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この講和により河東の乱は収束し、今川は遠江平定・三河侵攻、北条は北関東侵攻に専念する状況が生まれた。その後も今川と北条間は、不信による緊張状態にあったものの争乱に発展することはなく、天文21年([[1552年]])に晴信が仲介して甲駿相三国がそれぞれ婚姻関係を結び攻守同盟としての[[甲相駿三国同盟]]が成立した。
この講和により河東の乱は収束し、今川は遠江平定・三河侵攻、北条は北関東侵攻に専念する状況が生まれた。その後も今川と北条間は、不信による緊張状態にあったものの争乱に発展することはなく、天文21年([[1552年]])に晴信が仲介して甲駿相三国がそれぞれ婚姻関係を結び攻守同盟としての[[甲相駿三国同盟]]が成立した。

== 「第3次河東一乱」 ==
なお後世に成立した北条の軍記物(『[[関八州古戦録]]』、『小田原五代記』)には「天文23年([[1554年]])、義元が[[三河国]]に出兵している隙を突いて氏康が再び駿河に侵攻するが、義元の盟友である晴信の援軍などもあって駿河侵攻は思うように進まなかった」といった第3次河東一乱とみられる動きが描かれているが、この動きは今川氏や武田氏・近隣国に関する同時代史料・軍記からは確認できず、遺跡・史料研究の齟齬からも、小和田哲男、有光友学、黒田基樹他、今川氏や後北条氏、武田氏の研究者による見解は否定的である<ref>小和田哲男『今川義元』152頁。</ref><ref>有光友学『今川義元』113-117頁、264-265頁。</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2017年4月1日 (土) 16:18時点における版

河東の乱(かとうのらん)とは、戦国時代天文5年(1536年)から天文14年(1545年)までの間に、駿河国静岡県中部および東部)で起こった駿河の今川氏相模国北条氏との戦いである。「河東」は争奪の対象となった富士川以東の地域を意味する[1]河東一乱とも呼ばれる。

第1次河東一乱

戦国期の東国において、駿河の守護大名の今川氏と、相模の新興戦国大名であった北条氏は、駿相同盟を結び甲斐国武田氏と抗争していた。しかし、今川氏では氏輝期に武田と和睦し、さらに後継者争いの花倉の乱を制し、天文5年(1536年)に当主となった今川義元は翌天文6年2月に甲斐国守護武田信虎の娘である定恵院を正室に迎え、甲駿同盟が強化された。

北条氏は甲相国境において武田方と抗争していた[2]ため、甲駿同盟の成立を駿相同盟の破綻とみなした北条家当主の氏綱は、2月下旬に駿河へ侵攻する。義元は軍勢を出して氏綱の軍勢を退けようとしたが、氏綱は富士川以東の地域(河東)を占拠した。氏綱は、今川家の継承権争いで義元と反目していた遠江(静岡県西部)の堀越氏(氏綱娘が堀越貞基室)、井伊氏等と手を結び、今川を挟み撃ちにした。これによって義元の戦力は分断されてしまい、信虎は義元に援軍を送ったものの河東から北条軍を取り除くことは出来なかった。

天文10年には甲斐で武田信虎が駿河へ追放され、嫡男の晴信(信玄)が当主となり信濃侵攻を開始する。相模でも氏綱が死去し氏康が家督を継承。氏康は河東における今川氏との対峙と平行して北関東への進出を企図し、利害が一致した武田北条間で甲相同盟が成立している。

第2次河東一乱

天文14年(1545年)、義元は北条氏に占拠されたままの河東を奪還すべく行動を開始した。義元は晴信による仲介のほか、独自に北条氏との和睦の道を探り、京都より聖護院門跡道増の下向を請うて北条氏康との交渉を行ったが、このときは氏康が難色を示し不調に終わる。そのため義元は、引き続き武田を仲介に和睦を模索しつつも、道増の帰洛後ただちに軍事行動を起こした[3]

義元は晴信や北関東において北条方と抗争していた山内上杉氏上杉憲政に、北条氏の挟み撃ち作戦を持ちかける。7月下旬、義元は富士川を越え、善得寺に布陣。義元と信玄は対面して申し合わせた。氏康率いる北条軍は駿河に急行してこれに応戦したものの、今川・武田が駿河、山内上杉が関東で同時に軍事行動に出て北条軍の兵力を分断する作戦に打って出たことで、前回の第1次とは逆に挟み撃ちにされてしまった。

9月初旬には、今川軍に武田軍が合流し、この連合軍の攻撃に押された北条軍は、吉原城を放棄し三島に退却。9月16日に吉原城は自落する。そのままの勢いで今川軍は三島(静岡県三島市)まで攻め入り、北条幻庵の守る長久保城駿東郡長泉町)(一説には城将は葛山氏元)を包囲し、今井狐橋[4]などで戦闘に及んだ[5]狐橋の戦い)。関東では山内・扇谷連合の大軍に武蔵国河越城を包囲され窮地に陥った氏康に、10月下旬には晴信が仲介役として双方の間に割って入り、停戦が成立。

11月初旬、今川家重臣・太原雪斎を交えて誓詞を交し合った後、北条氏は長久保城を今川氏に明け渡した(『高白斎記』による)[6]。挟撃の片方を治めた氏康は河越城の戦いに打って出ることとなった。

この講和により河東の乱は収束し、今川は遠江平定・三河侵攻、北条は北関東侵攻に専念する状況が生まれた。その後も今川と北条間は、不信による緊張状態にあったものの争乱に発展することはなく、天文21年(1552年)に晴信が仲介して甲駿相三国がそれぞれ婚姻関係を結び攻守同盟としての甲相駿三国同盟が成立した。

「第3次河東一乱」

なお後世に成立した北条の軍記物(『関八州古戦録』、『小田原五代記』)には「天文23年(1554年)、義元が三河国に出兵している隙を突いて氏康が再び駿河に侵攻するが、義元の盟友である晴信の援軍などもあって駿河侵攻は思うように進まなかった」といった第3次河東一乱とみられる動きが描かれているが、この動きは今川氏や武田氏・近隣国に関する同時代史料・軍記からは確認できず、遺跡・史料研究の齟齬からも、小和田哲男、有光友学、黒田基樹他、今川氏や後北条氏、武田氏の研究者による見解は否定的である[7][8]

脚注

  1. ^ 戦国時代に武田家、今川家、北條家の三国が隣接していた富士川から黄瀬川までの一帯を三家は河東郡と呼称したのが始まりだが、実際には河東郡という郡は存在せず、当事者である三家が勝手に必要上呼称していただけである。
  2. ^ 武田氏は関東地方において北条氏と敵対していた扇谷上杉家と同盟関係にあったため、武田信虎は扇谷上杉家の要請を受けてたびたび北条領に侵攻していた。
  3. ^ 平山優『武田信玄』31頁。
  4. ^ 富士市の吉原湊北(小和田哲男『今川義元』2004年、ミネルヴァ書房、または長久保城城外(『静岡県古城めぐり』静岡新聞社刊、)
  5. ^ 天野安芸守宛「今川義元感状」『静岡県史』
  6. ^ 平山優『武田信玄』34頁。
  7. ^ 小和田哲男『今川義元』152頁。
  8. ^ 有光友学『今川義元』113-117頁、264-265頁。

参考文献

関連項目