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[[72年]](後漢の[[永平 (漢)|永平]]15年)、劉衍が下邳王となり<ref>『[[後漢書]]』顕宗紀</ref>、[[臨淮郡]]を分割して'''下邳国'''が立てられた。下邳国は[[徐州]]に属し、治所は[[下邳|下邳県]]に置かれた。後漢の下邳国は下邳・[[徐県|徐]]・[[僮県|僮]]・[[睢陵県|睢陵]]・[[下相県|下相]]・[[淮陰県|淮陰]]・[[淮浦県|淮浦]]・[[盱眙県|盱台]]・[[高山県|高山]]・[[潘旌県|潘旌]]・[[淮陵県|淮陵]]・[[取慮県|取慮]]・[[東城県|東城]]・[[曲陽県|曲陽]]・[[司吾県|司吾]]・[[良成県|良成]]・[[夏丘県|夏丘]]の17県を管轄した<ref>『後漢書』郡国志三</ref>。[[184年]]([[中平]]元年)、下邳王劉意が死去したが、後嗣となる子がなかったため、下邳国は廃止されて、下邳郡と改められた<ref>『後漢書』孝霊帝紀</ref>。 |
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[[222年]]([[三国時代 (中国)|三国]]の[[魏 (三国)|魏]]の[[黄初]]3年)、[[曹宇]]が下邳王となり、下邳郡は下邳国と改められた。[[232年]]([[太和 (魏)|太和]]6年)、曹宇が燕王に改封されると、下邳国は下邳郡と改められた<ref>『[[三国志]]』魏書武文世王公伝</ref>。 |
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[[265年]]([[西晋]]の[[泰始 (晋)|泰始]]元年)、司馬晃が下邳王となり、下邳郡は下邳国と改められた。西晋の下邳国は下邳・[[凌県|凌]]・良城・睢陵・夏丘・取慮・僮の7県を管轄した<ref>『[[晋書]]』地理志下</ref>。 |
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[[525年]]([[北魏]]の[[孝昌]]元年)、下邳郡は[[東徐州]]に転属した。下邳郡は下邳・良城・僮・[[坊亭県|坊亭]]・柵淵・帰正の6県を管轄した<ref>『[[魏書]]』地形志二中</ref>。 |
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2017年10月11日 (水) 03:33時点における版
下邳郡(かひ-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢から隋代にかけて、現在の江蘇省北部に設置された。
概要
72年(後漢の永平15年)、劉衍が下邳王となり[1]、臨淮郡を分割して下邳国が立てられた。下邳国は徐州に属し、治所は下邳県に置かれた。後漢の下邳国は下邳・徐・僮・睢陵・下相・淮陰・淮浦・盱台・高山・潘旌・淮陵・取慮・東城・曲陽・司吾・良成・夏丘の17県を管轄した[2]。184年(中平元年)、下邳王劉意が死去したが、後嗣となる子がなかったため、下邳国は廃止されて、下邳郡と改められた[3]。
222年(三国の魏の黄初3年)、曹宇が下邳王となり、下邳郡は下邳国と改められた。232年(太和6年)、曹宇が燕王に改封されると、下邳国は下邳郡と改められた[4]。
265年(西晋の泰始元年)、司馬晃が下邳王となり、下邳郡は下邳国と改められた。西晋の下邳国は下邳・凌・良城・睢陵・夏丘・取慮・僮の7県を管轄した[5]。
525年(北魏の孝昌元年)、下邳郡は東徐州に転属した。下邳郡は下邳・良城・僮・坊亭・柵淵・帰正の6県を管轄した[6]。
533年(中大通5年)、南朝梁が下邳郡を奪った。下邳郡は武州に転属した。
550年(東魏の武定8年)、東魏が下邳郡を領有した。下邳郡は再び東徐州に転属した。
581年(開皇元年)、邳州が廃止されて、下邳郡は泗州に転属した。583年(開皇3年)、隋が郡制を廃すると、下邳郡は廃止されて、泗州に編入された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、泗州が下邳郡と改称された。下邳郡は宿豫・夏丘・徐城・淮陽・下邳・良城・郯の7県を管轄した[7]。
621年(武徳4年)、唐により下邳郡は泗州と改められ、下邳郡の呼称は姿を消した[8]。
僑置下邳郡
南下邳郡
東晋の明帝のとき、南下邳郡が僑置された。南下邳郡は下邳・北凌・僮の3県を管轄した。460年(大明4年)、南彭城郡に併合された[9]。
北下邳郡
南朝宋のとき、下邳郡の本土を失陥すると、北下邳郡が僑置された。北下邳郡は僮・下邳・寧城の3県を管轄した[9]。