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'''雨森 信成'''(あまもり のぶしげ、[[1858年]] - [[1906年]])は、プロテスタント源流の一つ[[横浜バンド]]のメンバー。伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の[[小泉八雲]]の親しい友人としても知られる。 |
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2016年4月28日 (木) 14:10時点における版
雨森 信成(あまもり のぶしげ、1858年 - 1906年)は、プロテスタント源流の一つ横浜バンドのメンバー。伝道者、宣教師の通訳として活躍した人物で、英語教育者としても活躍した。晩年の小泉八雲の親しい友人としても知られる。
生涯
1858年(安政5年)、福井藩士である松原十郎の次男として生まれた。1871年に福井藩藩校である藩校明新館に入学した。この年の1871年(明治4年)3月、藩主松平春嶽の招きでW・E・グリフィスが化学と物理の教師として赴任してきた。
1873年廃藩置県により福井藩が消滅すると、雨森は横浜でアメリカ・オランダ改革派教会宣教師S・R・ブラウンの私塾ブラウン塾で英学を学んだ。
明新館が、中学になり、グリフィスの後輩であるM.N.ワイコフがグリフィスの後任として赴任したので、雨森はワイコフの通訳として呼び戻された。 1873年(明治6年)に信成は元福井藩家老・雨森家の婿養子となった。しかし、ワイコフが新潟英語学校に移動したため、これに同行し、その後、エディンバラ医療宣教会のT・A・パームの通訳兼助手になった。新潟でパームの助手をしている時、現地人の迫害で説教中に拉致される事件があった。この事件で頭痛に悩まされることになり、3ヶ月でブラウン塾に戻った。雨森の後任には、押川方義が志願した[1]。
1875年(明治8年)キリスト教徒になったことが原因で雨森家から離縁された。信成は離婚後も雨森姓を名乗り、メアリー・キダーの女学校(現・フェリス女学院)の教師となる。
1877年(明治10年)には築地の東京一致神学校の第一期生になった。1881年(明治14年)、ワイコフの先志学校の教師となる。
後に、米国に留学して諸外国を放浪した後、西欧のキリスト教文明に失望し、キリスト教を棄教することになる。晩年は小泉八雲の親友として多くの影響を与えた。
1903年(明治36年)には横浜グランドホテル内でクリーニング業を営んだ。
脚注
- ^ 大西晴樹 2003年、307-309頁
参考文献
- 大西晴樹「スコットランド一致教会宣教師」『長老・改革教会来日宣教師辞典』教文館〈日本キリスト教史双書〉、2009年4月20日。ISBN 4-400-22740-5。
- 守部喜雅「47都道府県それぞれの物語」『日本宣教の夜明け』いのちのことば社〈マナブックス〉、2009年4月20日。ISBN 978-4-264-02638-9 。