「ガブリエラ・ミストラル」の版間の差分
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'''ガブリエラ・ミストラル'''('''Gabriela Mistral''', [[1889年]][[4月7日]] - [[1957年]][[1月10日]])は、[[チリ]]の女流[[詩人]]、[[教育者]]、[[外交官]]。本名は'''ルシラ・ゴドイ・アルヤガ'''('''Lucila Godoy Alcayaga''')。[[1945年]]に[[ラテンアメリカ]]圏で初となる[[ノーベル文学賞]]を受賞。「ラテンアメリカの母」との敬称を受ける。同国でもっとも尊敬される教育者でもあり、同国の「5000[[チリ・ペソ]]」紙幣の肖像画となっている。[[バスク系チリ人]]。 |
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==生涯== |
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チリ北部のビクーニャに生まれる。3歳の時、父親のフアン・ジェロニモ・ゴドイが出奔。送金が途絶えたため、異父姉が働く[[アンデス山脈|アンデス]]山中の寒村で9歳まで過ごす。転校先で放校処分を受け、独学で詩を書き始める。14歳の時、小学校の代用教員就任をふり出しに、独学で教員資格をえて、教師や学校長として国内各地に赴いた。 |
チリ北部のビクーニャに生まれる。3歳の時、父親のフアン・ジェロニモ・ゴドイが出奔。送金が途絶えたため、異父姉が働く[[アンデス山脈|アンデス]]山中の寒村で9歳まで過ごす。転校先で放校処分を受け、独学で詩を書き始める。14歳の時、小学校の代用教員就任をふり出しに、独学で教員資格をえて、教師や学校長として国内各地に赴いた。 |
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1957年1月10日、[[ニューヨーク]]でガンで死去。67歳。チリ政府はこの国民的詩人に3日間の喪を宣言した。死後、集大成的作品『Poema de Chile』が発表される。 |
1957年1月10日、[[ニューヨーク]]でガンで死去。67歳。チリ政府はこの国民的詩人に3日間の喪を宣言した。死後、集大成的作品『Poema de Chile』が発表される。 |
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==作品== |
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*Sonetos de la Muerte (1914) |
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*Desolación (1922) |
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*Lecturas para Mujeres (1923) |
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*Ternura (1924) |
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*Nubes Blancas y Breve Descripción de Chile (1934) |
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*Tala (1938) |
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*Antología (1941) |
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*Lagar (1954) |
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*Recados Contando a Chile (1957) |
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*Poema de Chile (1967) |
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==日本語訳== |
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*ガブリエラ・ミストラル詩抄 |
*ガブリエラ・ミストラル詩抄 [[荒井正道]]訳 ノーベル賞文学全集 主婦の友社、1972 |
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*ガブリエラ・ミストラル詩集 /[[田村さと子]]編訳 小沢書店 1993.11. |
*ガブリエラ・ミストラル詩集 /[[田村さと子]]編訳 小沢書店 1993.11. |
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==研究書== |
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*『ガブリエラ・ミストラル―風は大地を渡る』[[芳田悠三]]/JICC出版局, 1989) |
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*謎ときミストラル ガブリエラ・ミストラルの「死のソネット」研究 田村さと子 小沢書店, 1994.2. |
*謎ときミストラル ガブリエラ・ミストラルの「死のソネット」研究 田村さと子 小沢書店, 1994.2. |
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*[http://www.angelfire.com/ego2/olko/cgi-bin/mistral-press.html her lyric poetry which, inspired by powerful emotions, has made her name a symbol of the idealistic aspirations of the entire Latin American world.] |
*[http://www.angelfire.com/ego2/olko/cgi-bin/mistral-press.html her lyric poetry which, inspired by powerful emotions, has made her name a symbol of the idealistic aspirations of the entire Latin American world.] |
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*[http://nobelprize.org/literature/laureates/1945/mistral-bio.html Nobel biography] |
*[http://nobelprize.org/literature/laureates/1945/mistral-bio.html Nobel biography] |
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*http://www.uchile.cl/actividades_culturales/premios_nobel/mistral/index.htm |
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{{ノーベル文学賞受賞者 (1926年-1950年)}} |
{{ノーベル文学賞受賞者 (1926年-1950年)}} |
2016年5月8日 (日) 09:57時点における版
ガブリエラ・ミストラル Gabriela Mistral | |
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誕生 |
ルシラ・ゴドイ・アルヤガ (Lucila Godoy Alcayaga) 1889年4月7日 チリ、ビクーニャ |
死没 |
1957年1月10日(67歳没) アメリカ合衆国、ニューヨーク |
職業 | 詩人、政治家、外交官 |
国籍 | チリ |
文学活動 | モデルニスモ文学 |
主な受賞歴 | ノーベル文学賞 |
ウィキポータル 文学 |
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ガブリエラ・ミストラル(Gabriela Mistral, 1889年4月7日 - 1957年1月10日)は、チリの女流詩人、教育者、外交官。本名はルシラ・ゴドイ・アルヤガ(Lucila Godoy Alcayaga)。1945年にラテンアメリカ圏で初となるノーベル文学賞を受賞。「ラテンアメリカの母」との敬称を受ける。同国でもっとも尊敬される教育者でもあり、同国の「5000チリ・ペソ」紙幣の肖像画となっている。バスク系チリ人。
生涯
チリ北部のビクーニャに生まれる。3歳の時、父親のフアン・ジェロニモ・ゴドイが出奔。送金が途絶えたため、異父姉が働くアンデス山中の寒村で9歳まで過ごす。転校先で放校処分を受け、独学で詩を書き始める。14歳の時、小学校の代用教員就任をふり出しに、独学で教員資格をえて、教師や学校長として国内各地に赴いた。
1904年に地方紙などに初期詩編を発表したころから、詩人の道を歩み始める。1906年に鉄道員ロメオ・ウレタと交際。しかし彼が1909年に自殺した悲しみは、死への影響の強い作風に生涯傾くことになり、のち1922年の詩集『Desolación』に色濃く反映される。1914年に発表した『Sonetos de la Muerte』以降、ガブリエラ・ミストラル(敬愛するガブリエーレ・ダヌンツィオとフレデリック・ミストラルから援用した)名義を使用した。
1922年に、メキシコ革命後のメキシコのアルバロ・オブレゴン政権の文部大臣ホセ・バスコンセロスからメキシコ教育改革委員として招聘を受けるなど、数回にわたってメキシコに滞在。学校制度と図書館の整備に尽力し、移動図書館や夜間学校の導入などに貢献した。またラサロ・カルデナス、ミゲル・アレマンといった歴代大統領や、壁画家ディエゴ・リベラ、彼の妻で自画像を描きながら病と闘ったフリーダ・カーロらと親交を温めた。
帰国後、スペインに関する教授の称号がチリ大学によって授与される。国際的な名声を得た後は、アメリカ合衆国とヨーロッパを講演旅行で訪れた。マドリードで詩集『Ternura』を発表する。続いてブラジル、ウルグアイ、およびアルゼンチンを訪れる。教壇を去った後は、1925年から1934年までフランスとイタリアに在住しつつ、国際連盟の職務に就く。コロンビア大学、ヴァッサー大学、およびプエルトリコ大学の教壇に立った。1933年から外交官として活動し、ナポリ、マドリード、ニース、リスボン、ロサンゼルス、サンタバーバラ、ベラクルス(メキシコ)、ラパロ、ナポリおよびニューヨークに領事として勤務し、文化交流を積極的に行った。長年の友人であるジャーナリストのビクトリア・オカンポの助けによって詩集『Tala』がブエノスアイレスで1938年に発行(売り上げはスペイン内戦の孤児に寄付された)。ラテンアメリカの習慣と民俗学が盛り込まれたこの詩集は、彼女およびラテンアメリカのバックグラウンド、アイデンティティを追求したものとして評価が高い。
1945年にラテンアメリカ圏で初となるノーベル文学賞を受賞。「ラテンアメリカの母」との敬称を受けた。彼女の17歳の甥ホアン・ミゲルが自殺。その悲しみ、および第二次世界大戦後の冷戦への返答として詩集『Lagar』を1954年に発表した。
1957年1月10日、ニューヨークでガンで死去。67歳。チリ政府はこの国民的詩人に3日間の喪を宣言した。死後、集大成的作品『Poema de Chile』が発表される。
作品
- Sonetos de la Muerte (1914)
- Desolación (1922)
- Lecturas para Mujeres (1923)
- Ternura (1924)
- Nubes Blancas y Breve Descripción de Chile (1934)
- Tala (1938)
- Antología (1941)
- Lagar (1954)
- Recados Contando a Chile (1957)
- Poema de Chile (1967)
日本語訳
研究書
- 『ガブリエラ・ミストラル―風は大地を渡る』芳田悠三/JICC出版局, 1989)
- 謎ときミストラル ガブリエラ・ミストラルの「死のソネット」研究 田村さと子 小沢書店, 1994.2.