「アウルス・マンリウス・トルクァトゥス・アッティクス」の版間の差分
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紀元前244年の同僚執政官は[[ガイウス・センプロニウス・ブラエスス]]<ref>Fasti Capitolini ; Velleius Paterculus 1, 14, 8; among others</ref>、紀元前241年の同僚執政官は[[クィントゥス・ルタティウス・ケルコ]]であった<ref>Fasti Capitolini ; Livius 30, 44, 1; among others</ref>。紀元前241年、ローマは20年以上も続いていた[[第一次ポエニ戦争]]に勝利した。しかし、そのすぐ後に、ファリスキ |
紀元前244年の同僚執政官は[[ガイウス・センプロニウス・ブラエスス]]<ref>Fasti Capitolini ; Velleius Paterculus 1, 14, 8; among others</ref>、紀元前241年の同僚執政官は[[クィントゥス・ルタティウス・ケルコ]]であった<ref>Fasti Capitolini ; Livius 30, 44, 1; among others</ref>。紀元前241年、ローマは20年以上も続いていた[[第一次ポエニ戦争]]に勝利した。しかし、そのすぐ後に、ファリスキ人([[:en:Falisci|en]])が反乱を起こし、鎮圧のために二人の執政官が派遣された。緒戦でローマの歩兵部隊が敗北したもののファリスキの騎兵も壊滅した。続く戦いでローマは勝利し、結局6日間で鎮圧された。反乱者は厳しく罰せられた<ref>Zonaras 8, 18; See Polybios 1, 65, 2; Eutropius 2, 28; Livius, periochae 19; among others</ref>。山中の要害にあったファリスキ人の都市ファレリー([[:en:Falerii|en]])は破壊され、麓に再建された(現在の[[チーヴィタ・カステッラーナ]])<ref>Zonaras: 8, in Cassius Dio, Roman History, Fragments of Book 12 </ref>。このファリスキ族鎮圧の功績のために、アティックスは凱旋式を実施する栄誉を得た。 |
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第一次ポエニ戦争の勝利を機に、共和政ローマの歴史の中でこの一回だけであるが、[[ヤヌス神殿]]の扉を一時的に閉じた(ヤヌスの扉は戦時には開けられ、平時に閉じられることとなっていたが、これ以前は[[王政ローマ|王政時代]]も含め400年に渡って開けられたままであった。今回も8年後に再び扉は開けられ、次に閉じたのは[[アウグストゥス]]であった)。しかし、初期のローマ年代記編者は、この行いを[[紀元前235年]]と[[紀元前224年]]の執政官である[[ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥス (紀元前235年の執政官)|ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥス]]のものと誤って記録している<ref>Marcus Terentius Varro , De lingua latina 5, 165; Livius 1, 19, 3; Plutarch , Numa 20: 2; and others; In addition Thomas A. Szlezák : Manlius [I 19]. In: Brill's New Pauly (DNP). Vol. 7, Metzler, Stuttgart 1999, ISBN 3-476-01477-0 , Sp. 826</ref>。 |
第一次ポエニ戦争の勝利を機に、共和政ローマの歴史の中でこの一回だけであるが、[[ヤヌス神殿]]の扉を一時的に閉じた(ヤヌスの扉は戦時には開けられ、平時に閉じられることとなっていたが、これ以前は[[王政ローマ|王政時代]]も含め400年に渡って開けられたままであった。今回も8年後に再び扉は開けられ、次に閉じたのは[[アウグストゥス]]であった)。しかし、初期のローマ年代記編者は、この行いを[[紀元前235年]]と[[紀元前224年]]の執政官である[[ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥス (紀元前235年の執政官)|ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥス]]のものと誤って記録している<ref>Marcus Terentius Varro , De lingua latina 5, 165; Livius 1, 19, 3; Plutarch , Numa 20: 2; and others; In addition Thomas A. Szlezák : Manlius [I 19]. In: Brill's New Pauly (DNP). Vol. 7, Metzler, Stuttgart 1999, ISBN 3-476-01477-0 , Sp. 826</ref>。 |
2017年5月6日 (土) 15:40時点における版
アウルス・マンリウス・トルクァトゥス・アッティクス(Aulus Manlius Torquatus Atticus)は紀元前3世紀のパトリキ出身の共和政ローマの政治家である。
経歴
紀元前247年にアウルス・アティリウス・カラティヌスと共にケンソル(監察官)に就任した後[1]、紀元前244年と紀元前241年の二度、執政官(コンスル)に選出されている。
紀元前244年の同僚執政官はガイウス・センプロニウス・ブラエスス[2]、紀元前241年の同僚執政官はクィントゥス・ルタティウス・ケルコであった[3]。紀元前241年、ローマは20年以上も続いていた第一次ポエニ戦争に勝利した。しかし、そのすぐ後に、ファリスキ人(en)が反乱を起こし、鎮圧のために二人の執政官が派遣された。緒戦でローマの歩兵部隊が敗北したもののファリスキの騎兵も壊滅した。続く戦いでローマは勝利し、結局6日間で鎮圧された。反乱者は厳しく罰せられた[4]。山中の要害にあったファリスキ人の都市ファレリー(en)は破壊され、麓に再建された(現在のチーヴィタ・カステッラーナ)[5]。このファリスキ族鎮圧の功績のために、アティックスは凱旋式を実施する栄誉を得た。
第一次ポエニ戦争の勝利を機に、共和政ローマの歴史の中でこの一回だけであるが、ヤヌス神殿の扉を一時的に閉じた(ヤヌスの扉は戦時には開けられ、平時に閉じられることとなっていたが、これ以前は王政時代も含め400年に渡って開けられたままであった。今回も8年後に再び扉は開けられ、次に閉じたのはアウグストゥスであった)。しかし、初期のローマ年代記編者は、この行いを紀元前235年と紀元前224年の執政官であるティトゥス・マンリウス・トルクァトゥスのものと誤って記録している[6]。
大プリニウスは、アッティクスが食事中に急死したと述べている[7]。しかしながら、歴史家のフリードリヒ・ミュンツァー(en)によれば、これは彼ではなく、紀元前164年の執政官であるアウルス・マンリウス・トルクァトゥスのことであるとされている[8]。
脚注
- ^ Fasti Capitolini(ローマ執政官一覧)
- ^ Fasti Capitolini ; Velleius Paterculus 1, 14, 8; among others
- ^ Fasti Capitolini ; Livius 30, 44, 1; among others
- ^ Zonaras 8, 18; See Polybios 1, 65, 2; Eutropius 2, 28; Livius, periochae 19; among others
- ^ Zonaras: 8, in Cassius Dio, Roman History, Fragments of Book 12
- ^ Marcus Terentius Varro , De lingua latina 5, 165; Livius 1, 19, 3; Plutarch , Numa 20: 2; and others; In addition Thomas A. Szlezák : Manlius [I 19]. In: Brill's New Pauly (DNP). Vol. 7, Metzler, Stuttgart 1999, ISBN 3-476-01477-0 , Sp. 826
- ^ Pliny the Elder , Naturalis historia 7, 183.
- ^ Friedrich Münzer : Manlius 87). In: Pauly's Recyclopedia of Classical Antiquity (RE). Volume XIV, 1, Stuttgart, 1928, p. 1212.
参考資料
- Friedrich Münzer : Manlius 87). In: Pauly's Recyclopedia of Classical Antiquity (RE). Volume XIV, 1, Stuttgart, 1928, p. 1211 f.
関連項目
公職 | ||
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先代 マルクス・ファビウス・ブテオ、 ガイウス・アティリウス・ブルブス |
ローマの執政官(コンスル) 紀元前244年 同僚 ガイウス・センプロニウス・ブラエスス |
次代 ガイウス・フンダニウス・フンドゥルス、 ガイウス・スルピキウス・ガルス |
公職 | ||
先代 ガイウス・ルタティウス・カトゥルス、 アウルス・ポストゥミウス・アルビヌス |
ローマの執政官(コンスル) 紀元前241年 同僚 クィントゥス・ルタティウス・ケルコ |
次代 ガイウス・クラウディウス・ケント、 マルクス・センプロニウス・トゥディタヌス |