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[[1926年]]第一[[早稲田大学高等学院]]卒業。[[1929年]][[早稲田大学]]政治経済学部政治学科を卒業。[[大阪市役所]]に奉職。若い頃から[[關一]]ら歴代市長の側近にあって市政の枢要に触れる。市民局長、総務局長を経て、[[1948年]]に助役となり、[[大阪市立大学]]の開設、[[ジェーン台風]]被災者の救援活動に尽力した。[[1956年]]、大阪市助役を退任する。
[[1926年]]第一[[早稲田大学高等学院]]卒業。[[1929年]][[早稲田大学]]政治経済学部政治学科を卒業。[[大阪市役所]]に奉職。若い頃から[[關一]]ら歴代市長の側近にあって市政の枢要に触れる。市民局長、総務局長を経て、[[1948年]]に助役となり、[[大阪市立大学]]の開設、[[ジェーン台風]]被災者の救援活動に尽力した。[[1956年]]、大阪市助役を退任する。


[[1963年]]、[[日本社会党|社会党]]・[[日本共産党|共産党]]・[[民社党]]、各労働組合や[[部落解放同盟]]の推薦を受け大阪市長選挙にクーデター的立候補し、[[自由民主党|自民党]]推薦候補を破り当選を果たす。
[[1963年]]、[[日本社会党|社会党]]・[[日本共産党|共産党]]・[[民社党]]、各労働組合や[[部落解放同盟]]の推薦を受け大阪市長選挙にクーデター的立候補し、[[自由民主党 (日本)|自民党]]推薦候補を破り当選を果たす。


2期目以降は共産党を除いた各党相乗りの選挙となり、3選を果たす。この間第13代[[全国市長会]]会長、日本万国博覧協会理事などを務めたが、3期目就任から間もない1971年11月8日に市長現職のまま死去。
2期目以降は共産党を除いた各党相乗りの選挙となり、3選を果たす。この間第13代[[全国市長会]]会長、日本万国博覧協会理事などを務めたが、3期目就任から間もない1971年11月8日に市長現職のまま死去。

2017年11月20日 (月) 08:32時点における版

中馬 馨(ちゅうま かおる、1904年11月20日 - 1971年11月8日)は、日本政治家。元大阪市長1963年 - 1971年)。元衆議院議員の中馬弘毅は長男。

経歴

1904年11月20日宮崎県児湯郡三納村(現西都市)に中馬重顕の長男として出生。1916年宮崎県立宮崎中学校(現宮崎県立大宮高等学校)入学。1920年攻玉社中学校編入し、1922年卒業。

1926年第一早稲田大学高等学院卒業。1929年早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業。大阪市役所に奉職。若い頃から關一ら歴代市長の側近にあって市政の枢要に触れる。市民局長、総務局長を経て、1948年に助役となり、大阪市立大学の開設、ジェーン台風被災者の救援活動に尽力した。1956年、大阪市助役を退任する。

1963年社会党共産党民社党、各労働組合や部落解放同盟の推薦を受け大阪市長選挙にクーデター的立候補し、自民党推薦候補を破り当選を果たす。

2期目以降は共産党を除いた各党相乗りの選挙となり、3選を果たす。この間第13代全国市長会会長、日本万国博覧協会理事などを務めたが、3期目就任から間もない1971年11月8日に市長現職のまま死去。

功罪

市長就任後は25年先を目標とするマスタープランを策定し、地下鉄網・高速道路網の整備拡張、大阪駅前再開発や船場センタービル大阪マーチャンダイズ・マートビル(OMM)等の建設を推進した。市営地下鉄の路線拡張に力を入れたことで、「地下鉄市長」と呼ばれた。

一方で、在職中に労働組合や部落解放同盟との馴合いを深め、その結果、いわゆる「公務員天国」となったことが、今日の大阪市問題を生み出した原因の一つとなった。

中央大通船場地区貫通の記

エピソード

  • 大阪市長在任中に、大阪港防潮堤新築工事を国に陳情しようと当時の大蔵大臣だった田中角榮と会談した時、田中角榮から「大阪港の防潮堤工事は大蔵省が費用を出して国の責任でやろう。しかしその代わり、大阪市内の路面電車大阪市電)を廃止してもらいたい。社会党系の市長のあんたが『大阪の路面電車を廃止します』と言えば、東京自民党や(東京都の)労働組合も(東京都電の廃止に)反対しないんだ。是非お願いしたい」と言われた逸話がある[1]
  • 大阪市の市域拡張を主張しており、1963年には大阪市会決算特別委員会で「最終的には現在の府下全部を最終的に大阪市域にするのが好ましい」と述べていた[2]
  • 1923年関東大震災発生当時(早稲田大学在学中であった)、叔母の家に見舞いに行く途中群集に取り囲まれて下富坂警察署に連行され、「死を覚悟」する程の暴行を受けたという[3]
  • 墓は豊中市服部霊園にあり、墓地使用料と管理料は大阪市が負担していたが、2006年になり大阪市議会の要求で撤去を迫られ、現在、広大な跡地は市民の霊園として利用されている。

脚注

  1. ^ 早坂茂三:「早坂茂三の『田中角榮』回想録」85-86頁 小学館 1987年
  2. ^ 【大阪W選】「2つの大阪」100年論争の結末は? 27日に投開票 産経新聞 2011年11月26日
  3. ^ 中馬馨『市政に夢を』大阪都市協会(1972年)、p.563