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== 経歴 ==
== 経歴 ==
牧師のパーフェクト・ヤサイ・シニアと公立校教諭のデボラ・リバスの子として、[[コタバト州]]北部のキダパワンに生まれる。1963年にダバオ市高校を卒業後、1967年に[[イロイロ]]のセントラル・フィリピン大学で政治学の学士号を取得。[[フィリピン大学]]から法学の学位も得た。
牧師のパーフェクト・ヤサイ・シニアと公立校教諭のデボラ・リバスの子として、[[コタバト州]]北部のキダパワンに生まれる。1963年にダバオ市高校を卒業後、1967年に[[イロイロ]]のセントラル・フィリピン大学で政治学の学士号を取得。[[フィリピン大学]]から法学の学位も得た。大学時代は、大統領のドゥテルテと同じ寮で起居をともにした<ref>「「南シナ海 議題に」フィリピン外相 来年ASEANで」『[[日本経済新聞]]』2016年12月29日付朝刊6面</ref>


その後、[[アメリカ合衆国]]に渡り、1979年から1990年まで2か所の法律事務所(マセダ・ヤサイ・アンド・トレンティーノとヤサイ・アンド・デ・カストロ)のシニアパートナーを、1983年から1987年までマセダ・フィリピン・ニュースの社長を務めた。また、ジャシント・ファイナンスやマリレーネ・J・グループ、クリセムなどの会社を設立した。フィリピンでは、1987年から1993年までサンジョゼ・ヤサイ・アンド・サントス法律事務所のコミッショナーを務めた。
その後、[[アメリカ合衆国]]に渡り、1979年から1990年まで2か所の法律事務所(マセダ・ヤサイ・アンド・トレンティーノとヤサイ・アンド・デ・カストロ)のシニアパートナーを、1983年から1987年までマセダ・フィリピン・ニュースの社長を務めた。また、ジャシント・ファイナンスやマリレーネ・J・グループ、クリセムなどの会社を設立した。フィリピンでは、1987年から1993年までサンジョゼ・ヤサイ・アンド・サントス法律事務所のコミッショナーを務めた。

2016年12月30日 (金) 04:01時点における版

パーフェクト・ヤサイ・ジュニア
フィリピンの外相
就任
2016年6月30日
大統領ロドリゴ・ドゥテルテ
前任者ジョゼ・アルメンドラス(代行)
個人情報
生誕パーフェクト・リバス・ヤサイ・ジュニア
(1947-01-27) 1947年1月27日(77歳)
フィリピン、キダパワン
政党バンゴン・ピリピナス党
配偶者セシル・ジョアキン
出身校セントラル・フィリピン大学
フィリピン大学ディリマン校
アテネオ・デ・マニラ大学
宗教プロテスタント(フィリピン合同教会)
公式サイト公式サイト

パーフェクト・リバス・ヤサイ・ジュニア: Perfecto Rivas Yasay Jr.1947年1月27日 - )は、フィリピンの弁護士、政治家。元証券取引委員会委員長。2010年の総選挙では大統領候補のエディー・ビリャヌエバとともに、バンゴン・ピリピナス党から副大統領に立候補した。2016年5月18日にロドリゴ・ドゥテルテ大統領からの入閣要請を受諾し[1]、外相に就任した。

経歴

牧師のパーフェクト・ヤサイ・シニアと公立校教諭のデボラ・リバスの子として、コタバト州北部のキダパワンに生まれる。1963年にダバオ市高校を卒業後、1967年にイロイロのセントラル・フィリピン大学で政治学の学士号を取得。フィリピン大学から法学の学位も得た。大学時代は、大統領のドゥテルテと同じ寮で起居をともにした[2]

その後、アメリカ合衆国に渡り、1979年から1990年まで2か所の法律事務所(マセダ・ヤサイ・アンド・トレンティーノとヤサイ・アンド・デ・カストロ)のシニアパートナーを、1983年から1987年までマセダ・フィリピン・ニュースの社長を務めた。また、ジャシント・ファイナンスやマリレーネ・J・グループ、クリセムなどの会社を設立した。フィリピンでは、1987年から1993年までサンジョゼ・ヤサイ・アンド・サントス法律事務所のコミッショナーを務めた。

1993年にフィリピンの証券取引委員会の準委員に任命され、1995年から2000年まで委員長を務めた。

ジョセフ・エストラーダ大統領の汚職疑惑に関する弾劾裁判では証言台に立ち、2001年のエストラーダ追放(第二次エドゥサ革命)に貢献した。2010年2月15日、ヤサイはエストラーダを傷つけ、攻撃したことについて謝罪したが、これは元大統領の「職権乱用と汚職」に関する証言の撤回ではないとも明言した。

2010年の大統領選挙に向けて、ヤサイは2009年11月29日、バンゴン・ピリピナス党の大統領候補指名を受諾した。同党の大統領候補は、イエスは主教会の創設者で代表のエディー・ビリャヌエバであった。また、他の3政党の上院議員候補者名簿に名を連ねることを提案されたことも書面で公表した。しかし、副大統領選挙ではマカティ市長のジェジョマール・ビナイに敗れた。

人物

妻は元人口委員会事務局長のセシル・ジョアキンで、オリバー、ラベーナ、ステファニーの3人の子どもがいる。

脚注

  1. ^ Yasay accepts Duterte offer to be acting DFA chief”. Rappler. 2016年5月30日閲覧。
  2. ^ 「「南シナ海 議題に」フィリピン外相 来年ASEANで」『日本経済新聞』2016年12月29日付朝刊6面