「スヴェルケル1世 (スウェーデン王)」の版間の差分
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{{基礎情報 君主 |
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[[ファイル:Sweartgar_I_of_Sweden_relief_2009_Heda_Ödeshög_(crop).jpg|サムネイル|275x275ピクセル|伝統的なスヴェルケル1世の肖像]] |
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| 人名 = スヴェルケル1世(老王) |
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| 各国語表記 = Swærkir konongær gambli |
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| 君主号 = スウェーデン王 |
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| 画像 = Sweartgar_I_of_Sweden_relief_2009_Heda_Ödeshög_(crop).jpg |
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| 画像サイズ = |
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| 画像説明 = |
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| 在位 = 1130年頃 - 1156年 |
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| 戴冠日 = |
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| 別号 = |
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| 全名 = |
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| 出生日 = |
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| 生地 = |
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| 死亡日 = [[1156年]][[12月25日]] |
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| 没地 = |
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| 埋葬日 = |
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| 埋葬地 = |
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| 継承者 = |
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| 継承形式 = |
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| 配偶者1 = [[ウルフヒルド・ホーコンスドッタ]] |
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| 配偶者2 = リチェザ |
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| 子女 = [[#家族|一覧参照]] |
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| 王家 = [[ステンキル家]] |
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| 王朝 = [[ステンキル家|ステンキル朝]] |
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| 王室歌 = |
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| 父親 = [[ステンキル (スウェーデン王)|ステンキル]] |
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| 母親 = エンカリム |
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== 略歴 == |
== 略歴 == |
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[[1156年]]の[[クリスマス]]に、スヴェルケルはアルヴァストラ小修道院での祭祀に赴く途上のアレベーク橋で殺害された。これは中世の習いとはいえ衝撃的な事件だった。犯人は王位[[僭称]]者マグヌス・ヘンリクソン(後の[[マグヌス2世 (スウェーデン王)|マグヌス2世]] )だったと考えられている。 |
[[1156年]]の[[クリスマス]]に、スヴェルケルはアルヴァストラ小修道院での祭祀に赴く途上のアレベーク橋で殺害された。これは中世の習いとはいえ衝撃的な事件だった。犯人は王位[[僭称]]者マグヌス・ヘンリクソン(後の[[マグヌス2世 (スウェーデン王)|マグヌス2世]] )だったと考えられている。 |
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[[詩人一覧 (散文作品)|詩人一覧]]は、スヴェルケルの2つの[[スカルド詩]]の名 |
『[[詩人一覧 (散文作品)|詩人一覧]]』には、スヴェルケルの2つの[[スカルド詩]]の名が記されている。 |
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== 家族 == |
== 家族 == |
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最初の妻[[ウルフヒルド・ホーコンスドッタ]]は[[インゲ2世 (スウェーデン王)|インゲ2世]]の未亡人で、再婚した[[デンマーク王]][[ニルス (デンマーク王)|ニルス]]の元から脱走してスヴェルケルに嫁いだ。 |
最初の妻[[ウルフヒルド・ホーコンスドッタ]](ホーコン・フィンソンの娘)は[[インゲ2世 (スウェーデン王)|インゲ2世]]の未亡人で、再婚した[[デンマーク王]][[ニルス (デンマーク王)|ニルス]]の元から脱走してスヴェルケルに嫁いだ。2男2女をもうけた。 |
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* ヨハン |
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* 息子 [[ヨーン・ヤール]] (Jon jarl) |
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* [[カール7世 (スウェーデン王)|カール7世]] - スウェーデン王(1161年 - 1167年) |
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* インゲヤルド(1204年死去) - [[ヴレタ修道院]]院長 |
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* ヘレナ - デンマーク王[[クヌーズ5世]]妃 |
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第二の妻リチェザは以前にマグヌス1世やミンスク |
第二の妻リチェザ(ポーランド大公[[ボレスワフ3世クシヴォウスティ|ボレスワフ3世]]の娘)は、以前に[[マグヌス1世 (スウェーデン王)|マグヌス1世]]やミンスク公[[ヴォロダリ・グレボヴィチ|ヴォロダリ]]と結婚していた。1男をもうけた。 |
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* [[ボレスワフ (エステルイェートランド王)|ボレスワフ]] |
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さらに、母親が不明の息子が一人いる。 |
さらに、母親が不明の息子が一人いる。 |
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* [[スーネ・スィーキ]] |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
2017年2月18日 (土) 08:45時点における版
スヴェルケル1世(老王) Swærkir konongær gambli | |
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スウェーデン王 | |
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在位 | 1130年頃 - 1156年 |
死去 |
1156年12月25日 |
配偶者 | ウルフヒルド・ホーコンスドッタ |
リチェザ | |
子女 | 一覧参照 |
家名 | ステンキル家 |
王朝 | ステンキル朝 |
父親 | ステンキル |
母親 | エンカリム |
スヴェルケル老王 (古スウェーデン語: Swærkir konongær gambli、生年未詳 - 1156年12月25日)もしくはスヴェルケル1世は、スウェーデン王(在位:1130年頃 - 1156年)。スヴェルケル家出身の最初のスウェーデン王である。
略歴
スヴェルケル家はエステルイェートランドの大貴族であった。スヴェルケルは1130年代の初めに王として認められ、エストリズセン家のマグヌス1世を倒しヴェステルイェートランドを征服した。 彼の治世は26年ほどとされているが、詳しいことは分かっていない。アルヴァストラ修道院やニダーラ修道院、ヴァーンヘム修道院はこの時代の創立となる。
ノヴゴロド第一年代記によれば、1142年にスウェーデン軍がノヴゴロド共和国を襲撃している。両国の間には両国の王家間の婚姻により長い間平和が保たれていたが、この衝突により3世紀にわたって続くスウェーデン・ノヴゴロド戦争が勃発することとなる。
1156年のクリスマスに、スヴェルケルはアルヴァストラ小修道院での祭祀に赴く途上のアレベーク橋で殺害された。これは中世の習いとはいえ衝撃的な事件だった。犯人は王位僭称者マグヌス・ヘンリクソン(後のマグヌス2世 )だったと考えられている。
『詩人一覧』には、スヴェルケルの2つのスカルド詩の名が記されている。
家族
最初の妻ウルフヒルド・ホーコンスドッタ(ホーコン・フィンソンの娘)はインゲ2世の未亡人で、再婚したデンマーク王ニルスの元から脱走してスヴェルケルに嫁いだ。2男2女をもうけた。
第二の妻リチェザ(ポーランド大公ボレスワフ3世の娘)は、以前にマグヌス1世やミンスク公ヴォロダリと結婚していた。1男をもうけた。
さらに、母親が不明の息子が一人いる。
参考文献
- Lagerqvist Lars O., Åberg Nils. Kings and Rulers of Sweden. Vincent Publications, 2002 (ISBN 91-87064-35-9).
- Liljegren, Bengt. Rulers of Sweden. Historiska Media, 2004 (ISBN 91-85057-63-0).
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