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* 2005年8月6日 スコティッシュ・プレミアリーグ初出場 - スコティッシュ・プレミアリーグ第2節 vs[[ダンディー・ユナイテッド]] ([[セルティック・パーク]])
* 2005年8月6日 スコティッシュ・プレミアリーグ初出場 - スコティッシュ・プレミアリーグ第2節 vs[[ダンディー・ユナイテッド]] ([[セルティック・パーク]])
* 2005年8月28日 スコティッシュ・プレミアリーグ初得点 - スコティッシュ・プレミアリーグ第5節 vs[[ダンファームリン・アスレティックFC|ダンファームリン]] (イースト・エンド・パーク)
* 2005年8月28日 スコティッシュ・プレミアリーグ初得点 - スコティッシュ・プレミアリーグ第5節 vs[[ダンファームリン・アスレティックFC|ダンファームリン]] (イースト・エンド・パーク)
* 2006年9月13日 UEFAチャンピオンズリーグ初得点<ref group="注釈">1992年の再編成後、UEFAチャンピオンズリーグ本戦における、日本人初得点。</ref> - グループリーグ第1戦 vs[[マンチェスター・ユナイテッド]]戦 ([[オールド・トラフォード]])
* 2006年9月13日 UEFAチャンピオンズリーグ初得点<ref group="注釈">1992年の再編成後、UEFAチャンピオンズリーグ本戦における、日本人初得点。</ref> - グループリーグ第1戦 vs[[マンチェスター・ユナイテッド]]戦 ([[オールド・トラフォード]])


== 代表歴 ==
== 代表歴 ==

2017年8月14日 (月) 07:00時点における版

中村俊輔 [1]
代表時代の中村俊輔
名前
カタカナ ナカムラ シュンスケ
ラテン文字 NAKAMURA Shunsuke
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1978-06-24) 1978年6月24日(45歳)
出身地 神奈川県横浜市戸塚区
身長 178cm
体重 70kg
選手情報
在籍チーム 日本の旗 ジュビロ磐田
ポジション MF
背番号 10
利き足 左足
ユース
1994-1997 桐光学園高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1997-2002 日本の旗 横浜マリノス/横浜F・マリノス 148 (33)
2002-2005 イタリアの旗 レッジーナ 81 (11)
2005-2009 スコットランドの旗 セルティック 128 (29)
2009-2010 スペインの旗 エスパニョール 13 (0)
2010-2016 日本の旗 横浜F・マリノス 190 (35)
2017- 日本の旗 ジュビロ磐田
代表歴2
1996-1997  日本 U-20 5 (1)
1998-2000  日本 U-23 4 (0)
2000-2010 日本の旗 日本 98 (24)
1. 国内リーグ戦に限る。2016年12月3日現在。
2. 2010年6月19日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

中村 俊輔(なかむら しゅんすけ、1978年6月24日 - )は、神奈川県横浜市戸塚区出身の日本プロサッカー選手である。ポジションはミッドフィールダーJ1ジュビロ磐田所属。元日本代表

2000年2013年JリーグMVPを獲得。Jリーグ史上初のMVP複数回受賞者。ほかにアジアカップ2004MVP、2006-07スコティッシュ・プレミアリーグMVPなどの受賞歴がある。

来歴

学生時代

横浜市瀬谷区で男4兄弟の四男として生まれた[注釈 1]。俊輔の名前は母親が命名した。3歳でサッカーボールを蹴りだした。4歳の時、一家は横浜市戸塚区に引っ越した。幼稚園の体操教室では古沼貞雄にも教えを受けた若林可夫の指導を受けた[2][3]1985年、深園FCに入団し、サッカーを始める。1991年4月横浜市立深谷中学校に入学、50倍のセレクションに合格し日産(1993年から横浜マリノス)のジュニアユースに所属し[4]、2度の全国制覇を経験したが[注釈 2]ユースへの昇格が出来ず[注釈 3]、1994年に桐光学園高校へ進学しサッカー部に入部[注釈 4]、1年生次には雑用も経験した[5]。2年生次には第74回全国高等学校サッカー選手権大会に出場し、3年生次には第75回全国高等学校サッカー選手権大会で準優勝を果たした[1]

クラブ歴

横浜マリノス

1997年横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)に加入する。マリノスにおいて最初の2シーズンの背番号は25番だった[1]1997年シーズンのJリーグ優秀新人賞を受賞した。[6]

1999年のシーズンから、10番に背番号を変更した[1]。またこのシーズンにはJリーグベストイレブンを初受賞する[7]

2000年のシーズンは、22歳でJリーグ最優秀選手賞[8]日本年間最優秀選手賞を受賞した。Jリーグ最優秀選手賞受賞者の中では最年少である。

レッジーナ

2002年5月、2002 FIFAワールドカップ日本代表への招集が有力視されていたが、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した[9]。ケガが癒えた直後の同年7月、イタリアのセリエAレッジーナに移籍、レギュラーを確保しプレイスキックを任され、7得点をあげてセリエA残留に貢献した。

2003年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2003で、3得点をあげ『ブロンズシューズ賞』を受賞。2003シーズンは出来うる限り代表戦に出場したがコンディションを崩してしまったこと故障を繰り返したことが響いてリーグ戦出場は激減してしまった。

2004年2月、横浜マリノス時代のチームメート奥大介の夫人・佐伯日菜子(当時)の紹介で知り合ったタレント経験のある元ペットショップ店員と結婚。同年7月、8月に行われたアジアカップ中国大会では、最優秀選手に選ばれた。

セリエA3年目となる2004-2005シーズンは、終盤数戦こそ恥骨炎や膝の負傷などで途中出場があったがほぼスターティングメンバーとして戦いクラブ創設以来の最高順位に貢献。2005年3月にはガゼッタ・デロ・スポルトからレジーナの歴代ベストイレブンに選出された[10]。同年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2005で、1得点2アシストをあげベストイレブンに選出[11]セルティックFCの監督、ストラカンにプレーを高く評価されセルティックに移籍することとなった。

セルティック

セルティックでプレーする中村(左、2006年)

セリエAで3年間プレーした後、2005年7月に、スコティッシュ・プレミアリーグ(SPL)(UEFAヨーロッパリーグランキング10位)の2強の一角であるセルティックへ移籍(移籍金は推定250万ポンド、約4億9000万円)。リーグ優勝と国内カップ戦優勝の2冠を獲得した[12]

2006年9月、2006-07シーズンのUEFAチャンピオンズリーグに初出場する。グループリーグ第1戦、オールドトラフォードで開催されたマンチェスター・ユナイテッド戦でフリーキックによる得点をあげ、UEFAチャンピオンズカップからUEFAチャンピオンズリーグ(以下CL)に改編されてからの日本人初得点者となった[12][注釈 5]。続く対マンチェスター・ユナイテッド戦でもFKから得点、決勝トーナメント進出を果たす。これはセルティックにとって現行のCLとなって初[注釈 6]、日本人選手としても初めての快挙である[注釈 7]。2006年10月14日、ダンディー・ユナイテッド戦で海外リーグ戦における自身初のハットトリックを決めた[13]

2007年4月、セルティックのリーグ戦連覇が決まり、実質日本人で初めて欧州リーグで連覇を経験した選手となった[注釈 8]。2006-07シーズンではリーグトップの12アシストを挙げ、スコットランドPFA年間最優秀選手賞、スコティッシュ・プレミアリーグベストイレブン、スコットランド・サッカー記者協会年間最優秀選手賞を受賞、年間ベストゴール賞[注釈 9] も獲得した。アジアの人間が欧州リーグでMVPを取るのは初の快挙である[12]

エスパニョール

2009年6月22日、横浜F・マリノスなどのオファーを断り、スペイン1部リーグRCDエスパニョールへの移籍が決定した[14]。Goal.comが報じたところによると、「日本人ミッドフィルダーには大きな期待が寄せられたが、スペインでの最初のシーズンはうまくはいかなかった」[15]マウリシオ・ポチェッティーノ監督は中村がエスパニョールで本来のプレーをすることができなかった理由として、「適応」(西: adaptación[16])を挙げた[17]。セルティック時代の恩師ゴードン・ストラカンが監督を務めるイングランド2部所属のミドルスブラFCよりレンタル移籍のオファーを受ける。しかし、2部への移籍となることなどから中村本人が移籍を拒否[18]、代理人が説得へ向かうも中村が拒否したことで、エスパニョールに残留することとなった。2010年2月28日、かつて所属した横浜F・マリノスに移籍が決まった[19]

F・マリノス復帰

2002年以来のJリーグ復帰となったこの2010年シーズンでは、リーグ戦全34試合のうち32試合に出場を果たした[20]

2011年1月25日、チームは中村俊輔のキャプテン就任を発表し、本人はその中でキャプテン就任について「光栄な事」と語った[21]。3月29日、東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ がんばろうニッポン!ドラガン・ストイコビッチ率いるJリーグ TEAM AS ONEの一員として参加した[22]

2013年は自身初のリーグ年間2桁得点を記録、またJ1第30節大分戦では通算17点目となる直接フリーキックを決め、遠藤保仁が持っていたJ1のフリーキック最多得点記録を更新。しかし、11月に胆のう炎で入院し一時チームを離脱。1週間後に退院するも、その後チームは失速し9年ぶりのJリーグ優勝を逃してしまった。それでも、その年のJリーグアウォーズでは史上初の2度目のそして2016年現在最年長でのMVPを受賞した。この受賞について、古巣セルティックからも公式ホームページを通じて祝福のコメントが送られた[23]

2015年1月、5季連続となる主将への就任が決まった[24]。2月16日に左足首の手術を受け、同月20日に退院[25]。その後4月22日に今季公式戦に初出場を果たすも、5月には肉離れで再離脱となった[26]。7月19日のガンバ大阪戦で今季はじめてフル出場。同試合で直接フリーキックを決め、J1直接フリーキック得点ランキング単独1位に躍り出た[27]。このゴールは7月の月間ベストゴールに選ばれた他[28]、イギリスメディアからも称賛された[29]。その後、8月29日の浦和戦、10月3日の仙台戦でも直接フリーキックを決め、日本代表に選出されているG大阪の東口順昭、浦和の西川周作、仙台の六反勇治と現役日本代表GK全てから得点を決めている[30]

2016年1月、クラブ史上最長の6季連続となる主将就任が決まった[31]。開幕戦はインフルエンザの発症により欠場するも、第2節の福岡戦で初出場し、直接フリーキックを決めた[32]。その一方、シティ・フットボール・グループの意向が強く反映され、多くの功労者が減俸・戦力外となった強化方針への不信感は強く、シーズン終了後には「マリノス退団へ」との報道も飛び交った。年末には、共に日本代表で戦った名波浩率いるジュビロ磐田と移籍を視野に交渉した[33]

ジュビロ磐田

2017年1月7日夜、共同通信社が速報で磐田との大筋契約合意を伝え[34]1月8日に両クラブから正式に発表された[35]。横浜FMからは年俸1億2000万円の提示を受けていたが「サッカーだけに向き合い、燃え尽きたい」と8000万円を提示した磐田への移籍を決めた[36]。横浜FM側から見ればこの移籍による損失は大きく、公式サイトで声明を出すまでに至っている[37]。開幕戦のC大阪戦からスタメンでフル出場し、その試合の走行距離は両チーム合わせて一番だった[38]。3月11日に行われた第3節の大宮アルディージャ戦で移籍後初の得点を得意のフリーキックで決めた[39]。4月1日、第5節の清水エスパルス戦では初の静岡ダービーに挑み、3得点に絡む活躍で勝利に貢献した。

日本代表

1996年AFCユース選手権1996の日本代表に選出され、6試合に出場しカタール戦では1得点を決めた[40]

1997年1997 FIFAワールドユース選手権に出場し、コスタリカ戦で1得点を決めた[40]

1998年初頭にはフル代表合宿に初参加した[41]。2月15日のオーストラリア戦で岡田武史が監督を務めるフル代表に初招集されたが、このときは試合に出場することはできなかった[42]。同年12月にはアジア大会U-23日本代表に選出され、クウェート戦で1得点を決めた[40]

1999年、シドニーオリンピック予選では司令塔に抜擢された[43]

2000年U-23代表に選出され、シドニーオリンピックにて4試合に先発出場した[40]。2月13日には、AFCアジアカップ2000 (予選) のシンガポール戦でフル代表として初出場し、同月16日にブルネイ戦にてフル代表初得点を決める[40]。アジアカップ本戦では優勝とベストイレブンを受賞した[44]

2002年2月には東京、渋谷東急東横店壁面への日本代表オフィシャル・ユニフォーム、巨大広告に起用されるなど[45]2002 FIFAワールドカップ日本代表への招集が有力視されていたが、5月、代表合宿で痛めていた足首のケガが長引いたことや[43]、当時の日本代表監督であったトルシエの選考基準に合致しなかったことなどで落選した[9]

しかし、ジーコが代表監督になると、再び招集され2003年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2003で、3得点をあげ[46]『ブロンズシュー賞』を受賞した[47]

AFCアジアカップ2004では、決勝戦において日本の全3得点に絡み[48]、最優秀選手に選ばれた[1]

2005年6月、FIFAコンフェデレーションズカップ2005で、1得点[49]をあげベストイレブンに選出[50]セルティックの監督、ストラカンにプレーを高く評価されセルティックに移籍することとなった[51]

2006年6月、2006 FIFAワールドカップ日本代表に選出された。中村は、当時の代表監督ジーコに中心選手として重要視され、グループリーグ全3試合にフル出場したが、2敗1分で敗退した。第1戦のオーストラリア戦ではクロスボールが偶然にも直接得点となり、自身のW杯での唯一の得点となった。

2007年3月24日、キリンチャレンジカップペルー戦は、オシムジャパン発足してからの初選出となり、2アシストで勝利に貢献した。

南アフリカで行われた2010 FIFAワールドカップでは、グループリーグ第2戦の対オランダ戦において後半64分に途中出場するにとどまった[52][53][54][55] 。2010年7月1日には、このワールドカップを最後に日本代表を引退する意思を表明した[56]

プレースタイル

フリーキックを蹴る中村俊輔

プレースキックの名手とされており、特に直接フリーキックを得意としている[57]。ゴールに対して角度のあまりない位置から助走するのが特徴で、軸足を地面に滑り込ませるように踏み込み、勢いそのままに上半身を押し出しながら巻き上げるように足を振り抜く、独特のフォーム(画像を参照)である。元々は大きく弧を描くキックを得意としていたが、レッジーナ移籍後からはスピードに重点を置いたキックを多用している[58]

プロサッカー関係者の評価

レッジーナ時代には、監督のマッツァーリは「ナカムラはバッジョのようなもので、FWもできるし、MFもできる。素質のある選手はDFを抜くこともパスも出せるんだ。」と評した[59]プランデッリは中村について「創造性があって、相手をかわす能力を持った選手だ」と評した[60]

セルティック時代には、指揮官であるストラカンは「彼は天才だ。」という言葉を残し、また巷でタックルができない選手だと批判されていることについて異議を唱えた[61]。チームメイトであったドナーティは「ナカは技術面ではチームでナンバー1だ。他にもマクギーディブラウンら上手い選手はいるけど、ナカは別格」と述べている[62]

エスパニョールでチームメイトであったデ・ラ・ペーニャは「ナカはチーム内で一番技術が高い選手だ」と述べた[63]

元日本代表監督であったフィリップ・トルシエは2010年5月、守備能力を考えた場合、中村をW杯で起用しないことも検討するべきとコメントした[64]

パヴェル・ネドヴェドはインタビューにて日本人選手について問われた際、中村のテクニックを称賛している[65]

本田圭佑は2009年9月5日のオランダとの親善試合(オランダ・エンスヘーデ)の後半18分に、FKキッカーをめぐり、当時絶対的な存在だった中村と衝突したが、「後にも先にも、シュンさんよりFKがうまいと思ったことは1度もない。ただ、あの時は蹴りたかったから主張した」と述べている[66]

ヨシップ・イリチッチはセットプレーにおいて影響を受けた選手を問われた際、「セルティックにいたナカムラだ。彼は世界一だよ」と述べた[67]

スポーツ科学の見地から

筑波大学体育専門学群教授の浅井武(サッカー方法論)は、中村がフリーキックで蹴る「カーブシュート」の回転速度は毎秒7.5回転程度、ボールのスピードは時速99.7~101キロで(これは世界有数の高速だという。)、25メートル飛ぶ間に横に3メートル以上曲がるとみる。また、ボールの回転軸が斜めであるため、ゴール付近で急激に落ちる軌道になるという。浅井は「中村は体を傾け、全身のバネを使って、大きなパワーを生み出している」とも言う[68]

また、ボールが無回転で揺れる、いわゆる「ブレ球」のシュートを打つことがある。浅井は一般的な「ブレ玉」の蹴り方として、(1)ボールの中心をける(2)足を押し出すようにける(並進運動)(3)強くける(時速72キロ以上)の3点を挙げるが、名古屋大学総合保健体育科学センター体育科学部准教授の布目寛幸(スポーツ科学, スポーツバイオメカニクス)は、中村と本田圭佑の蹴り方を比較分析した上、中村の「ブレ玉」の蹴り方について「本田より内側(インサイド寄り)の得意とする部分でけっている。それ以外の原理は同じだ。」と指摘した。[69]

ピッチに入り乱れる選手の位置を瞬時に把握し、的確なプレーにつなげるには、「スポーツビジョン」(スポーツに必要な視力)と視野の広さが必要と言われる。その中でもサッカーでは、わずかなスペースを見つける能力である深視力の重要性が指摘されている。スポーツビジョン研究会代表の真下一策は、「選手の位置関係を立体的に認識するのが深視力。日本代表らJリーグのトップ選手と、それ以外の選手を比較すると、深視力だけが、最も開きがあった。」「糸を引くようなパスを次々通す人は、位置関係を俯瞰できる能力にたけている。」と述べ、また中村の深視力について過去に中村を指導した経験を持つ浦和アカデミーセンターコーチの池田誠剛は、「シュンは深視力の数値が良かった。」と証言している[70]

その他

中村のフリーキックは世界的にも評価が高く、海外メディアが選出する名キッカーのランキングにも度々選出されている[71][72]。またコンピュータゲームにおいても能力値は概ね高く設定されており、15,000人以上の選手が実名で登場する『FIFA 17』ではフリーキック能力値9位となっている[73]

人物

2004年に一般女性と結婚し、子どもが4人(息子3人、娘1人)いる。2012年には日本メンズファッション協会からベストファーザー賞に選ばれている[74]

代表のチームメイトである、中澤佑二遠藤保仁と仲が良い。かつてチームメイトだった川口能活を「師匠のような存在」と慕っている。解説者の中西哲生、タレントの清水圭と親交がある。

所属クラブ

アマチュア経歴
プロ経歴

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
1997 横浜M 25 J 27 5 3 0 1 0 31 5
1998 33 9 4 1 0 0 37 10
1999 横浜FM 10 J1 26 7 4 0 3 1 33 8
2000 30 5 4 1 2 0 36 6
2001 24 3 6 2 1 0 31 5
2002 8 4 - - 8 4
イタリア リーグ戦 イタリア杯オープン杯 期間通算
2002-03 レッジーナ 10 セリエA 32 7 4 1 - 36 8
2003-04 16 2 2 0 - 18 2
2004-05 33 2 0 0 - 33 2
スコットランド リーグ戦 S・リーグ杯スコティッシュ杯 期間通算
2005-06 セルティック 25 S・プレミア 33 6 4 0 1 0 38 6
2006-07 37 9 0 0 5 0 42 9
2007-08 26 6 0 0 4 1 30 7
2008-09 32 8 3 1 2 0 37 9
スペイン リーグ戦 国王杯オープン杯 期間通算
2009-10 エスパニョール 7 プリメーラ 13 0 2 0 - 15 0
日本 リーグ戦 リーグ杯天皇杯 期間通算
2010 横浜FM 25 J1 32 5 1 0 2 1 35 6
2011 24 4 2 0 5 2 31 6
2012 31 6 3 0 5 2 39 8
2013 33 10 10 2 6 1 49 13
2014 10 32 3 1 0 0 0 33 3
2015 19 3 0 0 2 0 21 3
2016 19 4 1 1 3 1 23 6
2017 磐田
通算 日本 J1 338 68 39 7 30 8 407 83
イタリア セリエA 81 11 6 1 - 87 12
スコットランド S・プレミア 128 29 7 1 12 1 147 31
スペイン プリメーラ 13 0 2 0 - 15 0
総通算 527 108 44 7 42 9 613 123

その他の公式戦

国際大会個人成績
年度 クラブ 背番号 出場 得点
UEFAUEFA CL
2006-07 セルティック 25 8 2
2007-08 4 0
2008-09 5 0
AFCACL
2014 横浜 10 5 0
通算 UEFA 17 2
出場歴

代表歴

出場大会など

各本大会での成績は以下の通り。

年代別代表[40]

  • U-20代表
1996年 AFCユース選手権1996 ベスト4 6試合出場 1得点
1997年 1997 FIFAワールドユース選手権 ベスト8 5試合出場 1得点
  • U-23代表
1998年 アジア大会 2次リーグ敗退 3試合出場 1得点
2000年 シドニーオリンピック ベスト8 4試合出場 0得点

フル代表

2000年 AFCアジアカップ2000 優勝 5試合出場 0得点[40]
2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 グループリーグ敗退 2試合出場 3得点[46]
2004年 AFCアジアカップ2004 優勝 6試合出場 2得点[40]
2005年 FIFAコンフェデレーションズカップ2005 グループリーグ敗退 3試合出場 1得点[46]
2006年 2006 FIFAワールドカップ グループリーグ敗退 3試合出場 1得点[46]
2007年 AFCアジアカップ2007 ベスト4 6試合出場 2得点[40]
2010年 2010 FIFAワールドカップ ベスト16 1試合出場 0得点[46]

試合数

  • 国際Aマッチ 出場試合数98 先発出場試合数89 交代出場試合数9 得点24 警告7 退場0 (2000年 - 2010年)[75]


日本代表国際Aマッチ
出場得点
2000 16 3
2001 1 0
2002 6 2
2003 8 4
2004 15 3
2005 11 3
2006 6 1
2007 10 4
2008 9 2
2009 11 2
2010 5 0
通算 98 24

ゴール

# 開催年月日 開催地 対戦チーム 勝敗 試合概要 出典
1. 2000年2月16日 中華人民共和国の旗 中国 ブルネイの旗 ブルネイ ○ 9-0 AFCアジアカップ2000予選 [4]
2. 2000年6月11日 日本の旗 日本 スロバキアの旗 スロバキア △ 1-1 キリンカップサッカー2000 [5]
3. 2000年8月16日 アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 ○ 3-1 [6]
4. 2002年5月2日 ホンジュラスの旗 ホンジュラス △ 3-3 [7]
5.
6. 2003年3月28日 ウルグアイの旗 ウルグアイ △ 2-2 国際親善試合 [8]
7. 2003年6月18日 フランスの旗 フランス ニュージーランドの旗 ニュージーランド ○ 3-0 FIFAコンフェデレーションズカップ2003 [9]
8.
9. 2003年6月20日 フランスの旗 フランス ● 1-2 [10]
10. 2004年6月9日 日本の旗 日本 インドの旗 インド ○ 7-0 2006 FIFAワールドカップ・アジア予選 [11]
11. 2004年7月20日 中華人民共和国の旗 中国 オマーンの旗 オマーン ○ 1-0 AFCアジアカップ2004 [12]
12. 2004年7月24日 タイ王国の旗 タイ ○ 4-1 [13]
13. 2005年6月22日 ドイツの旗 ドイツ ブラジルの旗 ブラジル △ 2-2 FIFAコンフェデレーションズカップ2005 [14]
14. 2005年9月7日 日本の旗 日本 ホンジュラスの旗 ホンジュラス ○ 5-4 キリンチャレンジカップ2005 [15]
15. 2005年10月8日  ラトビア ラトビアの旗 ラトビア △ 2-2 親善試合 [16]
16. 2006年6月12日 ドイツの旗 ドイツ オーストラリアの旗 オーストラリア ● 1-3 2006 FIFAワールドカップ [17]
17. 2007年7月13日  ベトナム アラブ首長国連邦の旗 アラブ首長国連邦 ○ 3-1 AFCアジアカップ2007 [18]
18. 2007年7月16日 ベトナムの旗 ベトナム ○ 4-1 [19]
19. 2007年9月11日  オーストリア スイスの旗 スイス ○ 4-3 3大陸トーナメント [20]
20.
21. 2008年6月2日 日本の旗 日本 オマーンの旗 オマーン ○ 3-0 2010 FIFAワールドカップ・アジア予選 [21]
22. 2008年9月6日 バーレーンの旗 バーレーン バーレーンの旗 バーレーン ○ 3-2 [22]
23. 2009年3月28日 日本の旗 日本 ○ 1-0 [23]
24. 2009年11月18日 香港の旗 香港 香港の旗 香港 ○ 4-0 AFCアジアカップ2011 (予選) [24]

タイトル・記録

クラブタイトル

横浜Fマリノス[76]
セルティックFC[77]

個人タイトル

記録

その他

出演

テレビ番組

2012年1月1日の正月特番放送にて、「窓(車両全部ではない)を開けた住宅街を走行するバスに、3分以内で開いた窓にFKを決める」課題に挑戦し見事成功。周囲からも「E難度の技」と絶賛を受けこれを見た2012年1月19日付英紙「メトロ」においても「マンチェスター・ユナイテッド相手に決めた神技健在」と絶賛を受けた。翌年以降も出演している。

CM

PV

  • Hi-Fi CAMP 「だから一歩前に踏み出して」(2009年)

出版

執筆書籍

関連書籍

DVD

  • SHUNSUKE
  • FANTASISTA Shunsuke Nakamura IN SCOTLAND GLASGOW
  • 中村俊輔の“I Love Soccer”サッカー教室〈永久保存版〉
  • 中村俊輔DVDバイオグラフィー 2002 - 2005
  • セルティック 2005 - 2006シーズン リーグチャンピオンへの軌跡
  • SHUNSUKE NAKAMURA THE SECRET OF DIRECT FREE KICK 中村俊輔 直接フリーキックの極意

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ この日は、アルゼンチンで開かれていた第11回ワールドカップ決勝戦の前日であった(スポーツスーパースター|4中村俊輔より)。
  2. ^ ただし、同チームが2年連続全国優勝を果たした3年生時は10番を背負いながら控え選手だった(『中村俊輔物語』より)。
  3. ^ 中村本人は、当時のプレーが悪かったから昇格できなかったのだと語っているが(著書 察知力)、当時の担当者はチームの平均身長が170cmのところ、俊輔は160cmに満たない身長が原因だったと述懐している。『中村俊輔物語』では体格差を個人技で補おうとしたが、そのプレイスタイルがチームの方針に合わなかったことから出場機会を失っていったという。
  4. ^ 1学年上には須藤大輔、同級生(ジュニアユースでもチームメイトだった)に佐原秀樹、1学年下に宇留野純井手口純がいる。
  5. ^ 1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップにおける初得点者は、1978-79年大会の奥寺康彦
  6. ^ UEFAチャンピオンズカップだった40年前に優勝している。
  7. ^ 1992年からCLとして再編成される以前のチャンピオンズカップでは1979年に奥寺康彦が進出している。
  8. ^ 近年の欧州リーグでの優勝に関しては中田英寿がセリエA・ASローマで優勝。
  9. ^ ダンディーユナイテッド戦のループシュート。
  10. ^ 1992年の再編成後、UEFAチャンピオンズリーグ本戦における、日本人初得点。

出典

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外部リンク