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'''アル=ムスタルシド'''(1092年 - 1135年8月29日)は[[アッバース朝]]の第29代[[カリフ]]である。先代のカリフ、[[ムスタズヒル|アル=ムスタズヒル]]の子。<br>
'''アル=ムスタルシド'''([[1092]] - [[1135年]][[8月29日]])は[[アッバース朝]]の第29代[[カリフ]]である。先代のカリフ、[[ムスタズヒル|アル=ムスタズヒル]]の子。<br>
傀儡化の進んでいたアッバース朝の再軍備を行い、[[セルジューク朝]]の軛からの脱却を目指し、[[マズヤド朝]]の[[デュバイス2世]]や[[ザンギー朝]]の[[ザンギー|イマードゥッディーン・ザンギー]]らと戦った。
傀儡化の進んでいたアッバース朝の再軍備を行い、[[セルジューク朝]]の軛からの脱却を目指し、[[マズヤド朝]]の[[デュバイス2世]]や[[ザンギー朝]]の[[ザンギー|イマードゥッディーン・ザンギー]]らと戦った。

== 生涯 ==
== 生涯 ==
1092年、ムスタズヒルの息子として生まれる。1118年即位。1095年頃から金曜礼拝の際の[[フトバ]]で彼の名前が唱えられており、先代ムスタズヒルの明確な後継者であった<ref>Ibn al-Athir p.191</ref>。<br>
1092年、ムスタズヒルの息子として生まれる。1118年即位。1095年頃から金曜礼拝の際の[[フトバ]]で彼の名前が唱えられており、先代ムスタズヒルの明確な後継者であった<ref>Ibn al-Athir p.191</ref>。

1123年、デュバイスがイラクを攻撃した際は自ら出陣し、これを破っている。なお、この時カリフ軍に従った武将アクソンコル・アル=ブルスキの配下に、イマードゥッディーン・ザンギーがいる<ref>Ibn al-Athir pp.242-4</ref>。<br>
1123年、デュバイスがイラクを攻撃した際は自ら出陣し、これを破っている。なお、この時カリフ軍に従った武将アクソンコル・アル=ブルスキの配下に、イマードゥッディーン・ザンギーがいる<ref>Ibn al-Athir pp.242-4</ref>。

1127年、セルジューク朝の代替わりにより若年のスルタン、マフムードが即位した。セルジューク朝の武将でバグダードを任されていたヤルンカシュ・アル=ザカウィがムスタルシドの勢力伸長をマフムードに警告し、マフムードはバグダードへ侵攻しカリフ軍との戦闘となった。事態を収拾できなくなったマフムードは、この時[[バスラ]]の司令官となっていたザンギーを呼び寄せ、カリフ軍と戦わせた。ムスタルシドはザンギーに敗れ、武器を置いた<ref>マアルーフ pp.208-9</ref><ref>Ibn al-Athir pp.263-5</ref>。
1127年、セルジューク朝の代替わりにより若年のスルタン、マフムードが即位した。セルジューク朝の武将でバグダードを任されていたヤルンカシュ・アル=ザカウィがムスタルシドの勢力伸長をマフムードに警告し、マフムードはバグダードへ侵攻しカリフ軍との戦闘となった。事態を収拾できなくなったマフムードは、この時[[バスラ]]の司令官となっていたザンギーを呼び寄せ、カリフ軍と戦わせた。ムスタルシドはザンギーに敗れ、武器を置いた<ref>マアルーフ pp.208-9</ref><ref>Ibn al-Athir pp.263-5</ref>。

1131-32年、先述のマフムードが没し、セルジューク朝の後継者争いが始まった。これを好機と見たムスタルシドは、諸勢力の調停に立ち権威回復を図る。
<br>先のカリフ軍との戦闘の功を認められアレッポとモスルを領有していたザンギーは、この状況に危機感を覚え、庇護下に置いていたデュバイスとともにバグダードへ進軍した。
1131-32年、先述のマフムードが没し、セルジューク朝の後継者争いが始まった。これを好機と見たムスタルシドは、諸勢力の調停に立ち権威回復を図る。先のカリフ軍との戦闘の功を認められアレッポとモスルを領有していたザンギーは、この状況に危機感を覚え、庇護下に置いていたデュバイスとともにバグダードへ進軍した。ムスタルシド自ら率いるカリフ軍とザンギー軍の戦闘は、デュバイスが逃げ出しザンギー軍の敗北に終わった。

ムスタルシド自ら率いるカリフ軍とザンギー軍の戦闘は、デュバイスが逃げ出しザンギー軍の敗北に終わった。
1133年、ムスタルシドはザンギーの息の根を止めるべくモスルへと進軍したが、三ヶ月に渡る頑強な抵抗の前にモスル奪取は失敗し、この失敗によってムスタルシドは部下の武将たちから見放され1135年6月、セルジューク朝のスルタンに敗れて捕らえられたところを、乱入してきた[[ニザール派]]の刺客に殺された<ref>マアルーフ pp.215-7</ref><ref name="kamil1">Ibn al-Atihir pp.318-9</ref>。
1133年、ムスタルシドはザンギーの息の根を止めるべくモスルへと進軍したが、三ヶ月に渡る頑強な抵抗の前にモスル奪取は失敗し、この失敗によってムスタルシドは部下の武将たちから見放され1135年6月、セルジューク朝のスルタンに敗れて捕らえられたところを、乱入してきた[[ニザール派]]の刺客に殺された<ref>マアルーフ pp.215-7</ref><ref name="kamil1">Ibn al-Atihir pp.318-9</ref>。

== 人物 ==
== 人物 ==
紅毛碧眼で顔には赤茶けたしみがあったという<ref>マアルーフ p.207</ref>。
紅毛碧眼で顔には赤茶けたしみがあったという<ref>マアルーフ p.207</ref>。

2016年6月6日 (月) 14:40時点における版

アル=ムスタルシド
カリフ(アミール・アル=ムウミニーン)
在位 1118年8月6日 - 1135年8月29日

全名 アル=ムスタルシド・ビッラー・アブー=マンスール・アル=ファドル・イブン=アブー=アル=アッバース・アフマド・アル=ムスタズヒル・ビッラー
出生 1092年
バグダード
死去 1135年8月29日
マラーガ
埋葬 マラーガ
アル=ラーシド
家名 アッバース家
王朝 アッバース朝
父親 アル=ムスタズヒル
母親 不明[1]
宗教 スンナ派
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アル=ムスタルシド1092年 - 1135年8月29日)はアッバース朝の第29代カリフである。先代のカリフ、アル=ムスタズヒルの子。
傀儡化の進んでいたアッバース朝の再軍備を行い、セルジューク朝の軛からの脱却を目指し、マズヤド朝デュバイス2世ザンギー朝イマードゥッディーン・ザンギーらと戦った。

生涯

1092年、ムスタズヒルの息子として生まれる。1118年即位。1095年頃から金曜礼拝の際のフトバで彼の名前が唱えられており、先代ムスタズヒルの明確な後継者であった[2]

1123年、デュバイスがイラクを攻撃した際は自ら出陣し、これを破っている。なお、この時カリフ軍に従った武将アクソンコル・アル=ブルスキの配下に、イマードゥッディーン・ザンギーがいる[3]

1127年、セルジューク朝の代替わりにより若年のスルタン、マフムードが即位した。セルジューク朝の武将でバグダードを任されていたヤルンカシュ・アル=ザカウィがムスタルシドの勢力伸長をマフムードに警告し、マフムードはバグダードへ侵攻しカリフ軍との戦闘となった。事態を収拾できなくなったマフムードは、この時バスラの司令官となっていたザンギーを呼び寄せ、カリフ軍と戦わせた。ムスタルシドはザンギーに敗れ、武器を置いた[4][5]

1131-32年、先述のマフムードが没し、セルジューク朝の後継者争いが始まった。これを好機と見たムスタルシドは、諸勢力の調停に立ち権威回復を図る。先のカリフ軍との戦闘の功を認められアレッポとモスルを領有していたザンギーは、この状況に危機感を覚え、庇護下に置いていたデュバイスとともにバグダードへ進軍した。ムスタルシド自ら率いるカリフ軍とザンギー軍の戦闘は、デュバイスが逃げ出しザンギー軍の敗北に終わった。

1133年、ムスタルシドはザンギーの息の根を止めるべくモスルへと進軍したが、三ヶ月に渡る頑強な抵抗の前にモスル奪取は失敗し、この失敗によってムスタルシドは部下の武将たちから見放され1135年6月、セルジューク朝のスルタンに敗れて捕らえられたところを、乱入してきたニザール派の刺客に殺された[6][7]

人物

紅毛碧眼で顔には赤茶けたしみがあったという[8]

イブン=アル=アシールは著書『完史』の中で、ムスタルシドについて以下のように述べている。

「彼は強くまた勇敢であり非常に大胆で、遠大な夢を持っていた。彼はアラビア語にきわめて達者であり雄弁であった。私は彼が嘆願書に対して書いた返信も見たことがあるが、それは素晴らしい筆跡と文章技能で書かれていた」[7]

イブン=アル=アシールも述べているムスタルシドの雄弁さについて、ニザーミー・アルーズィー『四つの講話』には以下のようにある。

「カリフは説教の間にあまりの悲しみと絶望からセルジューク朝について不平を述べた。アラブの雄弁家、ペルシアの能弁家たちはいずれもそれをこう評している。すなわち、預言者の弟子にして、コーランの注釈者たちたる教友たち以来、かかる流麗かつ雄弁な話をした者はいない」[9]

なお、ムスタルシドの宰相ジャラールッディーン・アブー=アリー・アル=ハサン・イブン=スィドカは有能で、一度セルジューク朝の圧力によって解任した後も、ムスタルシドは彼を再度任用している[10]。ジャラールッディーンはアル=ハリーリーに『マカーマート』の執筆を促した人物としても知られる[11]

脚注

  1. ^ 奴隷身分であったと伝わる
  2. ^ Ibn al-Athir p.191
  3. ^ Ibn al-Athir pp.242-4
  4. ^ マアルーフ pp.208-9
  5. ^ Ibn al-Athir pp.263-5
  6. ^ マアルーフ pp.215-7
  7. ^ a b Ibn al-Atihir pp.318-9
  8. ^ マアルーフ p.207
  9. ^ ニザーミー p.223
  10. ^ イブン・アッティクタカー p.231
  11. ^ アル・ハリーリー p.45 訳者の解説による

参考文献

アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』ちくま学芸文庫,2001
イブン・アッティクタカー(池田修・岡本久美子訳)『アルファフリー2』東洋文庫,2004
ニザーミー(黒柳恒男訳)「四つの講話」『ペルシア逸話集』東洋文庫,1969
アル・ハリーリー(堀内勝訳注)『マカーマート 1』東洋文庫,2008
Ibn al-Athir The Chronicle of Ibn Al-Athir for the Crusading Period from al-Kamil Fi'l-ta'rikh: The Years 491-541/1097-1146 The Coming of the Franks and the Muslim Response (tr. D. S. Richards)

関連項目

ダニシュメンド朝 ムスタルシドからマリク号の使用を許可された

先代
ムスタズヒル
アッバース朝
1118年 - 1135年
次代
ラーシド