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[[本丸]]の規模は東西73[[間]]・南北62間で、二の丸と三の丸もあり、その周囲に堀が巡らされていた。周辺は大泥池と呼ばれる[[湿地|低湿地]]で、その自然地形を利用して五重の堀を設けていた。 |
[[本丸]]の規模は東西73[[間]]・南北62間で、二の丸と三の丸もあり、その周囲に堀が巡らされていた。周辺は大泥池と呼ばれる[[湿地|低湿地]]で、その自然地形を利用して五重の堀を設けていた。 |
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[[天正]]6年([[1578年]])に[[大友氏]]が[[耳川の戦い]]で敗れると、[[西牟田鎮豊]]は大友氏から離反して[[龍造寺氏]]に属した。このため、[[西牟田城]]は、大友氏より頻繁に攻撃を受けるようになった。西牟田氏は、西牟田城の防御能力を不十分と感じ、[[天正]]7年([[1579年]])に新たに当城を築き転住した。 |
[[天正]]6年([[1578年]])に[[大友氏]]が[[耳川の戦い]]で敗れると、[[西牟田鎮豊]]は大友氏から離反して[[龍造寺氏]]に属した。このため、[[西牟田城]]は、大友氏より頻繁に攻撃を受けるようになった。[[西牟田氏]]は、西牟田城の防御能力を不十分と感じ、[[天正]]7年([[1579年]])に新たに当城を築き転住した。 |
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さらに天正11年([[1583年]])、西牟田氏はより堅固な[[城島城]]へと移る。移転のきっかけについては、大友方に攻められ生津城が落城したからと記したものと、単に龍造寺氏の許可を受けて移った(城島町文化協会編「城島むかし」等)と記したものがある。 |
さらに天正11年([[1583年]])、西牟田氏はより堅固な[[城島城]]へと移る。移転のきっかけについては、大友方に攻められ生津城が落城したからと記したものと、単に龍造寺氏の許可を受けて移った(城島町文化協会編「城島むかし」等)と記したものがある。 |
2016年5月30日 (月) 10:48時点における版
生津城 (福岡県) | |
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築城主 | 西牟田家周 |
築城年 | 天正7年(1579年) |
主な城主 | 西牟田家周 |
廃城年 | 天正11年(1583年)? |
位置 |
北緯33度23分53.85秒 東経130度45分82.69秒 / 北緯33.3982917度 東経130.7729694度 座標: 経度の秒が60以上です {{#coordinates:}}: 経度 (lon) の値が無効です |
生津城(なまつじょう)は福岡県久留米市に存在した日本の城(平城)。
概要
本丸の規模は東西73間・南北62間で、二の丸と三の丸もあり、その周囲に堀が巡らされていた。周辺は大泥池と呼ばれる低湿地で、その自然地形を利用して五重の堀を設けていた。
天正6年(1578年)に大友氏が耳川の戦いで敗れると、西牟田鎮豊は大友氏から離反して龍造寺氏に属した。このため、西牟田城は、大友氏より頻繁に攻撃を受けるようになった。西牟田氏は、西牟田城の防御能力を不十分と感じ、天正7年(1579年)に新たに当城を築き転住した。
さらに天正11年(1583年)、西牟田氏はより堅固な城島城へと移る。移転のきっかけについては、大友方に攻められ生津城が落城したからと記したものと、単に龍造寺氏の許可を受けて移った(城島町文化協会編「城島むかし」等)と記したものがある。
参考文献
- 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典(40.福岡県)』、角川書店、1988年
- 日本歴史地名大系 (オンライン版)