「ドースト・ムハンマド・ハーン」の版間の差分
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イギリスは、ロシアに対抗するためにアフガニスタン国内への軍の進駐を要求したが、ドースト・ムハンマドは、これに対してペシャーワルの回復という対価を要求した。アフガニスタンの強化を望まないイギリスは、旧王家サドザイの[[シュジャー・シャー]]と手を結ぶことを選び、1838年、アフガニスタンに対し宣戦を布告した([[第一次アフガン戦争]])。 |
イギリスは、ロシアに対抗するためにアフガニスタン国内への軍の進駐を要求したが、ドースト・ムハンマドは、これに対してペシャーワルの回復という対価を要求した。アフガニスタンの強化を望まないイギリスは、旧王家サドザイの[[シュジャー・シャー]]と手を結ぶことを選び、1838年、アフガニスタンに対し宣戦を布告した([[第一次アフガン戦争]])。 |
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アフガニスタンに侵攻したイギリス軍は、1839年8月、カーブルを占領。ドースト・ムハンマドはイギリスに捕らえられ<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />、シュジャー・シャーがイギリスの後援の下でアフガニスタンの国王 |
アフガニスタンに侵攻したイギリス軍は、1839年8月、カーブルを占領。ドースト・ムハンマドはイギリスに捕らえられ<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />、シュジャー・シャーがイギリスの後援の下でアフガニスタンの国王に就けられた<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.328</ref>。しかし、イギリスはカーブルと[[ジャララバード]]といった点を支配しているに過ぎず<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.328</ref>、傀儡君主であるシュジャー・ハーンにも信望はなかった<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.328</ref>(王国の実権を握っていたのは、ドースト・ムハンマドの長男で、シュジャー・ハーンの宰相を務めていた{{仮リンク|アクバル・ハーン|en|Wazir Akbar Khan}}であった<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)pp.328-329</ref>)。各地で侵略軍に対する反乱が勃発した。大損害を出したイギリス軍は、戦争の継続を断念せざるを得なかった。 |
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1842年にシュジャー・シャーが暗殺されると、再びアフガニスタンの主権を握る<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />。1855年、イギリスとの間に友好条約を締結<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />。その後はイギリスの対イラン戦争を支援した<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />。その勢力はアム川以南のトルキスタンに及び<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326</ref>、1863年にはサドーザイの手にあった[[ヘラート]]を併合するなど<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" /><ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326</ref>、現在のアフガニスタンの勢力範囲をほぼ |
1842年にシュジャー・シャーが暗殺されると、再びアフガニスタンの主権を握る<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />。1855年、イギリスとの間に友好条約を締結<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />。その後はイギリスの対イラン戦争を支援した<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" />。その勢力はアム川以南のトルキスタンに及び<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326</ref>、1863年にはサドーザイの手にあった[[ヘラート]]を併合するなど<ref name="iwanami_sekaijinmei_b1848" /><ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326</ref>、現在のアフガニスタンの勢力範囲をほぼまとめ上げた<ref>『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326</ref>。 |
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== 脚注 == |
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2017年8月8日 (火) 14:00時点における版
ドースト・ムハンマド・ハーン(1793年12月23日 - 1863年6月9日[1])は、アフガニスタンの国王(在位:1826年/1835年 - 1863年[2])。サドーザイ朝に代わるバーラクザイ朝の創始者[1]。ドゥースト・ムハンマド[1]とも表記される。
生涯
ドゥッラーニー部族連合バーラクザイ部族 (Barakzai) 出身で、カーブルの州知事であったムハンマド・アズィームの弟[3]。当時のアフガニスタンの王を出したサドーザイ部族の分族である。サドーザイ朝(狭義のドゥッラーニー朝)は部族的支配の国家であり、王は同輩中の第一人者という位置づけであって専制的な支配者ではなく、領土を王族がペシャワール、カシミール、カンダハール、カーブルの諸州に分割して統治していた[4]。
兄の死後の1826年、ハーンを宣言して国家を立てた[5]。1835年からはアミールとなった。なお、サドーザイ朝の王は「シャー」というイラン的な称号を名乗っており[6]、「アミール」というイスラム的な呼称は、シーク教徒やインドのイギリス人に対する宗教意識の現われと見なされている[7]。
イギリスは、ロシアに対抗するためにアフガニスタン国内への軍の進駐を要求したが、ドースト・ムハンマドは、これに対してペシャーワルの回復という対価を要求した。アフガニスタンの強化を望まないイギリスは、旧王家サドザイのシュジャー・シャーと手を結ぶことを選び、1838年、アフガニスタンに対し宣戦を布告した(第一次アフガン戦争)。
アフガニスタンに侵攻したイギリス軍は、1839年8月、カーブルを占領。ドースト・ムハンマドはイギリスに捕らえられ[1]、シュジャー・シャーがイギリスの後援の下でアフガニスタンの国王に就けられた[8]。しかし、イギリスはカーブルとジャララバードといった点を支配しているに過ぎず[9]、傀儡君主であるシュジャー・ハーンにも信望はなかった[10](王国の実権を握っていたのは、ドースト・ムハンマドの長男で、シュジャー・ハーンの宰相を務めていたアクバル・ハーンであった[11])。各地で侵略軍に対する反乱が勃発した。大損害を出したイギリス軍は、戦争の継続を断念せざるを得なかった。
1842年にシュジャー・シャーが暗殺されると、再びアフガニスタンの主権を握る[1]。1855年、イギリスとの間に友好条約を締結[1]。その後はイギリスの対イラン戦争を支援した[1]。その勢力はアム川以南のトルキスタンに及び[12]、1863年にはサドーザイの手にあったヘラートを併合するなど[1][13]、現在のアフガニスタンの勢力範囲をほぼまとめ上げた[14]。
脚注
- ^ a b c d e f g h 「ドゥースト・ムハンマド」『岩波世界人名事典」p.1848
- ^ 「ドゥースト・ムハンマド」『岩波世界人名事典」p.1848 は、在位期間を1826年-1863年とする。『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326は、1826-39, 1843-63と二期に分ける。
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)pp.325-326
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.325
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)pp.325-326
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.328
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.328
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.328
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)pp.328-329
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326
- ^ 『世界現代史11 中東現代史I』(山川出版社、1982年)p.326