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2017年7月31日 (月) 02:25時点における版

 
石井 忠清/石井 蔵人
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
死没 慶長14年1月21日1609年2月24日
戒名 清徳院日利
官位 蔵人(受領名)
主君 龍造寺隆信政家鍋島直茂
氏族 肥前石井氏藤原氏
父母 父:石井忠本、母:倉町家光の娘
兄弟 忠喬忠清忠晴
景弘忠昌忠増、蔵人、石井重次
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石井 忠清/石井 蔵人(いしい ただきよ/いしい くろうど)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将肥前国戦国大名龍造寺氏の重臣。肥前国佐嘉郡飯盛村を治めた石井氏の惣領。 飯盛城石井駿河守忠義の四男駿河守忠本の次男。母は倉町蔵人家光の娘。同じ諱の石井和泉守忠清は宗家当主で伯父にあたる。

来歴

蔵人忠清は、肥前国佐賀城龍造寺氏の重臣石井氏の四男家の生まれであるが、龍造寺隆信の命により、石井一族の惣領に任ぜられ、一族を率いた。それに伴い石井氏では、嫡男家の当主を「宗家」とし、実質的に一族を代表して采配を執る者を「惣領」とすることになった。

永禄5年(1565年)、龍造寺隆信が、肥前国三根郡中野城主馬場鑑周を攻めた際、龍造寺軍配下の石井隊が先陣となって奮戦した。しかし、隆信が重用した側近の勇将石井源次郎らが戦死し、戦後、隆信は源次郎の死を惜しんで、哀愁の感状をしたため、石井の惣領である蔵人忠清に贈っている(『北肥戦誌』)。

元亀元年(1570年)、今山の戦いでも、大友親貞戦死後、蔵人忠清は石井隊を率いて、納富信景隊に合流し、敗残大友軍の掃討にあたっている(『北肥戦誌』)。

蔵人忠清が病死すると、一族の惣領は、宗家連枝の石井修理亮茂成がつとめ、茂成没後は、二男家の石井兵庫助孝成が引き継いでいる。

蔵人忠清の嫡男但馬守景弘とその子孫は、佐賀藩においても、旧惣領家の由緒により重んじられた(『佐賀藩諸家差出戦功書』)。