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==文学的な影響==
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カスパー・ハウザー現象は、数多くの科学者、作家、そして映画監督に創造のきっかけを与えた。その有名な例を挙げれば、フランスの[[アドルフ・フィリッぺ・デネリー]]監督のドラマ「カスパー・ハウザー」(1838年)、[[ヤコブ・ヴァッサーマン]]の小説「カスパー・ハウザー 心の悲劇」、並びに[[ペーター・ハントケ]]のドラマ「カスパー」(1968年)である。
カスパー・ハウザー現象は、数多くの科学者、作家、そして映画監督に創造のきっかけを与えた。<br>
その有名な例を挙げれば、フランスの[[アドルフ・フィリッぺ・デネリー]]監督のドラマ「カスパー・ハウザー」(1838年)、[[ヤコブ・ヴァッサーマン]]の小説「カスパー・ハウザー 心の悲劇」、並びに[[ペーター・ハントケ]]のドラマ「カスパー」(1968年)である。


[[クルト・トゥホルスキー]]は、一時カスパー・ハウザーという筆名で執筆していた。ドイツ語のシャンソンでも、ラインハルト・マイのような人も、「カスパー」と題する歌を作曲し歌っている。[[ヴェルナー・ヘルツォーク]]は、ブルーノ・Sを主演に、「カスパー・ハウザーの謎」(原題 Jeder für sich und Gott gegen alle、1975年)のタイトルでカスパー・ハウザーの物語を映画化した。[[ペーター・ゼア]]も、この素材を1993年再度映画化している。タイトルは、「カスパー・ハウザーー1人の人間の心的生活への犯罪」で、[[アンドレ・アイゼルマン]]の主演によるものである。ペーター・ゼアは、この作品では世継説の立場で物語を作り上げている。
[[クルト・トゥホルスキー]]は、一時カスパー・ハウザーという筆名で執筆していた。ドイツ語のシャンソンでも、ラインハルト・マイのような人も、「カスパー」と題する歌を作曲し歌っている。[[ヴェルナー・ヘルツォーク]]は、ブルーノ・Sを主演に、「カスパー・ハウザーの謎」(原題 Jeder für sich und Gott gegen alle、1975年)のタイトルでカスパー・ハウザーの物語を映画化した。[[ペーター・ゼア]]も、この素材を1993年再度映画化している。タイトルは、「カスパー・ハウザーー1人の人間の心的生活への犯罪」で、[[アンドレ・アイゼルマン]]の主演によるものである。ペーター・ゼアは、この作品では世継説の立場で物語を作り上げている。<br>
また、ベルリンのパンクロックバンドには、カスパー・ハウザーの名からバンド名をとって、カスパー・ハウザーバンドと名乗っているグループもいる。
また、ベルリンのパンクロックバンドには、カスパー・ハウザーの名からバンド名をとって、カスパー・ハウザーバンドと名乗っているグループもいる。


アンスパッハでは、2年に一度カスパー・ハウザーフェスティバルが催されている。2002年には、[[トビアス・ヴァイス]]と[[ヘイコ・A・ネーァー]]のミュージカル「カスパー・ハウザー」がアンスパッハのカスパー・ハウザーフェスティバルで初演された。そこでは王宮庭園1833年12月14日カスパー・ハウザーが襲撃を受けた箇所に記念碑が建立されている。記念碑はアウグスト・プラーテン通りの起点のところの小さな広場に建っている。マルクグラーフェン博物館では、カスパー・ハウザーについての展示コーナーが設けられている。彼の質素な墓石は、関心があればアンスパッハ市営墓地で見ることができる。
アンスパッハでは、年に一度カスパー・ハウザーフェスティバルが催されている。2002年には、[[トビアス・ヴァイス]]と[[ヘイコ・A・ネーァー]]のミュージカル「カスパー・ハウザー」がアンスパッハのカスパー・ハウザーフェスティバルで初演された。<br>
またアンスバッハの王宮庭園には[[1833年]][[12月14日]]にカスパー・ハウザーが襲撃を受けた箇所に記念碑が建立されている。記念碑はアウグスト・プラーテン通りの起点のところの小さな広場に建っている。マルクグラーフェン博物館では、カスパー・ハウザーについての展示コーナーが設けられている。<br>
彼の質素な墓石は、アンスパッハ市営墓地で見ることができる。



==自然科学的な影響==
==自然科学的な影響==

2006年6月16日 (金) 13:15時点における版

カスパー・ハウザー

カスパー・ハウザー(Kaspar Hauser, 1812年4月30日? - 1833年12月17日)は、ドイツの素性の不明な捨て子。ドイツのアンスバッハにて死去。

歴史的な情報

1828年3月26日、ドイツのニュルンベルクの町(今日でもまだ同じ名前)ウンシュリットプラッツ(Unshlittplatz)8に16歳くらいと思われるぼんやりとした少年が立っていた。気付いた人が彼に訊ねたが、ほとんど口を利くこともできなかった。しかたなく人は彼を警察に連れて行った。そこで紙と鉛筆を渡された彼は「カスパー・ハウザー」(Kaspar Hauser)という名前を書いて見せた。
少年が携えていたニュルンベルク駐屯の第六軽騎兵隊の第四中隊の大尉フリードリヒ・フォン・ヴェッセニヒに宛てた手紙には、同様にカスパーというファーストネームがでていた。他にもこの手紙には、少年の誕生日を1812年4月30日と記していた。

彼の知的レベルは、彼について数多くの検査をし正しい言葉を教えようとした法学者、神学者、教育学者たちの関心を惹き起こし、彼はまた宗教哲学者ゲオルグ・ヨハン・ダウマーの元で読むことと書くことを学んだ。
彼の養育者で保護者であった法学者パウル・ヨハン・アンセルム・リッター・フォン・フォイエルバッハは、次のように書き残している。カスパーは、当初、肉や牛乳を食べると吐いていて、パンと水だけを採ることができた、と。フォイエルバッハは、カスパーがかなりの長期にわたり孤独な状態で地下の監獄に囚われていたのではないかと推測している。このような特別な人間について書いた数多くの伝記には、彼は生まれながらにして人間らしさを失った獣で暗い小部屋で、外部との交渉を絶たれて生活することを余儀なくされていた、とある。

こうしたことは、人が彼をセンセーショナルな事件に熱狂した民衆の前にお披露目した際に、この若者が光と騒音によって経験した実に痛々しい事件の説明となるものである。カスパーの感覚器官は、過度に鋭敏で、彼の筋肉も充分な発達を遂げていなかった。
この残忍な仕打ちがおこなわれたであろう地下牢は、ニュルンベルグの市の範囲に今では併合されているノイマルクトの区域にあったのではないかと推測されている。
彼の出自に関する謎は、今日に至ってもまだ解明はされていない。

彼の早すぎる死の背景にも尋常ではないものがある。彼はアンスパッハの王宮庭園で暗殺の魔の手に倒れたのである。
アンスパッハの法医学者クリスティアン・ヴィルヘルム・アルベルト博士は、その同僚、クリストフ・コッペン博士と共に法医学解剖を担当した。加えて、医師のヨハン・カール・フォン・ホーアラッヒャー博士とフリードリヒ・ヴィルヘルム・ハイデンライヒ博士が、専門的なオブザーバーとして招かれていた。
法医学者のアルベルトとコッペンの証言によれば、彼は1833年12月17日の死を招くことになった刺傷が元で亡くなったということになっている。同様に、かなり謎めいた告白の文書が発見されている。

「ハウザーについて私がどう見ていたか、どこから知ったのか正確にみなさんにお話しすることができる。ハウザーの手を煩わせることもなく、私は………バイエルンの国境の………川のほとりの………から着ました。私は、私の名前も申し上げておくつもりです。: M. L. Ö.」

またハウザーは、前回と今回の二つの暗殺事件を正確に描写することが出来た。刺傷が致命傷となり、1833年12月17日の午後10時頃、カスパー・ハウザーは死亡している。バイエルン国王ルートヴィヒ1世が、殺害者の逮捕のための情報提供者に220,000フローリンの報奨金をつけたが、犯人につながる情報は出てこなかった。

2年と少しばかり後になって、王宮庭園で刃渡り14cmくらい全長30cmほどのダマスクス刃の(刃身が波刃になっている)諸刃の短剣が発見された。この短剣の刃とカスパーの刺し傷とぴったり一致するという。
このフランス製のシーフナイフは、1926年ニュルンベルクで開催された警察展示会に出品展示された。その後もアンスパッハの博物館に保管されていたが、1945年の終戦以来行方不明になっている。

伝説といわゆるハウザー研究

カスパーの存命中から既に彼の出自についてはさまざまな風評が飛び交っていた。
アンセルム・フォン・フォイエルバッハは、カスパーがバーデン大公家の世継であり、世継問題の事情によりその誕生以来、死産の子どもと取替え、隠匿されていたものと確信していた。
それに対して、ローレ・シュヴァルツマイヤー(下記の文献リストを参照のこと)は、そのような隠匿は、大公の経済事情を考えれば到底不可能なことで、そんなことをしようとすれば、子どもの保護監督に、直接なにくれとなく面倒を見る子守りの女の子に、2人の侍医、当然のことながら乳母とて必要だったはずではなかろうかと反論する。

ウーリケ・レオンハルト(文献リストを参照)は、 これに対し取り替えを有り得ることとし、祖母は出産の際にずっと常にその場にいたわけではなかったこと、――ということは、祖母自身がその孫を取替え、あとから呼ばれてきた医師は、それ以前に子どもを目にしておらず、いきなり死んだ子を見せられたにすぎないということを意味しているという。これらの決着は、バーデン大公家が今日に至るまでその一族の記録文書収蔵庫の閲覧を拒んできているので、すべては未解明のままである。

遺伝子情報の分析の手助けを得ても、カスパーの出自は、これまでのところまだ解明されていない。1996年、「シュピーゲル」誌とアンスパッハ市が、遺伝子解析の手助けを借りて、カスパーがはいていたとされるズボン(Unterhose)に残る血痕を分析させた。この調査の結果、ズボンをはいていたとされる人物はバーデン大公国の王子ではないと判明した。

2002年、ヴェストファリア・ヴィルヘルム大学(ミュンスター大学) の法医学研究所が、カスパーのシルクハットの汗の染みとアンスパッハのカスパー・ハウザー博物館(シュピーゲル誌の調査以後、この展示は終了した)にある髪の毛、ならびに彼の養父アンセルム・フォン・フォイエルバッハの遺品の中にあった髪の毛を分析した。
この結果、科学者たちの出した結論は、ベルント・ブリンクマン博士の言葉によれば、「現在までの時点では、カスパー・ハウザーがバーデン家の生物学的な近親者であるという結論を出してしまうのはいまだ早計であるといわざるを得ない。」ということになった。

加えて、ここに到って、パンツに付着していたという血痕が、DNA鑑定の結果、髪の毛のそれと一致せず、血痕はカスパーのものではなかったのではないかという疑いも生じてきた。二度目のDNA鑑定の結果、カスパーの指紋から検出したものが、かなりの部分アストリッド・フォン・メディンガー(元の名をステファニー・ド・ボアルネといい、バーデン大公カールの妃)と一致することが分かった。
もちろん、だからといってそれが何かを証明するわけではない。大多数の点で一致するものの、3点においてズレがあり、遺伝子解析の対象となったカスパーのものとされているものが、本当に彼に由来するものであるかどうかという点も、当然のことながら疑いは払拭されているわけではないからである。

今日に到るまでバーデン家は、そのプフォルツハイムの場内教会の立ち入り調査を阻んでいる。そこには1812年に乳児として亡くなった世継の王子の遺骨が埋葬されている。それが本当にバーデン家の世継なのか、取り替えられた身分の低い子なのか証明するようなDMA鑑定はまだなされていない。

世継説にはなお第二の仮説がある。ステファニー・ド・ボアルネは、ナポレオン・ボナパルトの妃ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの姪で、実に不幸な結婚生活を送った人である。ナポレオンは、1799年彼女をパリに連れ帰り、政治的な理由により1806年自分の養子にし、それと同時に彼女のために「フランスの娘」という称号を新設した。これはバーデン家と対等の身分での結婚を演出するためである。

バーデン大公家の世継カール・フォン・バーデンは、当初放蕩無頼の独身者のような生活をそのままに引きずっていたため、ナポレオンは1810年その祖父カール・フリードリヒに向けて公式に不快の念を書面にして通告した。夫は即座に和解したものの、1811年12月ロシアとの戦争の勃発の直前、ナポレオン・ボナパルトのお気に入りと出会ったのではないかといわれている。
ナポレオン2世との間にカスパーにも似た状況の子が生まれた。その子は、カスパーの生まれる寸前に若くして死亡しているが、鼻と上唇の間や顎、額の髪の毛などがよく似ている。大公妃の姦通による子どもというのは、バーデン大公家にとっても、実の父親にとってもとんでもない厄介ごとであったろうと思われる。

もし歴史が全くの想像力で片付けてよいものなら、カスパー・ハウザーは彼が思い出すという通りに、その幼児期はお城で暮らし、ナポレオンが失脚して後、いずこかへ匿われたのもそのためだとして説明がつくことだろう。幾人かは、だからこそその良心の責めに耐えかねた人間が、あの注目に値するボトルメールで助けを乞う手紙を書いたのではないだろうかと推測している。これは、恐らくは1816年9月にライン川上流で見つかったものといわれる。
それには、「"…私は、ラウフェンブルクの近くのある地下牢に囚われている。…この地下牢は、地面の下にあり、私の王位を奪ったものにも知られていない…」とあった。この地名の記述に拠るなら、上ライン地方のボイゲン城が、囚人とされる人物の最初の居場所だったと思われる。
王位の簒奪ということでは、バーデンの大公位もフランスの玉座もそれには当たらない。カール大公は1818年に死去しているし、それ以前にはだれも彼の「王位を簒奪」していないからであり、ナポレオンの子、後のナポレオン2世は、1816年にはまだ存命で、非嫡出子は当時一切の相続から根本的に締め出されていたからである。――こうして我々は、哀れなカスパーが奪われたとする第3の王座の可能性を考えなくてはならなくなる。

加えて、このボトルメールをカスパー伝説に加えるためには、この手紙がライン川で発見されるに到るまでどれくらいの期間、川を漂っていたか、特にそれが今想定されているよりも長期に渡っていたとしたら、尚更のこと、事態は一層分かり難くなる。

カスパーは、その捕囚の第二期をオーバーファルツのノイマルクトにあるピルザッハ城で過ごしたものと思われる。これはニュルンベルクからおよそ35km程の距離になる。これは小さな水城で、1924年偶々発見された秘密の部屋があり、その広さや形は、カスパーが説明して見せたものと一致している。1982年の改装工事で、瓦礫の下から玩具の馬が発見された。それはカスパー・ハウザーが説明して見せたものに正確に合っているし、また半ばカビの生えた衣服の一部もそこで見つかっている。
とはいえ、19世紀にはおおよそ似たような玩具の馬は遊び盛りの子どもたちに子どもの数と同じくらい数多く与えられているのであるし、衣服のきれっぱしも正確な調査分析に委ねられたとはとても言えない。

1982年の改装工事の際には、瓦礫の下からもうこれ以上、好奇心を煽り立てるようなものは出てこなかった。想像するにナポレオン戦争当時、この館には少なくとも戦災孤児の一人二人がいたのではないかと推測するのがまずありそうな話だと思われる。しかし、その子の運命については、いかなる政治的秘密もありそうには思えない。

文学的な影響

カスパー・ハウザー現象は、数多くの科学者、作家、そして映画監督に創造のきっかけを与えた。
その有名な例を挙げれば、フランスのアドルフ・フィリッぺ・デネリー監督のドラマ「カスパー・ハウザー」(1838年)、ヤコブ・ヴァッサーマンの小説「カスパー・ハウザー 心の悲劇」、並びにペーター・ハントケのドラマ「カスパー」(1968年)である。

クルト・トゥホルスキーは、一時カスパー・ハウザーという筆名で執筆していた。ドイツ語のシャンソンでも、ラインハルト・マイのような人も、「カスパー」と題する歌を作曲し歌っている。ヴェルナー・ヘルツォークは、ブルーノ・Sを主演に、「カスパー・ハウザーの謎」(原題 Jeder für sich und Gott gegen alle、1975年)のタイトルでカスパー・ハウザーの物語を映画化した。ペーター・ゼアも、この素材を1993年再度映画化している。タイトルは、「カスパー・ハウザーー1人の人間の心的生活への犯罪」で、アンドレ・アイゼルマンの主演によるものである。ペーター・ゼアは、この作品では世継説の立場で物語を作り上げている。
また、ベルリンのパンクロックバンドには、カスパー・ハウザーの名からバンド名をとって、カスパー・ハウザーバンドと名乗っているグループもいる。

アンスパッハでは、二年に一度カスパー・ハウザーフェスティバルが催されている。2002年には、トビアス・ヴァイスヘイコ・A・ネーァーのミュージカル「カスパー・ハウザー」がアンスパッハのカスパー・ハウザーフェスティバルで初演された。
またアンスバッハの王宮庭園には1833年12月14日にカスパー・ハウザーが襲撃を受けた箇所に記念碑が建立されている。記念碑はアウグスト・プラーテン通りの起点のところの小さな広場に建っている。マルクグラーフェン博物館では、カスパー・ハウザーについての展示コーナーが設けられている。
彼の質素な墓石は、アンスパッハ市営墓地で見ることができる。

自然科学的な影響

カスパー・ハウザーの名前は、カスパー・ハウザー実験として行動科学の専門用語のなかに見られる。こうした行動科学の実験で、幼い動物は、正常な経験を剥奪する環境の中で、生まれながらに備わった行動様式から逸脱していくのが観察される。

医学や心理学では、いわゆるカスパー・ハウザー症候群と呼ばれるものがある。これは乳児や子どもに置いて、長期間、人間的な接触や愛情のこもったケアや温もりのあるベットを与えられずに成長し、加えてほとんど社会的、あるいは認知的な刺激を受けることなく成長したものに見られるものである。

関連項目

参考文献

専門書

  • Paul Johann Anselm von Feuerbach: Kaspar Hauser oder Beispiel eines Verbrechens am Seelenleben eines Menschen, Ansbach 1832, Nachdruck Wissenschaftlicher Verlag, Schutterwald, Baden 2004, ISBN 3-928640-62-3
アンセルム・リッター・フォイエルバッハ『カスパー・ハウザーの謎 地下牢の17年』福村出版 1977年
A.v.フォイエルバッハ『カスパー・ハウザー』福武文庫 1991年
  • Johannes Mayer, Peter Tradowsky: Kaspar Hauser, das Kind Europas, Verlag Urachhaus, Stuttgart 1984, ISBN 3-87838-3851
  • Lore Schwarzmaier, Der badische Hof unter Großherzog Leopold und die Kaspar-Hauser-Affäre: Eine neue Quelle in den Aufzeichnungen des Markgrafen Wilhelm von Baden, in: Zeitschrift zu Geschichte des Oberrheins 134, 1986, S. 245ff
  • Birgit Gottschalk: Das Kind von Europa. Zur Rezeption des Kaspar-Hauser-Stoffes in der Literatur, DUV, Wiesbaden 1995, ISBN 3-8244-4166-7 (zugl. Univ. Diss. Siegen 1992)
  • Ulrike Leonhardt: Prinz von Baden, genannt Kaspar Hauser. Eine Biographie, Rowohlt, Reinbek 1995, ISBN 3-499-13039-4

エンタテイメント

  • Jakob Wassermann: Caspar Hauser oder die Trägheit des Herzens. Roman, 1908, Nachdruck Dtv, München 1997, ISBN 3-423-10192-X
  • Otto Flake: Kaspar Hauser, Fischer, Frankfurt/M. 1989, ISBN 3-596-29557-2

外部リンク