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1999年2月、仙台育英高校陸上競技部監督に就任。「練習はやり過ぎると成長を止める。高校生はまず勉強」<ref>「陸上:仙台育英高陸上部・渡辺総監督退任 いまだ破られぬ「神の領域」 /宮城」『毎日新聞』 2008年10月16日、宮城朝刊、23頁</ref>という考えを持ち、またここでもクロスカントリーを取り入れ、学校近く海沿いの松林にコースを整備。1日最長16キロまでしか走らせない制限を設け指導に当たった<ref>「[マイウエー]仙台育英、甘え捨て粘り発揮 6年ぶりV/全国高校駅伝」『読売新聞』1999年12月27日、大阪朝刊、スポーツA面、11頁</ref>。
1999年2月、仙台育英高校陸上競技部監督に就任。「練習はやり過ぎると成長を止める。高校生はまず勉強」<ref>「陸上:仙台育英高陸上部・渡辺総監督退任 いまだ破られぬ「神の領域」 /宮城」『毎日新聞』 2008年10月16日、宮城朝刊、23頁</ref>という考えを持ち、またここでもクロスカントリーを取り入れ、学校近く海沿いの松林にコースを整備。1日最長16キロまでしか走らせない制限を設け指導に当たった<ref>「[マイウエー]仙台育英、甘え捨て粘り発揮 6年ぶりV/全国高校駅伝」『読売新聞』1999年12月27日、大阪朝刊、スポーツA面、11頁</ref>。
また仙台育英高校は自身の就任以前から積極的に[[ケニア共和国]]から外国人留学生を受け入れていたものの、高校駅伝では外国人留学生が1区で得たリードを後続の日本人高校生が守りきれず、[[兵庫県立西脇工業高等学校|西脇工業高校]]に後半区間で逆転を許すケースが続いていた。そこで、外国人留学生と日本人高校生と競争させることによりお互いの力量を高めさせた。その結果、就任1年目となる1999年の第50回全国高校駅伝では3区で一旦順位を下げるものの、そこから粘って西脇工業高校に喰らいつき、アンカーの走者がラストのトラック勝負を制し、史上2校目の3連覇を狙った西脇工業高校を2秒差で振り切り、仙台育英高校は6年ぶり2回目の優勝を飾った。
また積極的に[[ケニア共和国]]から外国人留学生を受け入れ、日本人高校生と競争させることによりお互いの力量を高めさせた。
スピードの素質を見出したワンジルには我慢とスタミナ配分について指導した<ref name="wata1">「男子マラソン、恩師超えの金 “日本育ち”ワンジル「ありがとう」/北京五輪」『読売新聞』 2008年8月25日、西部朝刊、34頁</ref>。またその際に[[書道]]を勧め、ワンジルは2002年第11回国際高校生選抜書展で大賞を受賞した。
スピードの素質を見出したワンジルには我慢とスタミナ配分について指導した<ref name="wata1">「男子マラソン、恩師超えの金 “日本育ち”ワンジル「ありがとう」/北京五輪」『読売新聞』 2008年8月25日、西部朝刊、34頁</ref>。またその際に[[書道]]を勧め、ワンジルは2002年第11回国際高校生選抜書展で大賞を受賞した。
2004年の第55回全国高校駅伝では1区(10km)に佐藤、3区(8.1075km)にワンジルを起用し、'''2時間1分32秒'''の'''高校国内国際最高記録'''で優勝を果たした。
2004年の第55回全国高校駅伝では1区(10km)に佐藤、3区(8.1075km)にワンジルを起用し、'''2時間1分32秒'''の'''高校国内国際最高記録'''で優勝を果たした。

2016年11月21日 (月) 15:32時点における版

渡辺 高夫(わたなべ たかお、1947年 - )は日本陸上競技指導者福島県田村郡船引町(現・田村市)出身。大東文化大学卒業。埼玉栄高等学校、ミヤマ(のち社名変更を受けMDI)、日清食品仙台育英学園高等学校にて教員・指導者を務めた。全国高等学校駅伝競走大会では監督として通算7度の優勝を飾る。また全日本大学女子駅伝対校選手権大会の仙台移転開催に尽力した。

略歴・人物

全国高等学校駅伝競走大会では埼玉栄高校で1回(1987年)、仙台育英高校で6回(1999年、2001年、2003年-2005年、2007年)の優勝を誇る。

埼玉栄高校では、巽博和、山本正樹、MDI(現・レオパレス21)、その後日清食品では実井謙二郎アロイス・ニジガマジュリアス・ギタヒ、仙台育英高校ではジェームス・ワイナイナサムエル・カビル、清野純一[1]サムエル・ワンジル佐藤秀和高橋優太ミカ・ジェル絹川愛上野渉をはじめとする数多くの選手を指導し鍛え上げた。

1987年、埼玉栄高校では巽博和らを擁し全国高校駅伝に出場、3区間で区間賞を獲得するなど2時間05分57秒の大会新記録で同校を初優勝へ導いた。その後ミヤマへ移籍。1995年、MDIの経営不振による同社陸上競技部休部に伴い、実井やニジガマら部員と共に、新規創設された日清食品陸上競技部へ移籍した。

日清食品では週1、2回のトラックでの練習時以外は、故障発生を低減化させる目的・集中力を高めさせる目的・より良いフォームで走らせる目的・筋力と心肺機能を向上させる目的で、勾配のある未舗装・不整地の野山を走らせるクロスカントリーコースを使った練習を徹底的に行なわせた[2]。この成果などにより実井謙二郎を1996年アトランタオリンピック男子マラソン日本代表に選出されるほどに成長させた。 また、アトランタオリンピックでは男子マラソンコーチとして実井に帯同した。その後、1998年7月に日清食品陸上競技部監督を辞任した。

1999年2月、仙台育英高校陸上競技部監督に就任。「練習はやり過ぎると成長を止める。高校生はまず勉強」[3]という考えを持ち、またここでもクロスカントリーを取り入れ、学校近く海沿いの松林にコースを整備。1日最長16キロまでしか走らせない制限を設け指導に当たった[4]。 また仙台育英高校は自身の就任以前から積極的にケニア共和国から外国人留学生を受け入れていたものの、高校駅伝では外国人留学生が1区で得たリードを後続の日本人高校生が守りきれず、西脇工業高校に後半区間で逆転を許すケースが続いていた。そこで、外国人留学生と日本人高校生と競争させることによりお互いの力量を高めさせた。その結果、就任1年目となる1999年の第50回全国高校駅伝では3区で一旦順位を下げるものの、そこから粘って西脇工業高校に喰らいつき、アンカーの走者がラストのトラック勝負を制し、史上2校目の3連覇を狙った西脇工業高校を2秒差で振り切り、仙台育英高校は6年ぶり2回目の優勝を飾った。 スピードの素質を見出したワンジルには我慢とスタミナ配分について指導した[5]。またその際に書道を勧め、ワンジルは2002年第11回国際高校生選抜書展で大賞を受賞した。 2004年の第55回全国高校駅伝では1区(10km)に佐藤、3区(8.1075km)にワンジルを起用し、2時間1分32秒高校国内国際最高記録で優勝を果たした。

日本陸上競技連盟強化委員会ジュニア強化部副部長として、全日本大学女子駅伝対校選手権大会(杜の都駅伝)の大阪から仙台への移転に力を尽くした[6]。同大会は、2005年の第23回大会から仙台にて開催されている。

2008年、定年により仙台育英高校陸上競技部監督を退任、総監督として後任の清野を補佐した。8月、北京オリンピックレース数日前のワンジルから電話を受けた際には、レース中盤を我慢するように助言、ワンジルは男子マラソンにて優勝し金メダルを獲得した[5]。同年10月には総監督をも退任し、ナショナルトレーニングセンターを拠点とし専属コーチとして絹川の指導に当たっている。

関連項目

脚注

  1. ^ 清野純一(せいの じゅんいち、1984年 - )は日本の陸上競技選手、指導者。仙台育英高校陸上競技部コーチを経て監督。仙台育英高校在学時には2001年の全国高校駅伝では3区(8.1075km)を走り優勝を果たす。2002年世界ジュニア陸上選手権10000m11位。その後順天堂大学へ進み箱根駅伝には3度出場。4年時第83回箱根駅伝では6区(20.8km)山下りを走り、今井正人、佐藤秀和らと共に総合優勝に貢献した。
  2. ^ 「五輪見えた! マラソン・実井、飛躍の秘密はクロカン走」『毎日新聞』 1996年2月20日、東京夕刊、3頁
  3. ^ 「陸上:仙台育英高陸上部・渡辺総監督退任 いまだ破られぬ「神の領域」 /宮城」『毎日新聞』 2008年10月16日、宮城朝刊、23頁
  4. ^ 「[マイウエー]仙台育英、甘え捨て粘り発揮 6年ぶりV/全国高校駅伝」『読売新聞』1999年12月27日、大阪朝刊、スポーツA面、11頁
  5. ^ a b 「男子マラソン、恩師超えの金 “日本育ち”ワンジル「ありがとう」/北京五輪」『読売新聞』 2008年8月25日、西部朝刊、34頁
  6. ^ 「杜の都駅伝 仙台育英陸上部監督、誘致に携わる 渡辺高夫さんに聞く=宮城」『読売新聞』2006年10月27日、東京朝刊、30頁

著書

参考文献