「イツハク・ラビン」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
31行目: 31行目:


== 生涯 ==
== 生涯 ==
高校卒業後、米国[[UCバークー校]]に合格するが進学せず、イスラエル[[陸軍士官学校]]に学んだ。
高校卒業後、米国[[UCバークー校]]に合格するが進学せず、イスラエル[[陸軍士官学校]]に学んだ。

== 軍歴 ===
== 軍歴 ===
[[ファイル:YitzhakRabin1948.png|thumb|right|200px|軍人時代のラビン(1948年)]]
[[ファイル:YitzhakRabin1948.png|thumb|right|200px|軍人時代のラビン(1948年)]]

2018年1月6日 (土) 20:40時点における版

イツハク・ラビン
יצחק רביןノーベル賞受賞者


任期 1974年6月3日1977年4月22日
元首 エフライム・カツィール大統領

任期 1992年7月13日1995年11月4日
元首 ハイム・ヘルツォーグ大統領
エゼル・ワイツマン大統領

出生 (1922-03-01) 1922年3月1日
イギリス委任統治領パレスチナエルサレム
死去 (1995-11-04) 1995年11月4日(73歳没)
イスラエルの旗 イスラエルテルアビブ
政党 労働党
配偶者 レア・ラビン
署名

イツハク・ラビンיצחק רבין,Yitzhak Rabin, 1922年3月1日 - 1995年11月4日)は、イスラエル政治家軍人。第7代参謀総長。第6代、第11代首相イスラエル労働党党首を歴任。

生涯

高校卒業後、米国UCバークレー校に合格するが進学せず、イスラエル陸軍士官学校に学んだ。

軍歴 =

軍人時代のラビン(1948年)

イギリス委任統治領パレスチナエルサレムに生まれた。1941年には、ユダヤ人民兵組織ハガナーの一部門パルマッハに参加する。第一次中東戦争においては、エルサレム防衛の指揮を取り、エジプト軍と交戦した。1962年には、イスラエル国防軍参謀総長となり、その指揮により第三次中東戦争(6日戦争)においては、エジプトヨルダンシリアに勝利した。

政界

和平合意に調印後握手をするラビンとアラファト(中央はビル・クリントン)
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1994年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:中東へ平和を築く努力に対して[1]

イスラエル国防軍退役後は外交官となり、1968年から駐アメリカ特命全権大使を務めている。1973年にはイスラエル労働党より出馬し当選、イスラエル国会議員・労働大臣となる。1974年に労働党党首となりゴルダ・メイアの跡を継いでイスラエルの首相となった。1977年に首相を辞任。

ラビンは1984年から1990年まで国防相を務め、その間に体験したパレスチナ人の抵抗(第1次インティファーダ)に衝撃を受ける。1992年に再度、首相に就任する。アラブ側との和平を進め、1993年にオスロ合意に調印し1994年にはヨルダンとの平和条約に調印した。ラビンのこの功績によりヤーセル・アラファトシモン・ペレスと共にノーベル平和賞を受賞した。

1995年11月4日、テルアビブで催された平和集会に出席したが和平反対派のユダヤ人青年イガール・アミルから至近距離より銃撃され死亡した。

イツハク・ラビンの暗殺現場(イブン・ガビーロールストリート)

これによりユダヤ人民族間の和平への道は断絶され、イスラエル内の言論は右傾化の流れを強めることとなった。

資料

  1. ^ "The Nobel Peace Prize 1994" NobelPrize.org

関連項目

公職
先代
ゴルダ・メイア
メナヘム・ベギン
イスラエルの旗 イスラエル国首相
第6代:1974 - 1977
第11代:1992 - 1995
次代
イツハク・シャミール
シモン・ペレス
党職
先代
ゴルダ・メイア
シモン・ペレス
労働党党首
第4代:1974 - 1977
第6代:1992 - 1995
次代
シモン・ペレス
シモン・ペレス
先代
ゴルダ・メイア
「同盟」代表
第4代:1974 - 1977
次代
シモン・ペレス
受賞
先代
コリン・パウエル
ロナルド・レーガン自由賞
1994
次代
フセイン1世
先代
ツビ・ツール
イスラエル国防軍参謀総長
1964年 - 1968年
次代
ハイム・バーレブ