「近代」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Eskimbot (会話 | 投稿記録)
m robot Adding: bs
13行目: 13行目:
古代-中世-近代という三区分法は[[宗教改革]]期以降も引き継がれた。[[プロテスタント]]の改革者たちも中世をカトリックの支配した暗黒時代、宗教改革以降の時代を[[キリスト教]]の理想が実現され[[最後の審判]]を間近に控えた時代と考えた。また[[啓蒙時代|啓蒙主義時代]]の啓蒙主義者たちの間で[[進歩史観]]の考え方が生まれ、ルネサンス以前の中世は歴史の[[発展]]の停滞した時代、以降の近世は[[理性]]と[[知識]]が常に増大して歴史が発展を続ける時代と考えられるようになった。こうした発想から、三区分法は自明の時代区分と見なされるようになってゆく。
古代-中世-近代という三区分法は[[宗教改革]]期以降も引き継がれた。[[プロテスタント]]の改革者たちも中世をカトリックの支配した暗黒時代、宗教改革以降の時代を[[キリスト教]]の理想が実現され[[最後の審判]]を間近に控えた時代と考えた。また[[啓蒙時代|啓蒙主義時代]]の啓蒙主義者たちの間で[[進歩史観]]の考え方が生まれ、ルネサンス以前の中世は歴史の[[発展]]の停滞した時代、以降の近世は[[理性]]と[[知識]]が常に増大して歴史が発展を続ける時代と考えられるようになった。こうした発想から、三区分法は自明の時代区分と見なされるようになってゆく。


伝統的な三時代区分の発想は[[19世紀]]以降も長く[[歴史学]]を支配してきたが、ルネサンスから500年を越えるに至った現在では、ルネサンスから[[市民革命]]までを[[近世]](temps moderne、初期近代、Early Modern)として[[国民国家]]成立後の近代から区別する四分法、あるいは近世に加えて[[20世紀]]の[[世界大戦]]を経験した後の歴史を[[現代 (時代区分)|現代]]とする五分法などの修正された形で用いられている。
伝統的な三時代区分の発想は[[19世紀]]以降も長く[[歴史学]]を支配してきたが、ルネサンスから500年を越えるに至った現在では、ルネサンスから[[市民革命]]までを[[近世]](temps moderne、初期近代、Early Modern)として[[国民国家]]成立後の近代から区別する四分法、あるいは近世に加えて[[20世紀]]の[[世界大戦]]を経験した後の歴史を[[現代 (時代区分)|現代]]とする五分法などの修正された形で用いられている。また、現代と併せて'''近現代'''(きんげんだい)と呼ぶケースもある。


今日では啓蒙主義的な進歩史観は反省の対象であり、また長らく暗黒時代とみなされてきた中世の再評価が行われている。こうした動きは、500年にわたって歴史に用いられてきた近代という概念そのものへの見直しにも通じる。
今日では啓蒙主義的な進歩史観は反省の対象であり、また長らく暗黒時代とみなされてきた中世の再評価が行われている。こうした動きは、500年にわたって歴史に用いられてきた近代という概念そのものへの見直しにも通じる。

2006年6月30日 (金) 00:39時点における版

近代きんだい)は、歴史時代区分のひとつで、近世よりも後、現代よりも前の時期を指す。日本語の「近代」は、もともと英語Modernドイツ語Neuzeit の訳語として考案された漢語である。

時代区分としての近代を象徴するものは、ウエストファリア条約による主権国家体制の誕生、市民革命による市民社会の成立、産業革命による資本主義の発達、ナポレオン戦争による国民国家の形成など16世紀以降のヨーロッパで誕生し、現代世界を特徴付けている社会のあり方である。

19世紀以降、ヨーロッパで一応の完成をみた近代社会のあり方は日本をはじめとする非欧米諸国に伝わり、世界全体を覆うようになる。こうして誕生したのが、地球上の全ての人が排他的な主権国家の国民となり、国民が集まってつくられた国家が構成員として参加する国際社会であった。この一連の過程が世界史におけるである近代であり、近代以前の段階にある社会が近代的な社会のあり方を受け入れることを「近代化(Modernization)」という。

近代の誕生と変容

近代という言葉は、歴史を古代(英: Ancient, 独: Antike/Altertum)・中世(英: Middle Ages, 独: Mittelalter)そして近代(英: Modern, 独: Neuzeit)の3時代に大別するルネサンス以降のヨーロッパにおける歴史観に由来している。

ルネサンス期の人文主義者たちは、古代ギリシアローマの時代、古典古代を理想の時代とし、ローマ帝国が崩壊した後は古典古代の理想が忘れ去られた暗黒時代であったと考え、自分たちの時代は古典古代が再生し、復興した時代とみなした。古典理想時代を「古代」、暗黒時代を「中世」、今の時代を「近代」と歴史は3つの時代を移り変わったとしたのである。

古代-中世-近代という三区分法は宗教改革期以降も引き継がれた。プロテスタントの改革者たちも中世をカトリックの支配した暗黒時代、宗教改革以降の時代をキリスト教の理想が実現され最後の審判を間近に控えた時代と考えた。また啓蒙主義時代の啓蒙主義者たちの間で進歩史観の考え方が生まれ、ルネサンス以前の中世は歴史の発展の停滞した時代、以降の近世は理性知識が常に増大して歴史が発展を続ける時代と考えられるようになった。こうした発想から、三区分法は自明の時代区分と見なされるようになってゆく。

伝統的な三時代区分の発想は19世紀以降も長く歴史学を支配してきたが、ルネサンスから500年を越えるに至った現在では、ルネサンスから市民革命までを近世(temps moderne、初期近代、Early Modern)として国民国家成立後の近代から区別する四分法、あるいは近世に加えて20世紀世界大戦を経験した後の歴史を現代とする五分法などの修正された形で用いられている。また、現代と併せて近現代(きんげんだい)と呼ぶケースもある。

今日では啓蒙主義的な進歩史観は反省の対象であり、また長らく暗黒時代とみなされてきた中世の再評価が行われている。こうした動きは、500年にわたって歴史に用いられてきた近代という概念そのものへの見直しにも通じる。

近代の範囲

ヨーロッパの歴史叙述では、伝統的にルネサンス以降を近代としてきた。時代的な画期としては、西ローマ帝国の滅びた476年をもって古典古代の終わりとする意識に対応して、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)がオスマン帝国に滅ぼされた1453年が取られることが多かった。これは古代帝国の遺産である東ローマ帝国が、東方の異質な文明を持つトルコ人に滅ぼされたという事件自体の衝撃もさることながら、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)からイタリア半島に亡命してきた多くの学者が西ヨーロッパの古典古代研究を刺激し、ルネサンスの人文主義隆盛のきっかけになったという実際的な面を反映していた。

しかしながら、今日では資本主義、市民社会、国民国家といった近代を象徴する社会・経済・国家のあり方があらわれた18世紀後半から19世紀前半をもって近代の本格的な始まりとし、それ以前からルネサンス以降までの時代を初期近代(近世)として近代から区別することが行われている。その場合、大きな転機となったフランス革命の起こった1789年が時代的画期とみなされることが多い。

日本の歴史学では、初期近代にあたる時代の区分として近世という語が広く定着しており、多くの場合、近代とはっきり区別される。

日本史の時代区分では、日米和親条約鎖国を停止し、明治維新によって近代化とヨーロッパ国際社会への参入を実現してから後を近代と呼ぶ。これに対して中世的な封建制が日本独特の形に発展した幕藩体制が整備された江戸時代は近世と呼ばれるが、近年の歴史学では日本の近世を近代社会を成立させる前提条件が育まれた時代として評価することが増えている。

近代は本来、言及された時点で現在進行中の時代を指したため時代の下限は存在しないが、しばしば全世界を覆う国際社会を成立させた二度の世界大戦を画期として、現代を区別することがある。この場合、ヨーロッパの歴史では第一次世界大戦の始まった1914年、日本の歴史では第二次世界大戦の終わった1945年が画期に取られる。だが、近年のヨーロッパでは東欧革命があった1989年に区切り直すべきとする意見もある。

なお、その他の地域の歴史の時代区分についても多くの場合、近世と近代の区分が用いられるが、進歩史観の一種である唯物史観の適用などが絡んで様々な説が提唱されており、時代区分が定まっていないことがほとんどである。しかし多くの場合、中国史ではアヘン戦争以降、西アジア史ではナポレオンのエジプト遠征以降というように、ヨーロッパ列強の進出のインパクトによって伝統的な社会体制が変容を遂げた時代が近代、それ以前の時代が近世と規定されることが多い。