を首班とする内閣の政策に懐疑的だった諸外国もこうした日本政府の対応には一定の評価を下した。
その後、公職追放となり、1951年(昭和26年)に追放解除。同年吉田茂に乞われてフィリピンとの賠償交渉に日本国主席全権大使としてあたる。フィリピンの要求額と、日本が提示額の間には数倍の開きがあり、交渉は多難を極めたが、4年越しの地道な交渉により、沈没船の引き揚げその他の役務や生産財の現物供与などを含めることで両国は合意に至った。
1953年(昭和28年)の第3回参議院議員通常選挙に自由党公認で全国区から立候補し初当選。自由民主党合流後は第1次岸内閣改造内閣で防衛庁長官を務めた。1959年(昭和34年)、第5回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で香川県選挙区から立候補し再選された。
郷里の後輩である大平正芳に勧めて大蔵省に入省させたことや[3][4]、谷崎潤一郎の親友としても知られた。
1967年(昭和42年)2月7日死去。享年79。
役職
著書
- 『芳塘随想』(随想集・芳塘刊行会)
- 『谷崎と私』(中央公論社)
補注
参考文献
- 福永文夫『大平正芳―「戦後保守」とは何か』(初版)中央公論新社〈中公新書〉(原著2008年12月20日)。ISBN 9784121019769。
- Huebner, Stefan, Pan-Asian Sports and the Emergence of Modern Asia. NUS Press: Singapore 2016, 147-173ページ所収。
公職 | ||
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先代 石渡荘太郎 広瀬豊作 |
大蔵大臣 第46代:1945年 第48代:1945年 |
次代 広瀬豊作 渋沢敬三 |
先代 小瀧彬 |
防衛庁長官 第8代:1957年 - 1958年 |
次代 左藤義詮 |
その他の役職 | ||
先代 東龍太郎 |
日本体育協会会長 第7代 : 1959年 - 1962年 |
次代 石井光次郎 |