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== 年譜 ==
== 年譜 ==
*1755年11月2日、誕生。
*1755年11月2日、誕生。
幼少より自由奔放に成長したマリア・アントーニアは、[[イタリア語]]やダンス、作曲家クリストフ・ヴィリバルト・グルックのもとで身につけた[[ハープ]]やクラヴサンなどの演奏を得意とした。
幼少より自由奔放に成長したマリア・アントーニアは、[[イタリア語]]やダンス、作曲家クリストフ・ヴィリバルト・グルックのもとで身につけた[[ハープ]]や[[チェンバロ|クラヴサン]]などの演奏を得意とした。
オーストリアとフランスの同盟関係を深めるため母マリア・テレジアによりルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策。
オーストリアとフランスの同盟関係を深めるため母マリア・テレジアによりルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策。
*[[1763年]]5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されたがはかばかしくは進まず、結婚反対者であったルイの父母(すなわち王太子夫妻)が[[1765年]]に死亡。
*[[1763年]]5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されたがはかばかしくは進まず、結婚反対者であったルイの父母(すなわち王太子夫妻)が[[1765年]]に死亡。
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*[[1789年]]、新たな徴税を試みるが、民衆の負担は既に限界に達しており、[[貴族]]からも強い反発を受けた。
*[[1789年]]、新たな徴税を試みるが、民衆の負担は既に限界に達しており、[[貴族]]からも強い反発を受けた。
**1789年7月14日民衆の不満は爆発し、バスチーユ牢獄を襲撃[[フランス革命]]が引き起こされた。そんななか[[ポリニャック伯夫人]]は、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていたにも関わらず、彼女を真っ先に見捨てオーストリアに[[亡命]]した。マリー・アントワネットに最後まで誠実だったのは、義妹のエリザベート内親王と[[ランバル公妃]]だけであった。[[ヴェルサイユ宮殿]]から[[テュイルリー宮殿]]に国王夫妻は身柄を移されたが、そこでアントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走し兄に助けを求めようと計画。
**1789年7月14日民衆の不満は爆発し、バスチーユ牢獄を襲撃[[フランス革命]]が引き起こされた。そんななか[[ポリニャック伯夫人]]は、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていたにも関わらず、彼女を真っ先に見捨てオーストリアに[[亡命]]した。マリー・アントワネットに最後まで誠実だったのは、義妹のエリザベート内親王と[[ランバル公妃]]だけであった。[[ヴェルサイユ宮殿]]から[[テュイルリー宮殿]]に国王夫妻は身柄を移されたが、そこでアントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走し兄に助けを求めようと計画。
*1791年6月20日[[ヴァレンヌ事件]]により逃亡を図るも失敗6月25日に連れ戻される。この事件により、親国王派の国民からも見離される。
*1791年6月20日[[ヴァレンヌ事件]]により逃亡を図るも失敗6月25日に連れ戻される。この事件により、親国王派の国民からも見離される。
**[[8月10日事件]]でルイ16世・マリー・テレーズ・ルイ・シャルル(後のルイ17世)・エリザベート内親王は、チュイルリー宮殿から[[タンプル塔]]に幽閉される。
**[[8月10日事件]]でルイ16世・マリー・テレーズ・ルイ・シャルル(後のルイ17世)・エリザベート内親王は、チュイルリー宮殿から[[タンプル塔]]に幽閉される。
*[[1793年]]1月夫ルイ16世に革命裁判で[[死刑]]判決が下され、高名な「死刑執行人」[[シャルル・アンリ・サンソン]]により[[ギロチン]]で[[斬首刑]]にされた。息子である王位継承予定者のルイ・シャルルは[[ジャコバン派]]の靴屋にひきとられ、ぞんざいな扱いを受けたという。その後コンシェルジュリー牢獄に移されたマリー・アントワネットに対する裁判も行われたが、その結果は初めから決まっていた。結局同年[[10月15日]]革命裁判所で死刑の判決を受け、翌[[10月16日]]夫の後を追ってギロチンで斬首刑にされた。
*[[1793年]]1月夫ルイ16世に革命裁判で[[死刑]]判決が下され、高名な「死刑執行人」[[シャルル・アンリ・サンソン]]により[[ギロチン]]で[[斬首刑]]にされた。息子である王位継承予定者のルイ・シャルルは[[ジャコバン派]]の靴屋にひきとられ、ぞんざいな扱いを受けたという。その後コンシェルジュリー牢獄に移されたマリー・アントワネットに対する裁判も行われたが、その結果は初めから決まっていた。結局同年[[10月15日]]革命裁判所で死刑の判決を受け、翌[[10月16日]]夫の後を追ってギロチンで斬首刑にされた。
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ルイ16世の死刑裁判までは、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、子供の勉強を見るなど、つかの間の家族団らんの時があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。
ルイ16世の死刑裁判までは、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、子供の勉強を見るなど、つかの間の家族団らんの時があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。


斬首刑当日、アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車で[[ギロチン]]へと引き立てられて行った。コンシェルジュリーを出たときから、髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。その最期の言葉は、兵士の足を踏んでしまった時に発した「ごめんなさい・・・わざとではありませんのよ」であったと伝えられる。
斬首刑当日、アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車で[[ギロチン]]へと引き立てられて行った。コンシェルジュリーを出たときから、髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。その最期の言葉は、兵士の足を踏んでしまった時に発した「ごめんなさい・……わざとではありませんのよ」であったと伝えられる。


また、国民のアントワネットヘの憎悪の激しさは、彼女の友人であり、最後まで国王夫妻の側に立ち続けたランバル公妃の惨殺事件にも表れている。
また、国民のアントワネットヘの憎悪の激しさは、彼女の友人であり、最後まで国王夫妻の側に立ち続けたランバル公妃の惨殺事件にも表れている。

2006年6月9日 (金) 17:21時点における版

マリー・アントワネット(1783年、ビジェ=ルブラン画)

マリー・アントワネット・ドートリッシュMarie Antoinette d'Autriche, 1755年11月2日 - 1793年10月16日)は、フランス国王ルイ16世の王妃。オーストリア帝国ハプスブルク家マリア・テレジアとその夫で神聖ローマ皇帝フランツ1世の間の娘(第9子)。結婚前のドイツ語名はマリア・アントーニア(Maria Antonia)。

年譜

  • 1755年11月2日、誕生。

幼少より自由奔放に成長したマリア・アントーニアは、イタリア語やダンス、作曲家クリストフ・ヴィリバルト・グルックのもとで身につけたハープクラヴサンなどの演奏を得意とした。 オーストリアとフランスの同盟関係を深めるため母マリア・テレジアによりルイ・オーギュスト(のちのルイ16世)との政略結婚を画策。

  • 1763年5月、結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣されたがはかばかしくは進まず、結婚反対者であったルイの父母(すなわち王太子夫妻)が1765年に死亡。
  • 1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。

このときマリアはまだフランス語が修得できていなかったので、オルレアン司教であるヴェルモン神父について本格的に学習を開始することとなった。

  • 1770年5月16日、14歳のときヴェルサイユ宮殿にて王太子ルイと結婚式が挙行され、王太子妃マリー・アントワネットとなった。このとき「マリー・アントワネットの讃歌」が作られ、盛大に祝福が行われた。しかしながら趣味・気質などの不一致や、ルイの性的不能もあって(後日、その治療を受けるまで子どもは生まれなかった)、夫婦仲は思わしくなかった。彼女はその寂しさを紛らわすため奢侈に没頭していたという説があり、夜ごと仮面舞踏会で踊り明かしたという。また賭博にも熱中したといわれ、この金銭感覚は文化王でもあった父譲りだが、賭博に関しては子どもが生まれるとピッタリと止めている。
  • 1778年12月19日長女マリー・テレーズ誕生。他に夭折した王女ソフィー(1歳未満で死亡)、長男ルイ・ジョゼフ(7歳で死亡)がいる
  • 1785年次男ルイ・シャルル誕生。

彼女は大変に移り気かつ享楽的な性格で、読書も嫌いであったという。母のマリア・テレジアは娘の身を案じ、度々手紙を送って諌めたが効果は無かったようで、手紙は読まずに破り捨てられていたという説もある。また、アントワネットとスウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵とのは、フランス宮廷では専らの噂となるほどであり、一方彼女は大貴族達を無視しポリニャック伯夫人などの、自分のお気に入りの少数の貴族達のみを極端に偏愛した。

  • 1785年アントワネットの名を騙った、ブルボン王朝末期を象徴するスキャンダルである首飾り事件が発生、1786年3月に判決など、彼女に関する騒動は絶えなかった。地味な人物である夫のルイ16世を見下している所もあったという。ただしこれは彼女だけではなく大勢の貴族達の間にもそのような傾向は見られたらしい。一方、彼女の寵に加われなかった貴族達はマリー・アントワネットとその寵臣をこぞって非難した。ヴェルサイユ以外の場所、特にパリではこれらの中傷がひどかったという。多くは流言飛語の類だったが、結果的にこれらの中傷がパリの民衆の憎悪をかき立てることとなった。
  • 1789年、新たな徴税を試みるが、民衆の負担は既に限界に達しており、貴族からも強い反発を受けた。
    • 1789年7月14日民衆の不満は爆発し、バスチーユ牢獄を襲撃フランス革命が引き起こされた。そんななかポリニャック伯夫人は、それまでマリー・アントワネットから多大な恩恵を受けていたにも関わらず、彼女を真っ先に見捨てオーストリアに亡命した。マリー・アントワネットに最後まで誠実だったのは、義妹のエリザベート内親王とランバル公妃だけであった。ヴェルサイユ宮殿からテュイルリー宮殿に国王夫妻は身柄を移されたが、そこでアントワネットはフェルセンの力を借り、フランスを脱走し兄に助けを求めようと計画。
  • 1791年6月20日ヴァレンヌ事件により逃亡を図るも失敗、6月25日に連れ戻される。この事件により、親国王派の国民からも見離される。
    • 8月10日事件でルイ16世・マリー・テレーズ・ルイ・シャルル(後のルイ17世)・エリザベート内親王は、チュイルリー宮殿からタンプル塔に幽閉される。
  • 1793年1月夫ルイ16世に革命裁判で死刑判決が下され、高名な「死刑執行人」シャルル・アンリ・サンソンによりギロチン斬首刑にされた。息子である王位継承予定者のルイ・シャルルはジャコバン派の靴屋にひきとられ、ぞんざいな扱いを受けたという。その後コンシェルジュリー牢獄に移されたマリー・アントワネットに対する裁判も行われたが、その結果は初めから決まっていた。結局同年10月15日革命裁判所で死刑の判決を受け、翌10月16日夫の後を追ってギロチンで斬首刑にされた。

ルイ16世の死刑裁判までは、幽閉生活とはいえ家族でチェスを楽しんだり、子供の勉強を見るなど、つかの間の家族団らんの時があった。10皿以上の夕食、30人のお針子を雇うなど待遇は決して悪くなかった。

斬首刑当日、アントワネットは特別な囚人として肥桶の荷車でギロチンへと引き立てられて行った。コンシェルジュリーを出たときから、髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られていた。その最期の言葉は、兵士の足を踏んでしまった時に発した「ごめんなさい・……わざとではありませんのよ」であったと伝えられる。

また、国民のアントワネットヘの憎悪の激しさは、彼女の友人であり、最後まで国王夫妻の側に立ち続けたランバル公妃の惨殺事件にも表れている。

評価

死刑が決定した直後のアントワネットがエリザベート内親王にあてた書簡には、「犯罪者として処刑されるのではないので、何ら恥ずべきことではない」といった内容が記されていた。民衆は、王妃の政治的無知さや、その結果としての民衆への配慮の欠如や、国費の浪費などに対して死刑という判決を下したとも考えられるが、上記の書簡から、その最期に至るまで民衆との乖離は正されなかったことが読み取れよう。その後、アントワネットの名誉回復には、結局死後三十五年以上を要した。現在では、マリー・アントワネットに対する悪評は、その殆どが中傷やデマだということが判明している。ただし彼女が一部の寵臣のみ偏愛し、ヴェルサイユの品位の低下などを招いたことは事実であり、彼女個人や王権そのものへの反対者たちによって、それらの失態が多大に誇張されてパリに意図的に流され、彼女や王権に対する悪意と憎悪がことさら生み出された。しかし一般に、マリー・アントワネットに対するフランス国民の怒りはむしろ革命が始まってからの方が大きいと言われている。彼女はフランスの情報をオーストリアなどに流し、反革命の立場をとった。このことがフランスの国益を外国に売った裏切り行為ととられ(外敵通牒)、それだけでも死に値する罪状となったのである。彼女自身は、絶対王政を維持する為に良かれと思ってした行為が、逆に大革命に火を付け、さらに燃え上がらせる結果となってしまうのである。

「パンが無ければお菓子を食べればいい」

民衆が貧困と食料難に陥った際の、マリー・アントワネット(またはルイ15世 の娘(ルイ16世の叔母)であるアデレイド内親王)が言ったとされる「パンが無ければお菓子ケーキまたはクロワッサンとも。なおクロワッサンは、マリー・アントワネットがオーストリアから嫁いだ時にフランスに伝えられたという伝説がある。)を食べればいいじゃない」の台詞が良く知られているが(原文は“Qu'ils mangent de la brioche”、直訳は、彼らにはブリオッシュを食べさせなさい)。

しかし、これはアントワネット自身の言葉ではない。ジャン=ジャック・ルソーの『告白』(1766年頃執筆)の第6巻に、ワインを飲むためにパンを探したが見つけられないルソーが、“家臣からの「農民にはパンがありません」との発言に対して「それならブリオッシュを食べればよい」とさる大公婦人が答えた”ことを思い出したとあり、この記事が有力な原典のひとつであるといわれている。新しい愛人が出来た庇護者で愛人でもあったヴァラン夫人とルソーが気まずくなり、マブリ家に家庭教師として出向いていた時代(1740年頃)のことという。

アルフォンス・カーは、1843年出版した『悪女たち』の中で、執筆の際には、既にマリー・アントワネットの発言であるとして流布していたこの言葉は、1760年出版のある本に、「トスカーナ大公国の公爵夫人」のものとされていると書いている。

ブリオッシュ

当時のフランス法には、「食糧難の際にはパンとブリオッシュを同じ値段で売ること」となっていたとの説もあり、そのことがこの発言伝説の下敷きのひとつになったとも考えられる。ちなみに、ブリオッシュがバターや卵を利用したお菓子とほぼ同じとみなされるパンを示すようになったのは18世紀後半からであり、18世紀初頭まではチーズやバターなどの各地方の特産物を生地に混ぜて栄養性と保存性を高めた保存食という乾パン的位置づけであるため、その元ネタとなる発言は時代によって大きく意味が異なることには注意したほうがよい。そのため、ルイ14世の妻の発言説だと、当時はごく当たり前の発言であったのを後世の人間が歪曲して引用したという形になる。

中国起源説

なお近年の研究では、中国の西晋王朝(265年-316年)第2代皇帝恵帝 による「米がないのであれば、肉を食べればいい」という発言の記録がヨーロッパに伝来し、主に反王制派の知識人によって上記の貴族階級の女性たちの発言として脚色されて流布された可能性が高い、という説が有力視されている。

ピアノを弾くマリー・アントワネット

アントワネットと音楽

アントワネットは、上記の通りウィーン時代にクリストフ・ヴィリバルト・グルックらから音楽を教わり、また彼女が7歳だった1762年9月、各国での演奏旅行の途上、シェーンブルン宮殿でのマリア・テレジア女帝を前にした御前演奏に招かれたヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(当時6歳)からプロポーズされたという音楽史上よく知られたエピソードも持つ。後年ルイ16世の元に嫁いでからもハープを愛奏していたという。タンプル塔へ幽閉された際もハープが持ち込まれた。歌劇のあり方などをめぐるブフォン論争の折にはグルックを擁護し、彼のオペラのパリ上演の後援もしている。なお彼女は作曲もし、少なくとも12曲の歌曲が現存している。マリー・アントワネットの作品の多くはフランス革命時に焼き捨てられ、ごく一部がパリの国立図書館に収蔵されているのみである。

近年では"C'est mon ami"(それは私の恋人)などの歌曲がCDで知られるようになった。

2005年にはベルサイユのばらの作者でソプラノ歌手の池田理代子が、世界初録音9曲を含む12曲を歌ったCDをアントワネットの誕生日である11月2日に発売[1]。この曲が2006年上演の「ベルサイユのばら」で使用された。

アントワネットと入浴・香水

アントワネットが幼少期を過ごしたオーストリアには当時から入浴の習慣があった。母であるマリア・テレジアも幼い頃からアントワネットに入浴好きになるよう教育している。 入浴の習慣がなかったフランスへ嫁いだ後もアントワネットは入浴の習慣を続け、幽閉されたタンプル塔にも浴槽が持ち込まれたという記録がある。

また、入浴することにより、体臭を消すという目的が主だった香水にも影響をさせた。当時のヨーロッパ貴族が愛用していたムスクや動物系香料を混ぜた非常に濃厚な香り(香りというよりは臭いという表現がふさわしい)よりも、花やハーブなどの植物系香料から作られる軽やかな香りの現代の香水に近い物をアントワネットは愛用し、当時のヨーロッパ貴族たちの間で流行した。 勿論、このお気に入りの香水もタンプル塔へ持ち込まれている。

関連項目

外部リンク