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その後、心理学研究から産業能率、科学的管理法の研究者となる。さらに[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から[[マネジメント]]思想と技術を導入、産業界に紹介し、日本最初の[[経営コンサルタント|マネジメント・コンサルタント]]と言われる実績を残した。
その後、心理学研究から産業能率、科学的管理法の研究者となる。さらに[[アメリカ合衆国|アメリカ]]から[[マネジメント]]思想と技術を導入、産業界に紹介し、日本最初の[[経営コンサルタント|マネジメント・コンサルタント]]と言われる実績を残した。

横濱専門学校(現・[[神奈川大学]])の法経学部にて産業能率論の講師を務める。


[[1909年]]、[[大槻快尊]]・[[倉橋惣三]]・[[菅原教造]]らと共に[[心理学通俗講話会]]の設立に参画した{{Sfn|斉藤昭俊|1974|p=48}}。
[[1909年]]、[[大槻快尊]]・[[倉橋惣三]]・[[菅原教造]]らと共に[[心理学通俗講話会]]の設立に参画した{{Sfn|斉藤昭俊|1974|p=48}}。
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[学校法人産業能率大学]]
*[[学校法人産業能率大学]]
*横濱専門学校(現・[[神奈川大学]])-創設者[[米田吉盛]]に請われ講師を担当する。
*[[上野一郎]] - 陽一の長男。産業能率短期大学を母体に[[産業能率大学]]を設立。
*[[上野一郎]] - 陽一の長男。産業能率短期大学を母体に[[産業能率大学]]を設立。
*[[上野彦馬]] - 陽一の[[おじ|伯父]]に当たる(陽一の父・幸馬の実兄)。日本における最初期の写真家であり、「日本写真の開祖」として知られる。幸馬が早くに亡くなったため、陽一は少年時代の一時期を長崎の彦馬の下で過ごした。
*[[上野彦馬]] - 陽一の[[おじ|伯父]]に当たる(陽一の父・幸馬の実兄)。日本における最初期の写真家であり、「日本写真の開祖」として知られる。幸馬が早くに亡くなったため、陽一は少年時代の一時期を長崎の彦馬の下で過ごした。

2017年2月27日 (月) 04:26時点における版

上野陽一
生誕 (1883-10-28) 1883年10月28日
東京市
死没 (1957-10-15) 1957年10月15日(73歳没)
居住 大日本帝国の旗 大日本帝国
東京市麻布区[1]
研究分野 心理学
研究機関 日本産業能率研究所
出身校 東京帝国大学
プロジェクト:人物伝
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上野 陽一(うえのよういち、1883年10月28日 - 1957年10月15日)は日本経営学者、産業心理学者。産業能率短期大学の創始者。フレデリック・テイラーによる科学的管理法を「能率学」と名付け邦訳し、日本における経営学の端緒を開き「能率の父」と呼ばれる。位階勲等正四位勲二等

経歴

東京出身。1903年東京帝国大学(現在の東京大学)文学部哲学科に選科生として入学。心理学を専攻し、1907年に本科生となり1908年に卒業する。

その後、心理学研究から産業能率、科学的管理法の研究者となる。さらにアメリカからマネジメント思想と技術を導入、産業界に紹介し、日本最初のマネジメント・コンサルタントと言われる実績を残した。

横濱専門学校(現・神奈川大学)の法経学部にて産業能率論の講師を務める。

1909年大槻快尊倉橋惣三菅原教造らと共に心理学通俗講話会の設立に参画した[2]

1922年財団法人協調会に設けられた産業能率研究所の所長に就任。1925年に協調会より分離独立し、日本産業能率研究所を設立。

1942年に同研究所を母体に日本能率学校を設立。

第二次世界大戦後は人事院人事官として公務員制度の確立に努める一方、1950年に日本能率学校を発展的改組させ、産業能率短期大学を設立した。

著書

  • 1901年 学校と社会 松村三邑堂
  • 1907年 英語講義 語学速成研究所
  • 1909年 実験心理学講義 同文館
  • 1910年 エンジェル機能主義心理学講義 同文館
  • 1911年 感情の論理 目黒書店
  • 1913年 心理学要領 大日本図書
  • 1914年 心理学通義 大日本図書
  • 1916年 学校児童精神検査法指針 中文館
  • 1918年 商業心理講話 早稲田大学出版部
  • 1919年 人及ビ事業能率ノ心理 同文館
  • 1919年 モイマン実験教育学綱要(阿部重孝と共編) 大日本図書
  • 1921年 児童心理学精義 中文館
  • 上野, 陽一、野田, 信夫『近世心理学史』同文館、1922年。NDLJP:1177879 
  • 1924年 広告術 三省堂
  • 1925年 能率学者の旅日記 プラトン社
  • 1926年 産業能率講義要領 日本産業能率研究所
  • 1927年 産業能率概論 同文館
  • 『生活と能率』同文館、1927年。NDLJP:1443251 
  • 1928年 事業統制論 同文館
  • 1929年 事業統制図表 同文館
  • 1929年 産業能率論 千倉書房
  • 『能率秘話』千倉書房、1930年。NDLJP:1177879 
  • 『家庭経済の秘訣』千倉書房、1930年。NDLJP:1029995 
  • 『教育能率の根本問題』賢文館、1930年。NDLJP:1464444 
  • 1931年 販売心理 千倉書房
  • 1931年 心理学教科書 大日本図書
  • 1932年 経営作戦 千倉書房
  • 1932年 模範仕入販売法 同文館
  • 1932年 計画経済と管理法 千倉書房
  • 1932年 商店経営 賢文館1
  • 1932年 テーラー全集:著述 同文館
  • 1933年 テーラー全集:論文 同文館
  • 1933年 子供の教養を語る 明治図書
  • 1933年 能率百話 千倉書房 全国書誌番号:47016514
  • 1933年 能率茶話 千倉書房
  • 1933年 模範商店経営法 千倉書房
  • 1933年 能率文明論 同文館
  • 1934年 事務必携 同文館
  • 1934年 人を説く法 千倉書房
  • 1935年 己れを作る法 千倉書房
  • 1935年 商店経営の能率 トウシン社
  • 1935年 チエトチカラノハナシ カナモジカイ
  • 1936年 小売店経営の根本原則 文録社
  • 1936年 人を観る法 千倉書房
  • 1937年 購買管理及倉庫管理 千倉書房
  • 1937年 店員読本 誠文堂新光社
  • 1937年 商人経 実業之日本社
  • 1938年 経営者読本 千倉書房
  • 1938年 新事務必携 同文社
  • 1938年 能率概論 同文館
  • 1938年 人生心得帳 新興機械販売
  • 1939年 坐の生理心理的研究 同愛会
  • 1939年 能率ハンドブック(上・中・下) 同文会
  • 1941年 上野陽一選集 潮文閣
  • 1942年 産業能率訓 教学社
  • 1943年 能率と青年 潮文閣
  • 1945年 新能率生活 光文社
  • 1946年 能率24時間 柏書院
  • 1947年 能率道講話 産業能率専門学校
  • 1948年 新能率24時間 柏書院
  • 1948年 能率学原論:原理編 日本能率学校
  • 1948年 国家公務員新給与法解説 労働文化社
  • 1948年 人間学断片 叢文社
  • 1949年 能率学原論 同文館
  • 1949年 卓上能率日記 技報堂
  • 1950年 公務員ノアリカタ 中央労働学園
  • 1950年 ダースなら安くなる(共訳) 日本能率協会
  • 1951年 私はこう考える 池田書店
  • 1951年 己を活かす法 池田書店
  • 1951年 監督者のあり方 技報堂
  • 1952年 人事管理:理論と実際 池田書店
  • 1953年 一日一話能率三百六十五日 池田書店
  • 1954年 たれにもわかるハンニャ心経 大法輪閣
  • 1954年 人を使う法 池田書店
  • 1954年 新版能率ハンドブック 技報堂
  • 1954年 人事管理の諸問題 大蔵出版
  • 1955年 科学的管理法ノアユミ 産業能率短期大学
  • 1955年 能率学原論(改訂版) 技報堂
  • 1956年 能率道講話(改訂版) 技報堂
  • 1957年 科学的管理法(訳) 技報堂
  • 1957年 近代管理技法ハンドブック(共著) 同文館
  • 1957年 役にたつ考え方 実業之日本社
  • 1957年 働く頭にする工夫 池田書店
  • 1957年 独創性の開発とその技法 技報堂
  • 1957年 人生を2倍に生きる 池田書店
  • 1980年 シャカの教えとその一生 産業能率大学出版部

関連項目

  • 学校法人産業能率大学
  • 横濱専門学校(現・神奈川大学)-創設者米田吉盛に請われ講師を担当する。
  • 上野一郎 - 陽一の長男。産業能率短期大学を母体に産業能率大学を設立。
  • 上野彦馬 - 陽一の伯父に当たる(陽一の父・幸馬の実兄)。日本における最初期の写真家であり、「日本写真の開祖」として知られる。幸馬が早くに亡くなったため、陽一は少年時代の一時期を長崎の彦馬の下で過ごした。
  • 国語国字問題 - 陽一は能率運動との関係で国字問題に関心を持ち、カナモジカイの有力な支援者となり、自著『教育能率の根本問題』で将来の日本人のためには教育の根本問題である国語国字の改善が第一歩であると説いた。また、自著の専門書の大部分もカタカナ・漢字ワカチグミの横書きで出版された。

外部リンク

脚注

  1. ^ 『会員氏名録』学士会。(1935年)より遡及入力。
  2. ^ 斉藤昭俊 1974, p. 48.

参考文献

外部リンク