「第16回NHK紅白歌合戦」の版間の差分

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*曲名テロップの右側には、曲名に合わせた挿絵が添えられているのが特徴だった。
*曲名テロップの右側には、曲名に合わせた挿絵が添えられているのが特徴だった。
*優勝は白組。
*優勝は白組。
*今回使用した[[マイクロホン]]は、司会者・歌手用共にSONYとNHK放送技術研究所の共同開発コンデンサーマイク[[C-38B]]の原型の[[SONY]] CU-2A([[BTS (放送技術規格)|BTS]]呼称)後に[[SONY]] C-38(マイク上部のグリルがパンチメタル)として市販(年発売のC-38A(006P電池でみ使用可能)、[[C-38B]](ファンタム電源が使用可能に改良)が始めて使用される。その後、このマイクは民放やコンサートホール劇場でも導入され今日の漫才マイクC-38Bにつながった、坂本スミ子のみAKG D-24Eの[[ハンドマイク]]使用。
*今回使用した[[マイクロホン]]は、司会者・歌手用共にSONYとNHK放送技術研究所の共同開発コンデンサーマイク[[C-38B]]の原型の[[SONY]] CU-2A([[BTS (放送技術規格)|BTS]]呼称)後に[[SONY]] C-38(マイク上部のグリルがパンチメタル)として市販(1968年発売のC-38A(上部0グリル0ハーレーション防止ため網目に変え池塗装も薄いグレーとなるファ1970年ンタム電源が使用可能に改良)が始めて使用される。その後、このマイクは民放やコンサートホール劇場でも導入され今日の漫才マイクC-38Bにつながった、坂本スミ子のみAKG D-24Eの[[ハンドマイク]]使用。
*[[第5回NHK紅白歌合戦|第5回]]([[1954年]])の初出場から今回まで12年連続で出場した[[ペギー葉山]]は翌年の第17回で紅組司会に起用された関係で連続出場が今回を以ってストップした<ref>翌年の第17回と[[第18回NHK紅白歌合戦|第18回]]([[1967年]])の司会は「例え歌手であっても司会に専念してもらう」というNHKの方針があったため。</ref>。第18回も同年産休入りしたため出演せず(当初は同回も紅組司会の本命候補だった)、再出場はその次年である[[第19回NHK紅白歌合戦|第19回]]([[1968年]])まで待つこととなった。
*[[第5回NHK紅白歌合戦|第5回]]([[1954年]])の初出場から今回まで12年連続で出場した[[ペギー葉山]]は翌年の第17回で紅組司会に起用された関係で連続出場が今回を以ってストップした<ref>翌年の第17回と[[第18回NHK紅白歌合戦|第18回]]([[1967年]])の司会は「例え歌手であっても司会に専念してもらう」というNHKの方針があったため。</ref>。第18回も同年産休入りしたため出演せず(当初は同回も紅組司会の本命候補だった)、再出場はその次年である[[第19回NHK紅白歌合戦|第19回]]([[1968年]])まで待つこととなった。
*[[三橋美智也]]は翌年落選し、初出場以来の連続出場が途切れる。その後、[[第25回NHK紅白歌合戦|第25回]]([[1974年]]) - [[第28回NHK紅白歌合戦|第28回]]([[1977年]]]に再出場している。
*[[三橋美智也]]は翌年落選し、初出場以来の連続出場が途切れる。その後、[[第25回NHK紅白歌合戦|第25回]]([[1974年]]) - [[第28回NHK紅白歌合戦|第28回]]([[1977年]]]に再出場している。

2017年6月22日 (木) 12:50時点における版

第16回NHK紅白歌合戦
会場の東京宝塚劇場(写真は太平洋戦争以前)
ジャンル 大型音楽番組
製作
制作 NHK
放送
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1965年12月31日
回数NHK紅白歌合戦第16
NHK紅白歌合戦公式サイト
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第16回NHK紅白歌合戦
ジャンル 大型音楽番組
放送方式 生放送
放送期間 1965年12月31日
放送時間 1965年12月31日
放送局 NHKラジオ第1
公式サイト 公式サイト
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第16回NHK紅白歌合戦』は、1965年12月31日東京宝塚劇場で行われた、通算16回目のNHK紅白歌合戦。21時05分~23時45分にNHK生放送された。

概要

  • カラー放送であり、当時のオリジナルの放送用カラービデオテープが2種類現存する。現存が前から確認されていた1つ目のカラー映像は冒頭40分欠落の上、色ずれなど映像に乱れが生じ退色も激しいものであったが、2つ目のカラー映像が2011年5月にたまたまNHK局内の音楽倉庫で3本の原版2インチVTRで発見され、東京都墨田区のレトロエンタープライズの手によって修復・ダビングが行われHDCAMテープに転写され、新たにNHKアーカイブスに保管された[1]。2つ目のカラー映像は1時間40分の短縮版である[2]。また、NHKが記録したキネコ(白黒、完全版)と、白組司会を務めた宮田輝の夫人が自宅で録画し、後にNHKに提供された完全版白黒ビデオテープもあり、計4種類の映像が現存する。後年に1つ目のカラー版とキネコ版は、それぞれ違う年に『思い出の紅白歌合戦』(BS2)で再放送された(カラー版放映時は短縮編集され、同じく第14回1963年)を短縮編集したものと合わせて2年分一緒に放映)。しかし、NHKのデータベースに公式に登録されている映像はカラー版のみであり、他の2種類(白黒)はNHKの外部に保管されているものと思われる。
  • 今回はカラー写真も現存する(開催された後に発行された「グラフNHK」の表紙など)。
  • 番組側は当初紅組司会はここ2年間に引き続き江利チエミを起用する方針だったが、江利は前回の司会の際に神経疲れから胃を壊してしまい、「もうコリゴリ」と辞退。江利の辞退表明後、淡路恵子ロミ山田の起用も番組側は検討したが、最終的には前年の連続テレビ小説うず潮』(大阪局制作)のヒロイン・林美智子(且つ前回は審査員)を抜擢した[3]。朝ドラのヒロイン経験者が紅白の司会を務めるのは史上初の出来事であった[4]
  • 紅組トリは前回に引き続き美空ひばりの「」(この年の『第7回日本レコード大賞』受賞曲。前年からロングヒットした。なお前回とは異なり大トリでの歌唱となった)が選曲された。なお、これに関し各マスコミから「2年連続同じ歌を歌うとは非常識だ」とのバッシングもあった[5]
  • 翌年の大河ドラマ源義経』の出演者がゲスト出演。翌年の『大河ドラマ』の宣伝演出が行われるのは今回が初めてだった。
  • 倍賞千恵子のバックには、当時松竹歌劇団に所属していた妹の倍賞美津子がダンスで参加。このシーンは2007年に『きよしとこの夜』の中でも倍賞本人がゲストの時に紹介された(映像は1つ目のカラー版)。
  • 当時はまだ男女混成グループの出場が認められておらず、白組出場の和田弘とマヒナ・スターズの「愛して愛して愛しちゃったのよ」は、女性ボーカルの田代美代子抜きで歌った。「愛しちゃったのよ」と歌うたびに紅組側からヤジが飛ぶ中で歌い、男性ボーカルの松平直樹は曲中、「やっぱり、うちの美代子がいないと淋しいよ」と言っている。
  • この年歌謡曲歌手として初めて紫綬褒章を受章したことにより[6]東海林太郎が返り咲き、「赤城の子守唄」を歌唱した。東海林は、この年日本レコード大賞の特別賞も受賞している。
  • 曲名テロップの右側には、曲名に合わせた挿絵が添えられているのが特徴だった。
  • 優勝は白組。
  • 今回使用したマイクロホンは、司会者・歌手用共にSONYとNHK放送技術研究所の共同開発コンデンサーマイクC-38Bの原型のSONY CU-2A(BTS呼称)。後にSONY C-38(マイク上部のグリルがパンチメタル)として市販(1968年発売のC-38A(上部0グリル0ハーレーション防止のため網目に変え池塗装も薄いグレーとなるファ1970年ンタム電源が使用可能に改良)が始めて使用される。その後、このマイクは民放やコンサートホール劇場でも導入され今日の漫才マイクC-38Bにつながった、坂本スミ子のみAKG D-24Eのハンドマイク使用。
  • 第5回1954年)の初出場から今回まで12年連続で出場したペギー葉山は翌年の第17回で紅組司会に起用された関係で連続出場が今回を以ってストップした[7]。第18回も同年産休入りしたため出演せず(当初は同回も紅組司会の本命候補だった)、再出場はその次年である第19回1968年)まで待つこととなった。
  • 三橋美智也は翌年落選し、初出場以来の連続出場が途切れる。その後、第25回1974年) - 第28回1977年]に再出場している。

司会者

審査員

大会委員長

  • 浅沼博・NHK放送総局長

出場歌手

紅組 白組
歌手 歌手
三沢あけみ(2) アリューシャン小唄 舟木一夫(3) 高原のお嬢さん
都はるみ(初) 涙の連絡船 井沢八郎(初) 北海の満月
西田佐知子(5) 赤坂の夜は更けて 春日八郎(11) 大阪の灯
雪村いづみ(8) スワニー 坂本九(5) ともだち
仲宗根美樹(4) 海と野菊と船頭さん 克美しげる(2) あゝせつなきわが心
梓みちよ(3) 忘れたはずなのに ダークダックス(8) エーデルワイス
園まり(3) 逢いたくて逢いたくて 山田太郎(初) 新聞少年
九重佑三子(2) 抱きしめて 東海林太郎(4) 赤城の子守唄
日野てる子(初) 夏の日の想い出 バーブ佐竹(初) 女心の唄
朝丘雪路(8) ハロー・ドーリー 立川澄人(3) 教会へ行こう
伊東ゆかり(3) 恋する瞳 三田明(2) 若い翼
島倉千代子(9) 新妻鏡 三橋美智也(10) 二本松少年隊
岸洋子(2) 恋心 アイ・ジョージ(6) 赤いグラス
弘田三枝子(4) 恋のクンビア ジャニーズ(初) マック・ザ・ナイフ
吉永小百合(4) 天満橋から 森繁久彌(7) ゴンドラの唄
江利チエミ(13) 芸者音頭 三波春夫(8) 水戸黄門旅日記
倍賞千恵子(3) さよならはダンスのあとに 和田弘とマヒナ・スターズ(7) 愛して愛して愛しちゃったのよ
ペギー葉山(12) 学生時代 ボニージャックス(3) 手のひらを太陽に
越路吹雪(11) 夜霧のしのび逢い 植木等(4) 遺憾に存じます
水前寺清子(初) 涙を抱いた渡り鳥 村田英雄(5) 柔道水滸伝
ザ・ピーナッツ(7) ロック・アンド・ロール・ミュージック デューク・エイセス(4) キャラバン
坂本スミ子(5) グラナダ フランク永井(9) 東京しぐれ
中尾ミエ(4) 夢見るシャンソン人形 西郷輝彦(2) 星娘
こまどり姉妹(5) 恋に拍手を 北島三郎(3) 帰ろかな
美空ひばり(10) 橋幸夫(6) あの娘と僕

演奏

  • 紅組:原信夫とシャープス・アンド・フラッツ(指揮:原信夫
  • 白組:有馬徹とノーチェ・クバーナ(指揮:有馬徹)
  • NHKオール・スターズ(指揮:奥田宗宏)
  • 東京放送管弦楽団(指揮:藤山一郎

応援ゲスト

脚注

  1. ^ 社団法人 日本映画テレビ技術協会 会報掲載記事 - レトロエンタープライズ
  2. ^ NHKアーカイブス公式ページ『お宝発見ニュース』第18回
  3. ^ 合田道人『紅白歌合戦の舞台裏』、89頁。
  4. ^ 以後も朝ドラヒロイン経験者の司会起用は行われていくが、大阪局制作作品のヒロイン経験者が司会に起用されたケースは今回の林のみである。また、翌第17回1966年)以降も幾度となく朝ドラヒロイン経験者が紅組司会の候補に挙がったが、次の朝ドラヒロイン経験者の紅組司会起用は第37回1986年)まで待つこととなった(同回では同年上期作品『はね駒』のヒロイン・斉藤由貴が紅組司会を担当)。
  5. ^ 太田省一『紅白歌合戦と日本人』、114頁。
  6. ^ 読売新聞』1965年12月9日付朝刊、7頁。
  7. ^ 翌年の第17回と第18回1967年)の司会は「例え歌手であっても司会に専念してもらう」というNHKの方針があったため。

参考文献・出典

  • NHK『テレビ50年 あの日あの時、そして未来へ』(NHKサービスセンター 2003年2月)

関連項目

外部リンク