「ティルチラーパッリ」の版間の差分

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略して'''ティルチ'''({{lang|ta|திருச்சி}} : {{lang|en|Tiruchi}} または {{lang|en|Trichy}})と呼ばれることが多く、イギリス統治下では'''トリチノポリ''' ({{lang|en|Trichinopoly}})と呼ばれていた。[[カーヴェーリ川]]沿いに発達した都市で、タミル・ナードゥ州のほぼ真ん中に位置する。
略して'''ティルチ'''({{lang|ta|திருச்சி}} : {{lang|en|Tiruchi}} または {{lang|en|Trichy}})と呼ばれることが多く、イギリス統治下では'''トリチノポリ''' ({{lang|en|Trichinopoly}})と呼ばれていた。[[カーヴェーリ川]]沿いに発達した都市で、タミル・ナードゥ州のほぼ真ん中に位置する。


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==都市名==
==都市名==
都市の名称であるティルチラーパッリは[[タミル語]]であり、「ティル」「チラー」「パッリ」の3つの部分に分けられる。「ティル」は「吉祥なる」という、人名あるいは地名に対する接頭辞である。「チラー」は、[[ジャイナ教]]の修行者であった人物の名前である。「パッリ」とは「ジャイナ教寺院」という一般名詞である。したがって、ティルチラーパッリとは「吉祥なるチラーの寺院」という意味である。
都市の名称であるティルチラーパッリは[[タミル語]]であり、「ティル」「チラー」「パッリ」の3つの部分に分けられる。「ティル」は「吉祥なる」という、人名あるいは地名に対する接頭辞である。「チラー」は、[[ジャイナ教]]の修行者であった人物の名前である。「パッリ」とは「ジャイナ教寺院」という一般名詞である。したがって、ティルチラーパッリとは「吉祥なるチラーの寺院」という意味である。
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==歴史==
==歴史==
[[File: Muhammad Ali Khan, Nawab of Arcot.jpg|right|thumb|[[ムハンマド・アリー・ハーン]]]]
ティルチラーパッリの歴史は古く、[[6世紀]]に[[パッラヴァ朝]]の[[マヘーンドラヴァルマン1世]]がこの地を支配下に置いたのをはじめ、[[12世紀]]に[[チョーラ朝]]、同世紀末には[[パーンディヤ朝]]の支配下に置かれた。
ティルチラーパッリの歴史は古く、[[6世紀]]に[[パッラヴァ朝]]の[[マヘーンドラヴァルマン1世]]がこの地を支配下に置いたのをはじめ、[[12世紀]]に[[チョーラ朝]]、同世紀末には[[パーンディヤ朝]]の支配下に置かれた。


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[[1310年]]に[[ハルジー朝]]の武将[[マリク・カーフール]]が占領し、その後は[[マドゥライ・スルターン朝]]の支配下に置かれたが、[[1370年]]代には[[ヴィジャヤナガル王国]]の[[クマーラ・カンパナ]]が征服した。
[[1310年]]に[[ハルジー朝]]の武将[[マリク・カーフール]]が占領し、その後は[[マドゥライ・スルターン朝]]の支配下に置かれたが、[[1370年]]代には[[ヴィジャヤナガル王国]]の[[クマーラ・カンパナ]]が征服した。



2016年7月26日 (火) 12:28時点における版

ティルチラーパッリ
திருச்சிராப்பள்ளி
Tiruchirappalli
タミル・ナードゥ州の位置を示したインドの地図
ティルチラーパッリの位置
ティルチラーパッリ
ティルチラーパッリの位置
タミル・ナードゥ州 とインド内)
座標: 北緯10度49分 東経78度41分 / 北緯10.81度 東経78.69度 / 10.81; 78.69
インドの旗 インド
タミル・ナードゥ州
行政区 ティルチラーパッリ県
Mayor Sarubala Thondaiman
人口
密度
都市圏
846,915[1] (2011年現在)
8740/km2
1,022,000[2]
標準時 IST (UTC+5:30)
面積
海抜
96.90 km2
85 m
公式サイト www.trichy.com

座標: 北緯10度49分 東経78度41分 / 北緯10.81度 東経78.69度 / 10.81; 78.69

ティルチラーパッリタミル語: திருச்சிராப்பள்ளி英語: Tiruchirappalli)は、南インドタミル・ナードゥ州にある都市で、現在はティルチラーパッリ県の県庁所在地。現地ではティッルチラーッパッリtiruccirāppaḷḷi)の発音が近いようである。

略してティルチதிருச்சி : Tiruchi または Trichy)と呼ばれることが多く、イギリス統治下ではトリチノポリTrichinopoly)と呼ばれていた。カーヴェーリ川沿いに発達した都市で、タミル・ナードゥ州のほぼ真ん中に位置する。


都市名

都市の名称であるティルチラーパッリはタミル語であり、「ティル」「チラー」「パッリ」の3つの部分に分けられる。「ティル」は「吉祥なる」という、人名あるいは地名に対する接頭辞である。「チラー」は、ジャイナ教の修行者であった人物の名前である。「パッリ」とは「ジャイナ教寺院」という一般名詞である。したがって、ティルチラーパッリとは「吉祥なるチラーの寺院」という意味である。

あるいは、「ティルチラー」とは「シュリーランガナータン」が訛った語形であり、ティルチラーパッリとは「吉祥なるランガナータンの寺院」という意味であるとする異説がある。

歴史

ムハンマド・アリー・ハーン

ティルチラーパッリの歴史は古く、6世紀パッラヴァ朝マヘーンドラヴァルマン1世がこの地を支配下に置いたのをはじめ、12世紀チョーラ朝、同世紀末にはパーンディヤ朝の支配下に置かれた。

1310年ハルジー朝の武将マリク・カーフールが占領し、その後はマドゥライ・スルターン朝の支配下に置かれたが、1370年代にはヴィジャヤナガル王国クマーラ・カンパナが征服した。

その後、この地はマドゥライ・ナーヤカ朝の支配下に置かれ、しばしばその首都となり、1736年カルナータカ太守の一族チャンダー・サーヒブによって占領された。

その後、第二次カーナティック戦争においては、マイソール王国とカルナータカ太守がこの地の支配権をめぐり争った。

1795年ムハンマド・アリー・ハーンマドラスで死亡した際、その遺体はティルチラーパッリへと埋葬された。

1801年イギリスカーナティック条約でこの地を獲得し、1947年までその統治下に置かれた。

脚注

  1. ^ Provisional Population Totals, Census of India 2011” (PDF) (英語). インド内務省. 2013年8月2日閲覧。
  2. ^ Demographia World Urban Areas - 9th Annual Edition” (PDF) (英語). Demographia (2013年3月). 2013年8月2日閲覧。

関連項目

外部リンク