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画 = [[Image:SirBarton-Johnny Loftus-1919Preakness.jpg|240px|center]]<span style="font-size:small">1919年5月19日ピムリコ競馬場にて<br />(J.ロフタス騎乗、プリークネスステークス)</span>| |
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'''サーバートン'''(''Sir Barton'')は、[[1918年]]から[[1920年]]にかけて活躍した[[アメリカ合衆国]]の[[競走馬]]。[[1919年]]に史上初の現行アメリカ[[三冠 (競馬)|三冠]]を達成した。 |
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サーバートンは[[1916年]]に[[ケンタッキー州]]で生まれる。そこそこの良血馬で、父がアメリカ[[リーディングサイアー]]5回を獲得したスターシュート、母がレディースターリングであった。生産者であるマッデンとグーチはこの仔馬を1918年に[[カナダ]]人のビジネスマン、ジョン・ケネス・ラソン・ロスに1万ドルで販売している。そしてH.G.ベドウェルに[[調教]]を受けることになった。 |
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デビュー戦は2歳の6月に出走したトレモントステークス。ここを6着に敗退すると、以後も惨敗続きで[[フューチュリティステークス]]で2着に入ったのが唯一の好走である、それ以外は全て大差で負けるという芳しく無いものであった。 |
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しかし、翌年サーバートンは[[ケンタッキーダービー]]に出走し2番人気に押された。もっとも、これは僚馬ビリーケリーが注目されていたからであり(欧米では馬主単位で[[投票券 (公営競技)|馬券]]が発行されるため、ビリーケリーとサーバートンで1つの馬券になる)、サーバートンはビリーケリーの[[ペースメーカー]]に過ぎなかった。だが、結果はサーバートンがビリーケリーを5馬身差突き放し圧勝してしまった。ケンタッキーダービーがサーバートンの初勝利である。そして4日後に[[プリークネスステークス]]を4馬身差で連勝、さらに[[ベルモントステークス]]にも5馬身差で楽勝、史上初の現アメリカ三冠を達成した。 |
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ただしこの頃のアメリカは現在の三冠体系とは違い[[ウィザーズステークス]]、ベルモントステークス、[[ローレンスリアライゼーションステークス]]の3レースを三冠としていたためサーバートン自身が三冠馬と呼ばれていたわけではないが、サーバートンはプリークネスステークスとベルモントステークスの間にウィザーズステークスも勝ち取っており、さらに現三冠に当る競走も既に相当の格を得ていたためこの年の米年度代表馬に選ばれている。 |
ただしこの頃のアメリカは現在の三冠体系とは違い[[ウィザーズステークス]]、ベルモントステークス、[[ローレンスリアライゼーションステークス]]の3レースを三冠としていたためサーバートン自身が三冠馬と呼ばれていたわけではないが、サーバートンはプリークネスステークスとベルモントステークスの間にウィザーズステークスも勝ち取っており、さらに現三冠に当る競走も既に相当の格を得ていたためこの年の米年度代表馬に選ばれている。 |
2006年6月29日 (木) 08:28時点における版
Template:競走馬P サーバートン(Sir Barton)は、1918年から1920年にかけて活躍したアメリカ合衆国の競走馬。1919年に史上初の現行アメリカ三冠を達成した。
サーバートンは1916年にケンタッキー州で生まれる。そこそこの良血馬で、父がアメリカリーディングサイアー5回を獲得したスターシュート、母がレディースターリングであった。生産者であるマッデンとグーチはこの仔馬を1918年にカナダ人のビジネスマン、ジョン・ケネス・ラソン・ロスに1万ドルで販売している。そしてH.G.ベドウェルに調教を受けることになった。
デビュー戦は2歳の6月に出走したトレモントステークス。ここを6着に敗退すると、以後も惨敗続きでフューチュリティステークスで2着に入ったのが唯一の好走である、それ以外は全て大差で負けるという芳しく無いものであった。
しかし、翌年サーバートンはケンタッキーダービーに出走し2番人気に押された。もっとも、これは僚馬ビリーケリーが注目されていたからであり(欧米では馬主単位で馬券が発行されるため、ビリーケリーとサーバートンで1つの馬券になる)、サーバートンはビリーケリーのペースメーカーに過ぎなかった。だが、結果はサーバートンがビリーケリーを5馬身差突き放し圧勝してしまった。ケンタッキーダービーがサーバートンの初勝利である。そして4日後にプリークネスステークスを4馬身差で連勝、さらにベルモントステークスにも5馬身差で楽勝、史上初の現アメリカ三冠を達成した。
ただしこの頃のアメリカは現在の三冠体系とは違いウィザーズステークス、ベルモントステークス、ローレンスリアライゼーションステークスの3レースを三冠としていたためサーバートン自身が三冠馬と呼ばれていたわけではないが、サーバートンはプリークネスステークスとベルモントステークスの間にウィザーズステークスも勝ち取っており、さらに現三冠に当る競走も既に相当の格を得ていたためこの年の米年度代表馬に選ばれている。
サーバートンは4歳になっても活躍し、サトラガハンデキャップではレコードでエクスターミネーターを破っている。だが、サーバートンの翌年に旧アメリカ三冠を達成し無敵を誇っていたマンノウォーとの新旧三冠馬によるマッチレースとなったケニルワースパークゴールドカップでは、マンノウォーに敗れてしまった。このため現在サーバートンが最強馬と呼ばれることは皆無である。レースはマンノウォーが先行し、その1馬身後方をサーバートンが追いかける展開、だがその差は縮まる事はなくマンノウォーが7馬身差でゴールした。サーバートンにとっては完敗であった。そしてその後3戦したが3,3,2着と勝てず引退している。
年度別競走成績
1918年(6戦0勝)
1919年(13戦8勝)
- ケンタッキーダービー、プリークネスステークス、ベルモントステークス、ウィザーズステークス、メリーランドハンデキャップ、ピムフォールシリアルの2と3
1920年(12戦5勝)
- サトラガハンデキャップ、ドミニオンハンデキャップ、マーチャンツ&シッツハンデキャップ
引退後
引退後は種牡馬入りしたがそれほどの成功を収めることはなかった、代表産駒はケンタッキーオークスに優勝したイースターストッキング。その後1937年に死亡し、ララミー山脈の山麓にある牧場に埋葬された。現在サーバートンを記念するメモリアルがワイオミングのコンバースカウンティーのワシントンパークにある。
- 1957年 - 米競馬の殿堂入り。
- 20世紀のアメリカの名馬100選(ブラッドホース誌) - 49位。
血統表
サーバートンの血統(アイソミー系/Sterling4×3=18.75% Vandal5×5=6.25%(母内)) | (血統表の出典) | |||
父 Star Shoot 1898年 栗毛 |
父の父 Isinglass1890年 鹿毛 |
Isonomy | Sterling | |
Isola Bella | ||||
Dead-Lock | Wenlock | |||
Malpractice | ||||
父の母 Astrology1887年 栗毛 |
Hermit | Newminster | ||
Seclusion | ||||
Stella | Brother to Strafford | |||
Toxophilite Mare | ||||
母 Lady Sterling 1899年 栗毛 |
Hanover 1884年 栗毛 |
Hindoo | Virgil | |
Florence | ||||
Bourbon Belle | Bonnie Scotland | |||
Ella D. | ||||
母の母 Aquila1891年 |
Sterling | Oxford | ||
Whisper | ||||
Eagle | Phoenix | |||
Au Revoir F-No.9 |