「京都市交通局広軌1形電車」の版間の差分

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京都電気鉄道のほうでは開業時にシングルポールを採用し、電気は線路を通して[[変電所]]に返していたが、水道管の[[電食]]が問題になったため、上下電流を架線で送る方式になったとされている。
京都電気鉄道のほうでは開業時にシングルポールを採用し、電気は線路を通して[[変電所]]に返していたが、水道管の[[電食]]が問題になったため、上下電流を架線で送る方式になったとされている。
1912年6月の開業時にまず40両、そして同年中に55両、翌年に72両、1921年に2両を増備した。そのうち2両は[[京都市電気部貴賓車|貴賓車]]となっていたが、1923年に普通仕様へ改造した。また、どの時点で改造されたのか等は資料がなく不明だが、初期のオープンデッキ型から
1912年6月の開業時にまず40両、そして同年中に55両、翌年に72両、1921年に2両を増備した。そのうち2両は[[京都市電気部貴賓車|貴賓車]]となっていたが、1923年に普通仕様へ改造した。また、どの時点で改造されたのか等は資料がなく不明だが、初期のオープンデッキ型から
運転台にガラス窓の付いた「ベスチュビー型」に改造されている。
運転台にガラス窓の付いた「ベスチュビ型」に改造されている。


新車の増備に伴い、1938年に長崎電気軌道へ[[長崎電気軌道80形電車|80形]]として5両、大連都市交通([[大連市電]])へ10両が譲渡され、1940年から段階的に廃車を開始する。同年中に14両、1946年に31両、1948年に42両、1949年に13両を廃車し、1952年に最後に残った33両を廃車して全廃となった。
新車の増備に伴い、1938年に長崎電気軌道へ[[長崎電気軌道80形電車|80形]]として5両、大連都市交通([[大連市電]])へ10両が譲渡され、1940年から段階的に廃車を開始する。同年中に14両、1946年に31両、1948年に42両、1949年に13両を廃車し、1952年に最後に残った33両を廃車して全廃となった。

2016年5月12日 (木) 17:05時点における版

29号(梅小路公園)

京都市交通局 広軌1形電車(きょうとしこうつうきょく こうき1がたでんしゃ)は、京都市電気軌道事務所路面電車京都市電)を開業させた際、製造投入した車両である。総数169両が製造され、一部車両は大連都市交通(今の中華人民共和国大連)・長崎電気軌道に譲渡された。

車両概要

京都市では市電の開業に先駆け、民営の京都電気鉄道(京電)による路面電車路線が1895年より運転開始されていた。これは狭軌(1067mm軌間)の路線であったが、1912年に開業した京都市電気軌道事務所の方では標準軌(1435mm軌間。当時は1067mm軌間を日本標準軌としており、広軌とも呼んだ)を採用した。そのため、京都電気鉄道が京都市に買収された1918年以降、元京都電気鉄道の車両を狭軌1形、京都市電生え抜きの車両を広軌1形と呼ぶようになったとされている。

スタイルは当時の路面電車では標準であったオープンデッキ型で、中央にダブルポールを設けて折り返し地点で回転させるものとなった。 京都電気鉄道のほうでは開業時にシングルポールを採用し、電気は線路を通して変電所に返していたが、水道管の電食が問題になったため、上下電流を架線で送る方式になったとされている。 1912年6月の開業時にまず40両、そして同年中に55両、翌年に72両、1921年に2両を増備した。そのうち2両は貴賓車となっていたが、1923年に普通仕様へ改造した。また、どの時点で改造されたのか等は資料がなく不明だが、初期のオープンデッキ型から 運転台にガラス窓の付いた「ベスチュビュール型」に改造されている。

新車の増備に伴い、1938年に長崎電気軌道へ80形として5両、大連都市交通(大連市電)へ10両が譲渡され、1940年から段階的に廃車を開始する。同年中に14両、1946年に31両、1948年に42両、1949年に13両を廃車し、1952年に最後に残った33両を廃車して全廃となった。

交通局自身は29号を保存し、数度の移設を経て2014年3月8日からは梅小路公園内の「すざくゆめ広場」で保存されている[1]

終戦直後の1947年12月10日から1948年10月20日までの間、電動機の故障した1形22両が、600形のトレーラーとなる「親子電車」として運用されている。

脚注

  1. ^ 梅小路公園「市電ひろば」がオープン。 - 編集長敬白、2014年3月10日

外部リンク