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2006年6月14日 (水) 14:41時点における版

田 単でん たん、紀元前3世紀前半ころ)は中国戦国時代国の武将によって滅亡寸前に追い詰められていた斉国を優れた知略によって救っている。

史記』に単独で列伝が立てられている。紀元前284年、斉は諸国の連合軍に敗れ、さらに燕の将軍楽毅率いる軍に攻め立てられ、斉の七十数都市のうち首都臨淄を含むほとんどの都市が落城、即墨の二都市のみがなんとかもちこたえていた。田単はこのとき下役人の一人として即墨の籠城に加わっていた。田単は楽毅が攻め入ると知ると、馬車を補強することを薦め、補強していた馬車のみ燕軍からの攻撃から逃れることが出来た。その話を知り斉の家臣らより、知略を嘱望されて将軍となった。田単はうわさや偽情報などを巧みに用いて、まず優れた敵将である楽毅の讒言を燕の宮廷に流し込んで彼を亡命に追い込み、また自軍の士気を上げ、敵の士気を下げるようにしむけた。最後は降伏に見せかけて、たいまつをつけた多くの牛を夜の敵陣に放って大混乱に陥れ(火牛の計)、その上で強襲をかけて敵将を討ち取った。さらにこの勢いに乗じて七十数都市を全て奪回した。こうして首都臨淄に戻ることの出来た斉の襄王は、田単の功績を認め安平君に封じた。

その後将軍としていくつかの戦争に参加しており、「趙世家」には趙の宰相になったとの記録がある。また、同時代史料では『呂氏春秋』や『荀子』にも彼が優れた軍略を持っている旨の記述が間接的にあるが、それ以上の言及はなされていない。

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