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[[503年]](景明4年)、[[洛陽県]]が白鼠を捕らえて献上した。盧昶は外任の[[刺史]]が上の命に逆らい、民衆に乱暴をおこなって、人民の怨嗟がたまると白鼠が現れるものであると解説し、汚官を追放して租税や労役を軽減し、民力を休養させるよう上奏した。[[侍中]]に転じ、吏部尚書を兼ねた。まもなく侍中のまま、正式に吏部尚書となった。盧昶は職分を守るだけで、特に人物を推挙しようとはしなかった。侍中の元暉らと馴れ合って、[[宣武帝]]に気に入られたが、これらの行為は当時の士人たちに非難された。
[[503年]](景明4年)、[[洛陽県]]が白鼠を捕らえて献上した。盧昶は外任の[[刺史]]が上の命に逆らい、民衆に乱暴をおこなって、人民の怨嗟がたまると白鼠が現れるものであると解説し、汚官を追放して租税や労役を軽減し、民力を休養させるよう上奏した。[[侍中]]に転じ、吏部尚書を兼ねた。まもなく侍中のまま、正式に吏部尚書となった。盧昶は職分を守るだけで、特に人物を推挙しようとはしなかった。侍中の元暉らと馴れ合って、[[宣武帝]]に気に入られたが、これらの行為は当時の士人たちに非難された。


後に盧昶は鎮東将軍・[[徐州]]刺史として出向した。[[511年]]([[永平 (北魏)|永平]]4年)、[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[琅邪郡]]の民の王万寿が琅邪東莞二郡[[太守]]の劉晣ら40人あまりを殺害して、北魏の徐州に首級を送り届けてきた。盧昶は張天恵に200人の精鋭を率いさせて、応援に向かわせた。梁の洲から2軍が派遣されて張天恵の進軍をはばむと、張天恵は朐山城内の王万寿と呼応して、梁軍を撃破した。盧昶は傅文驥を派遣して朐山に入らせた。梁の将軍の[[張稷]]・[[馬仙ベン|馬仙{{zh|琕}}]]・陰虔和らが進発し、朐山を包囲した。盧昶は魏軍を率いて朐山の救援に向かった。盧昶は宣武帝に兵6000の増援と米10万石を求めたが、宣武帝は4000の兵を送るのみであった。朐山は食糧が尽きて、傅文驥は梁に降伏した。盧昶は逃走して梁軍の追撃を受け、大敗を喫した([[ク山の戦い|朐山の戦い]])。盧昶は単騎で郯城に逃げ込むと、甄琛に逮捕され、敗戦の罪を問われて免官された。
後に盧昶は鎮東将軍・[[徐州]]刺史として出向した。[[511年]]([[永平 (北魏)|永平]]4年)、[[梁 (南朝)|南朝梁]]の[[琅邪郡]]の民の王万寿が琅邪東莞二郡[[太守]]の劉晣ら40人あまりを殺害して、北魏の徐州に首級を送り届けてきた。盧昶は張天恵に200人の精鋭を率いさせて、応援に向かわせた。梁の洲から2軍が派遣されて張天恵の進軍をはばむと、張天恵は朐山城内の王万寿と呼応して、梁軍を撃破した。盧昶は傅文驥を派遣して朐山に入らせた。梁の将軍の[[張稷]]・[[馬仙ベン|馬仙{{zh|琕}}]]・陰虔和らが進発し、朐山を包囲した。盧昶は魏軍を率いて朐山の救援に向かった。盧昶は宣武帝に兵6000の増援と米10万石を求めたが、宣武帝は4000の兵を送るのみであった。朐山は食糧が尽きて、傅文驥は梁に降伏した。盧昶は逃走して梁軍の追撃を受け、大敗を喫した([[ク山の戦い|朐山の戦い]])。盧昶は単騎で郯城に逃げ込むと、甄琛に逮捕され、敗戦の罪を問われて免官された。


しばらくして太常卿として任用された。安西将軍・[[雍州]]刺史となり、さらに鎮西将軍の号を受けて、散騎常侍の位を受けた。[[516年]]([[熙平]]元年)、在官のまま死去した。征北将軍・[[冀州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は穆といった。
しばらくして太常卿として任用された。安西将軍・[[雍州]]刺史となり、さらに鎮西将軍の号を受けて、散騎常侍の位を受けた。[[516年]]([[熙平]]元年)、在官のまま死去した。征北将軍・[[冀州]]刺史の位を追贈された。[[諡]]は穆といった。

2017年7月5日 (水) 07:47時点における版

盧 昶(ろ ちょう、生年不詳 - 516年)は、北魏官僚軍人は叔達。小字は師顔。本貫范陽郡涿県

経歴

盧度世の子として生まれた。経書や史書を広く学んで、若くして名声があった。494年太和18年)、太子中舎人・兼員外散騎常侍となり、南朝斉に対する使者をつとめた。ときに斉の明帝が即位すると、北魏の孝文帝は南征の軍を発し、盧昶の兄の盧淵を別道の将として従軍させた。江南の地にあった盧昶の立場は微妙なものとなり、腐った米や臭いのひどい魚を供されて冷遇されたものの、帰国することができた。辱めを受けて生還したことを責められ、盧昶は免官された。数年を経て、彭城王元勰の友として任用され、秘書丞に転じた。500年景明元年)、中書侍郎となり、給事黄門侍郎・幽州大中正の任を受けた。後に散騎常侍に転じ、尚書を兼ねた。

503年(景明4年)、洛陽県が白鼠を捕らえて献上した。盧昶は外任の刺史が上の命に逆らい、民衆に乱暴をおこなって、人民の怨嗟がたまると白鼠が現れるものであると解説し、汚官を追放して租税や労役を軽減し、民力を休養させるよう上奏した。侍中に転じ、吏部尚書を兼ねた。まもなく侍中のまま、正式に吏部尚書となった。盧昶は職分を守るだけで、特に人物を推挙しようとはしなかった。侍中の元暉らと馴れ合って、宣武帝に気に入られたが、これらの行為は当時の士人たちに非難された。

後に盧昶は鎮東将軍・徐州刺史として出向した。511年永平4年)、南朝梁琅邪郡の民の王万寿が琅邪東莞二郡太守の劉晣ら40人あまりを殺害して、北魏の徐州に首級を送り届けてきた。盧昶は張天恵に200人の精鋭を率いさせて、応援に向かわせた。梁の鬱洲から2軍が派遣されて張天恵の進軍をはばむと、張天恵は朐山城内の王万寿と呼応して、梁軍を撃破した。盧昶は傅文驥を派遣して朐山に入らせた。梁の将軍の張稷馬仙・陰虔和らが進発し、朐山を包囲した。盧昶は魏軍を率いて朐山の救援に向かった。盧昶は宣武帝に兵6000の増援と米10万石を求めたが、宣武帝は4000の兵を送るのみであった。朐山は食糧が尽きて、傅文驥は梁に降伏した。盧昶は逃走して梁軍の追撃を受け、大敗を喫した(朐山の戦い)。盧昶は単騎で郯城に逃げ込むと、甄琛に逮捕され、敗戦の罪を問われて免官された。

しばらくして太常卿として任用された。安西将軍・雍州刺史となり、さらに鎮西将軍の号を受けて、散騎常侍の位を受けた。516年熙平元年)、在官のまま死去した。征北将軍・冀州刺史の位を追贈された。は穆といった。

子女

  • 盧元聿(字は仲訓、孝文帝の娘の義陽長公主を妻に迎え、駙馬都尉、太尉司馬・光禄大夫となった)
  • 盧元明
  • 盧元緝(字は幼緒、酒癖が悪く、宴席での些細な不満から客を手討ちにしたことがあった、秘書郎、司徒祭酒、輔国将軍・司徒司馬)

伝記資料