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1943年1月に初代通天閣が間近にあった映画館からの延焼火災で焼け落ちたが<ref name = hitomachi2>『通天閣 人と街の物語』 p.9 「2.図面広げ『ほな進めよか』」</ref>、1953年頃、地元新世界の有志らにより再建話が持ち上がり、「通天閣再建委員会」へと発展した<ref name = hitomachi2 />。当初は笑い話として地元では相手にもされなかったが、再建話は徐々に現実味を帯びてゆく<ref name = hitomachi2 />。だが初代通天閣の有った場所には既に民家が建ち並んでおり、ほど近い公園に再建することとなった<ref group = *>『通天閣 人と街の物語』 p.17によれば、[[天王寺公園]]に再建する話もあったという。</ref><ref name = hitomachi2 />。
1943年1月に初代通天閣が間近にあった映画館からの延焼火災で焼け落ちたが<ref name = hitomachi2>『通天閣 人と街の物語』 p.9 「2.図面広げ『ほな進めよか』」</ref>、1953年頃、地元新世界の有志らにより再建話が持ち上がり、「通天閣再建委員会」へと発展した<ref name = hitomachi2 />。当初は笑い話として地元では相手にもされなかったが、再建話は徐々に現実味を帯びてゆく<ref name = hitomachi2 />。だが初代通天閣の有った場所には既に民家が建ち並んでおり、ほど近い公園に再建することとなった<ref group = *>『通天閣 人と街の物語』 p.17によれば、[[天王寺公園]]に再建する話もあったという。</ref><ref name = hitomachi2 />。


設計の内藤が紹介した[[竹中工務店]]とは予算面で折り合いがつかず、2億7000万円で奥村組が施行することとなった(その後の追加工事で、最終的に建築費総額は3億4000万円となった)<ref name = hitomachi3 />。1955年8月17日に起工された建築工事については死者などは出なかったが<ref name = hitomachi4>『通天閣 人と街の物語』 p.20 「4.開業 気分は『七人の侍』」</ref>、事務所スペースの確保をすっかり忘れており、工事の途中にあわてて中2階を付け足すといったトラブルがあった<ref name = hitomachi4 />。構造材の[[鉄骨]]は[[めっき#溶融亜鉛めっき|溶融亜鉛めっき]]された品質の高い物で、1996年の改修工事時に確認したところ、びくともしていなかったという<ref>『通天閣 人と街のものがたり』 p.102</ref>。
設計の内藤が紹介した[[竹中工務店]]とは予算面で折り合いがつかず、2億7000万円で[[奥村組]]が施行することとなった(その後の追加工事で、最終的に建築費総額は3億4000万円となった)<ref name = hitomachi3 />。1955年8月17日に起工された建築工事については死者などは出なかったが<ref name = hitomachi4>『通天閣 人と街の物語』 p.20 「4.開業 気分は『七人の侍』」</ref>、事務所スペースの確保をすっかり忘れており、工事の途中にあわてて中2階を付け足すといったトラブルがあった<ref name = hitomachi4 />。構造材の[[鉄骨]]は[[めっき#溶融亜鉛めっき|溶融亜鉛めっき]]された品質の高い物で、1996年の改修工事時に確認したところ、びくともしていなかったという<ref>『通天閣 人と街のものがたり』 p.102</ref>。


運営会社については資金調達に難儀し、資本金として3500万円を予定したところ2500万円足らずしか集められず<ref name = hitomachi3 />、再建に携わった人員の一部が個人的に高利貸しから資金を調達し、それに充てることとなった<ref name = hitomachi3 />。さらに登記の2-3日前に他の人物が「通天閣株式会社」を登記しており、やむなく「通天閣観光株式会社」として発足した<ref name = hitomachi3 />。
運営会社については資金調達に難儀し、資本金として3500万円を予定したところ2500万円足らずしか集められず<ref name = hitomachi3 />、再建に携わった人員の一部が個人的に高利貸しから資金を調達し、それに充てることとなった<ref name = hitomachi3 />。さらに登記の2-3日前に他の人物が「通天閣株式会社」を登記しており、やむなく「通天閣観光株式会社」として発足した<ref name = hitomachi3 />。

2016年3月20日 (日) 03:28時点における版

通天閣
Tsūtenkaku
情報
用途 展望台
設計者 内藤多仲
施工 奥村組
建築主 通天閣観光株式会社
事業主体 通天閣観光株式会社
管理運営 通天閣観光株式会社
構造形式 鉄骨造鉄骨鉄筋コンクリート造
階数 建屋:地階・3階、展望台:2階
高さ 100 m
着工 1955年8月17日
竣工 1956年
開館開所 1956年10月28日
所在地 556-0002
大阪府大阪市浪速区恵美須東一丁目18番6号
座標 北緯34度39分9.13秒 東経135度30分22.77秒 / 北緯34.6525361度 東経135.5063250度 / 34.6525361; 135.5063250 (通天閣
Tsūtenkaku
)
座標: 北緯34度39分9.13秒 東経135度30分22.77秒 / 北緯34.6525361度 東経135.5063250度 / 34.6525361; 135.5063250 (通天閣
Tsūtenkaku
)
文化財 国の登録有形文化財
指定・登録等日 2007年5月15日
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通天閣の位置(日本内)
通天閣
通天閣

通天閣(つうてんかく)は、大阪府大阪市浪速区にある新世界の中心部に建つ展望塔である。2007年5月15日に、国の登録有形文化財となった[1]。公式キャラクターは「ビリケン」。大阪の観光名所として知られる。

設計・構造

概要

基本構造と運営形態

現在の通天閣は二代目で、1956年昭和31年)に完成した(初代通天閣については後述)。通天閣観光株式会社(つうてんかくかんこう、Tsutenkaku Kanko Co., Ltd.)により運営されている。避雷針を含めた高さは103m(塔自体の高さは100m)。設計者は、ほぼ同時期にできた名古屋テレビ塔東京タワーなどを手がけた内藤多仲[6]。建設を施工したのは奥村組である[6]。「通天閣」とは、「天に通じる高い建物」という意味[7][2][8]で、命名したのは明治初期の儒学者藤沢南岳である[2]

二代目の通天閣は、入場ゲートや展示スペースなどを設けた低層階(地下1階~2階)と、展望台などのある高層階(3階~5階)で本体を構成[9]。入口と2階を往復するエレベーター(低層エレベーター)と、展望台のある4・5階と2階を往復するエレベーター(展望エレベーター)を別々に稼働させている。このような構造のため、入場者が入口から展望台へ向かう場合には、基本として2階で低層エレベーターから展望エレベーターに乗り換える仕組みになっている。

低層エレベーターについては、本体とは別に建てられた白色・円柱形の専用棟(エレベーター棟)の中で稼働。エレベーター棟の2階と本体の2階を渡り廊下で連結している。このようにエレベーター棟を本体と分けた構造は、2014年(平成26年)10月から2015年(平成27年)6月まで実施された免震化工事で功を奏したという(詳細後述)[10]。その一方で、再建当初から2001年(平成13年)までは、東洋オーチス・エレベータ(現在の日本オーチス・エレベータ)製の円柱形エレベーターを低層用に稼働していた。乗りかごが円柱形のエレベーターが設置されたのは、通天閣が世界で初めてとされる。なお、2001年からは、低層エレベーターを日立製作所製の円柱形エレベーターに更新。本体では、展望エレベーターの稼働中に、「ビリケンのイラストや、夜空に浮かぶビリケン座をエレベーターの天井に浮かび上がらせる」という光の演出を施している。

本体の直下を市道が通っている関係で、低層階の1階部分(エントランス)には、市道をまたぐ格好で鉄製の4本の脚(脚部)が四方に据えられている。再建当初から2013年(平成25年)12月19日までは、低層エレベーターおよび、エレベーター棟の2階へ通じるらせん階段の乗降口を1階の東側に設置。展望台への入場券(展望券)を、本体の2階で販売していた。しかし、入場者数の増加などを背景に、同年12月20日から展望台への入場ルートを変更。地下1階に展望券売場と低層エレベーターの乗降口を新設するとともに、同年6月30日まで地下1階の一角で営業していた「通天閣地下劇場」の跡地を、入場者の待機スペースなどに活用している(詳細後述[11]。このため、展望台への入場者は、ルート変更前から脚部の間に設けられている地下通路への入口(2ヶ所)から階段でいったん地下1階まで移動。地下1階で展望券の購入と低層エレベーターへの搭乗を済ませてから、従来と同じく、2階で展望エレベーターに乗り換えるようになった。

再建への経緯

1943年1月に初代通天閣が間近にあった映画館からの延焼火災で焼け落ちたが[12]、1953年頃、地元新世界の有志らにより再建話が持ち上がり、「通天閣再建委員会」へと発展した[12]。当初は笑い話として地元では相手にもされなかったが、再建話は徐々に現実味を帯びてゆく[12]。だが初代通天閣の有った場所には既に民家が建ち並んでおり、ほど近い公園に再建することとなった[* 1][12]

設計の内藤が紹介した竹中工務店とは予算面で折り合いがつかず、2億7000万円で奥村組が施行することとなった(その後の追加工事で、最終的に建築費総額は3億4000万円となった)[6]。1955年8月17日に起工された建築工事については死者などは出なかったが[13]、事務所スペースの確保をすっかり忘れており、工事の途中にあわてて中2階を付け足すといったトラブルがあった[13]。構造材の鉄骨溶融亜鉛めっきされた品質の高い物で、1996年の改修工事時に確認したところ、びくともしていなかったという[14]

運営会社については資金調達に難儀し、資本金として3500万円を予定したところ2500万円足らずしか集められず[6]、再建に携わった人員の一部が個人的に高利貸しから資金を調達し、それに充てることとなった[6]。さらに登記の2-3日前に他の人物が「通天閣株式会社」を登記しており、やむなく「通天閣観光株式会社」として発足した[6]

ネオン広告

再建翌年の1957年(昭和32年)から、総合電機企業の日立製作所が、塔の側面に文字広告を掲出[* 2]。当初は、松下電器産業(現在のパナソニック)に広告の掲出を打診したが、当時社長だった松下幸之助の判断で掲出を見送った。幸之助は配線工として初代通天閣の工事に携わっていた(詳細後述)が、日立のネオンが「地元の名物」として広く認知された後年に、広告の掲出を見送ったことを悔いたという[15]

「通天閣は公共性の高い建物」という配慮から、西面には、日立の広告掲出開始と同時に大型の寒暖計(マンモス寒暖計)を1970年(昭和45年)まで設置[16]。同年以降は、西面にのみ広告を掲出せず、大阪府浪速警察署浪速消防署による3パターンの標語(地元の中学生からの公募で選ばれた交通安全の標語など)を交互に表示できるネオンを設置している[15][17]。現在は、日立の製品名を表示できるネオンを北面と南面、日立の英語社名ロゴ(HITACHI)と日立グループのスローガン(Inspire The Next)を交互に表示できるネオンを東面に設置。一時は、4面とも社名(日立)のみのネオンで構成したり、大阪万国博覧会のPR・大阪21世紀計画に関するメッセージ・国際花と緑の博覧会のカウントダウンなどのネオンを東面に取り付けたりしていた[18]

なお、東面には広告掲出開始当初からアナログ形式の大時計を設置。大時計にオルゴールを取り付けた1970年以降は、オルゴールで演奏された日立のCMソング(現在は「日立の樹」)のメロディーが、少なくとも毎日正午にスピーカーを通じて流されている[19]。また、広告の掲出開始から2001年までは、日立の社章である「亀の子マーク」[20]モノグラムが展望台の真下(広告の上部)に付けられていた。同年のマーク使用中止・ネオン更新を機に撤去されてからは、ライトアップの効果を高めるべく、展望台の真下を横に囲む格好で3本のネオンラインを設置している[21]

もっとも、オイルショックに伴う通産省(当時)の省エネ指導を受けて、1974年(昭和49年)1月16日から1976年(昭和51年)7月2日までは全面消灯を実施。1976年7月3日から1979年(昭和54年)4月27日までは、「消費電力を以前の4分の1に抑える」という条件で、一部のネオンを点灯させていた[22]。関係者による交渉や運動などの結果、1979年4月28日に全面点灯を再開。地元では、再点灯初日から3日間にわたって祝賀カーニバルが催されたという[23]。ただし、全面点灯の復活後も、ライトダウンキャンペーンへの協力などを目的に一部消灯や全面消灯を実施する日がある[24]

2012年(平成24年)からは、女性に乳がん検診の早期受診を勧めるピンクリボン運動の一環として、乳がん検診推進月間初日(10月1日)の夜間にピンク色のネオンを点灯させている[25]。2015年には、阪神タイガースによる球団創設80周年記念プロジェクト「Yellow Magicプロジェクト」とのコラボレーション企画として、公式戦開幕日の3月27日から「イエローライトアップ」を随時実施。実施期間中には、広告以外のネオンの色を、阪神のチームカラーである黄色(イエロー)に変えていた[26]

世界初の展望塔免震化工事

1994年から1996年にかけて、約9億円を投じて改修工事を実施[27]。しかし、奥村組が東日本大震災の発生翌年(2012年)に耐震診断を実施したところ、「阪神・淡路大震災級の直下型地震では倒壊しないものの、展望台を直接支える鉄骨がゆがむ可能性がある」という結果が示された[5]

耐震診断を依頼した通天閣観光では、この結果を受けて、2013年8月に奥村組・竹中工務店・飛島建設を対象に地震対策工事の技術提案と見積もりを依頼。奥村組と飛島建設は制震工法による改修工事(制震化工事)、竹中工務店は免震工法による改修工事(免震化工事)を提案したため、専門家による審査を経て竹中工務店を工事の発注先に決定した[5]

免震化工事は総事業費約6億円で、2014年10月から2015年6月まで実施。2015年7月3日には、エントランスで竣工式を開催した[28]。見積り額は他の2社の案を1.5倍ほど上回っていたが、通天閣観光の高井隆光副社長(当時)によれば、「地震発生時の来場者の安全・安心を考えると、揺れを抑える効果で勝る免震が良いと判断した」という[5]

竹中工務店では、通天閣観光への技術提案に際して、繁華街である周辺地域に及ぼす工事の影響や文化財としての本体の価値を考慮。本体高層部の外観を損ねないことを前提に、同社が特許を出願済みの技術によって地上10mに相当する脚部の基壇部に免震装置とオイルダンパーを埋め込む案や、じゃばら状に変形することで振動を軽減するエキスパンションジョイントを本体とエレベーター棟をつなぐ渡り廊下の連結部分に新設する案を提示した[29]。この案では、地震が発生した際の振動の大きさが耐震改修の場合に比べて3分の1程度にまで抑えられること[5]や、エキスパンションジョイントの設置によって低層エレベーターの安全性を確保できることが見込まれている[10]

竹中工務店が当初立てていた耐震化工事の基本計画では、およそ9ヶ月にわたる工事期間中を通じて、通天閣および周辺店舗の営業を中断させることを想定していた。しかし、営業の中断が経済面などに莫大な影響を及ぼしかねないことから、結局は営業を続けながら工事を実施する方針に転換。市道をまたぐエントランスの天井部分(地上8m)に工事用のステージを設置したうえで、必要な資材をすべて営業時間外の夜間に搬入することによって、何重もの安全対策を講じながら「『通天閣の営業継続』と『市道の真上での耐震化工事』の両立」という世界初の試みを実現させた[9]

なお、地下1階では、2013年9月24日から12月上旬までフロアの改装を兼ねた耐震補強改修工事が実施されている。

エントランスの天井画

初代通天閣のエントランスには、1911年(明治44年)から1943年(昭和18年)の解体まで、地元の化粧品メーカー・中山太陽堂(現在のクラブコスメチックス)がクジャクの天井画の広告を掲出していた[30]

通天閣の再建後は、エントランスの天井に特別な装飾や広告を設置していなかった。クラブコスメチックスでは、前述の耐震化工事の決定を機に、天井画を復刻させたうえで通天閣観光へ寄贈する計画を始動。織田一磨が描いた初代天井画の草稿を基に、日本画家の沖谷晃司が原画(花園に遊ぶクジャク図)を作成した[30]

耐震化工事では、脚部の基壇部に耐震装置とオイルダンパーを埋め込んでから、基壇部の上部(地上約12m)にある八角形状のエントランス大天井に「花園に遊ぶクジャク図」の再現画を設置[30]。2015年7月の竣工式で、初めて一般に公開された[28]。なお、天井画の復刻に際しては、初代の天井画に記されていた商品名(現在では製造・販売を終了している「クラブ」ブランドの化粧水白粉歯磨洗粉)のロゴもそのまま再現。大天井の中心部と四方にLED照明装置を備えたことから、竣工後は毎日、日没から23時まで天井画のライトアップを実施している[30]

入場者数

二代目通天閣に建替えられた1956年(昭和31年)10月28日の開業日に10,496人の入場を記録するなど[31]人気を博し、年間入場者も155万人を超えていたが、1965年(昭和40年)に100万人を割込み、大阪万博のあった1970年(昭和45年)にやや持ち直したものの、光化学スモッグ等の環境汚染が要因となって1975年(昭和50年)には20万人前後へと激減した。

その後は緩やかに回復傾向を示し、通天閣を舞台としたテレビ番組や串カツ人気の高まりもあって2006年(平成18年)に90万人、2007年(平成19年)に100万人超へと回復した。通天閣の入場者数増加について、通天閣観光は「若い人が新世界に大阪らしい情緒を求めているのだろう」とコメントしている[32]

入場者の減少のほか、昭和40年代頃には役員の使い込みもあり[33]経営は悪化。このため、玄関の周囲にテナントを入れる[34]、役員報酬と不良社員を大幅に削減する[35]などの対策を実施。開業54年目の2010年(平成22年)6月30日、入場者数が累計3,500万人を突破した。

2010年代に入ってからは、日本屈指の高さを擁する超高層ビルや展望タワーが日本国内で営業を始めるたびに、便乗企画を次々と打ち出すことで通天閣自体への集客につなげている。初代通天閣からの開業100周年と東京スカイツリー(高さ634m)の営業開始が重なった2012年(平成24年)には、年間入場者数が史上3番目に多い132万人に到達[36][37]。地上約300mの58階~60階に展望台「ハルカス300」を設けたあべのハルカスが通天閣から徒歩15分圏内の大阪阿部野橋駅上に開業した2014年3月7日には、「ハルカス300」のグランドオープン(12時)以降の入場者に通常の展望料(大人1名700円)から半額以上安い300円で展望券を販売したところ、通常時の1.5倍もの入場者数を記録した[38]

特徴

通天閣観光株式会社
Tsutenkaku Kanko Co., Ltd.
種類 株式会社
本社所在地 556-0002
大阪府大阪市浪速区恵美須東一丁目18番6号
設立 1955年昭和30年)7月6日
業種 サービス業
法人番号 9120001039026 ウィキデータを編集
事業内容 『通天閣』展望塔の運営
代表者 西上 雅章(代表取締役社長)
資本金 1億500万円
発行済株式総数 21万株
売上高 5億5,678万2千円(2008年3月期)
営業利益 2億4,380万4千円(2008年3月期)
純利益 1億4,618万1千円(2008年3月期)
純資産 9億6,254万6千円
(2008年3月31日現在)
総資産 12億0,007万0千円
(2008年3月31日現在)
従業員数 11人(2008年3月31日現在)
決算期 3月31日
主要株主 高井 隆光 30.48%
西上 雅章 29.97%
西上 百合子 2.05%
外部リンク www.tsutenkaku.co.jp
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ビリケン像(2代目・1980年-2012年)

展望台

五階展望台
5階の展望台には、足の裏を撫でると幸運が訪れるという言い伝えがある幸運の神様「ビリケンBilliken)」の像が安置されている。これは新世界にかつて存在していた遊園地ルナパーク」が開業した1912年明治45年)当時、世界的に流行していたビリケンの像をルナパーク内に作られたビリケン堂に安置したのが始まりである。1923年大正12年)にルナパークが閉園した時期を境に、像の行方がわからなくなっていたが、1979年(昭和54年)、3階に「通天閣ふれあい広場」が作られたのを機に復元された。
2012年(平成24年)4月27日、初代から数えて通天閣の開業100周年を迎えるにあたり、5階展望台を金色に全面改装した「黄金展望台」が一般公開された。[39][40]。5月23日には、3代目ビリケン像(高さ60cm幅38cm奥行41cm、クスノキの一木彫)が設置された[41]

以前は、展望台からは見える風景や建造物を入場客に説明する目的で、展望ガラスに赤色のペンキで山や建造物の形と名前を描いていた。現在は、展望ガラス上部に掲げた写真などで説明している。

通天閣観光では、2010年(平成22年)10月から2012年(平成24年)9月30日まで、入場者向けの有料オプションサービスとして「通天閣スカイウォーク」(4階の展望台から非常階段経由で「喉仏」と呼ばれる地上約75m地点のキャットウォーク上を命綱・ガイド付きで歩行できるサービス)を実施(後述するネオン改修工事期間中は休止)[42]。あべのハルカスのグランドオープン以降は、地上約91mの展望台の窓から高さ300mのハルカスがきれいに見えることを、広報活動などで強調している[38]

屋外展望台(天望パラダイス)
平成27年12月25日から運用を開始した開放スペース型の展望台で、同年9月から約1億円で整備。五階展望台よりさらに上部(高さ94.5メートル)の屋上へ、全面強化ガラスを円形に貼り巡らせた[43][44][45][46]。営業時間は午前10時から午後6時までで、30分単位(先着順で定員30名)の入れ替え制を導入。入場するには、五階展望台内のカウンターで、1名当たり500円の追加料金をあらかじめ支払う必要がある。また、5歳未満の子どもが入場できないほか、荒天の場合には入場を制限。その一方で、入場者に無料で双眼鏡を貸し出すほか、家族連れやカップル向けの貸し切りサービスを随時実施する。

通天閣地下劇場

地下1階には、1968年(昭和43年)に、大小200の水槽を擁した水族館がオープン[47]。相応の人気を博したが、オイルショックの影響で水槽暖房用の灯油を調達できなくなった結果[47]、飼育していた魚類はコイやフナを残して壊滅[47]。1973年(昭和48年)10月に閉鎖を余儀なくされた[47]

1989年(平成元年)からは、地下1階に「通天閣地下劇場」を開設[48]。毎週土曜日日曜日には、「通天閣歌謡劇場」という名称で、松竹芸能演歌歌手の歌謡ショーを催していた。また、2001年(平成13年)までは、「通天閣囲碁将棋センター」を併設。映画やテレビドラマのロケにも使われた。

道頓堀にあったB1角座が閉鎖された2008年(平成20年)には、「通天閣地下劇場」というフロアの名称を7月3日から「STUDIO210(スタジオ・ニーイチマル)」に変更。歌謡ショーを「通天閣歌謡劇場」として月曜日に継続する一方で、土・日曜日には、「通天閣劇場 TENGEKI」と称して松竹芸能に所属する芸人による落語漫才の興行を催していた。

B1角座の跡地に「松竹芸能DAIHATSU MOVE道頓堀角座」が完成したことから、2013年6月29日開催の「TENGEKI」を最後に、松竹芸能が通天閣での演芸興行から撤退。「通天閣歌謡劇場」も、前日の公演で幕を閉じた。その後は、同年7月12日から9月8日まで、東映のおばけ屋敷『死ん世界』を開催。9月24日からの耐震補強改修工事を経て、12月20日に「通天閣わくわくランド」を開設した。展望券売場や低層エレベーターの乗降口を新設したり、「わくわくランド」に土産物売場や江崎グリコなどのアンテナショップを開設したりした関係で、「STUDIO210」は規模を縮小。入場者の待機スペースなどに転用されている。

前述の歌謡ショーについては、「通天閣歌謡劇場」の終了後も、近隣の地域にある複数の劇場などで定期的に続けられている。「歌謡劇場」の終了が発表された直後には、「新世界串かつ振興会」の斡旋で、近隣のビルや串カツ店にショーの拠点を新設することも計画されていた。しかし、消防法の規定や出資額などで折り合いが付かなかったため、いずれの計画も白紙に戻った[49]

なお、2015年12月23日には、「シアター朝日」が通天閣の南東地区に開場した。同年9月30日に閉館した映画館「新世界日活」を改装した多目的のレンタルホールで、歌謡ショーをはじめ、大衆演劇や落語会の開催にも対応している[50]

館内施設

  • 5階
  • 展望台(87.5m)
  • 黄金のビリケン神殿
    • 今宮戎神社を北西方向に望めることから、ビリケン像を囲む格好で、七福神のミニチュア木像を窓際へ1つの方角につき1体ずつ設置。ビリケン像と合わせて「八福神」と称するほか、全ての木像の下にスタンプを置いている。
    • ビリケン像を中心部の北側、「しゃべるビリケン像」(奈良県黒滝村産の木材を彫ったミニチュアのビリケン像)とサービスカウンター(「天望パラダイス」の受付など)を南側、ビリケン像にちなんだ非売品グッズのショーケースを西側に設置。ビリケン像の周囲では、写真を2枚撮影するサービスを実施するとともに、最初の1枚を組み込んだカードを無料で進呈している(残りの1枚は有料扱い・任意で購入)。
  • 4階
  • 展望台(84.0m)
    • 「夢をかなえるゾウ」という触れ込みで、ガネーシャ像を設置。
  • 3階
  • ルナパークジオラマ(旧「イベントホール」を改装、改装当初はガネーシャ像を設置)
  • 2階
  • キン肉マンミュージアム
  • ヂャンヂャン町(売店)
  • 5階展望台へのエレベーター乗り場
    • 以前は、ゲームコーナーや貸卓球台なども設置されていた。免震化工事の完了後は、免震装置の仕組みを解説するパネルや、装置のミニチュア模型を展示している。なお、通路は一方通行である。
  • 1階
  • 通天閣地下への入口(2ヶ所)
  • 「王将」碑(阪田三吉の偉業を称える像で脚部の西側に設置)
  • 地下1階
  • 通天閣わくわくランド(江崎グリコ・日清食品森永製菓のアンテナショップ)
  • STUDIO210
  • 展望券売り場
  • 2階へのエレベーター乗り場
  • 展望台のさらに上、テレビ中継室と呼ばれる部屋には放送用の機材は特になく、天井から「通天閣再建由来記」の入った茶壺がつり下げられていると言う[51]。由来記は巻物状であり、2012年現在は茶壺から出され、4階で展示されている[2]
  • 展望台の下、高さ75mの位置から長さ9mの鉄骨製の錘状突起(通称「喉仏」)が4方向に突き出ているが、これは季節やイベントに応じて万国旗鯉のぼりなどを吊り下げるためのアームに使われる。
天気予報のネオンサイン

この場合には、「晴時々曇」もしくは「晴後曇」を示す。なお、「天望パラダイス」は、ネオンの直下に位置する。

ネオンサイン

夜間は、黄金色と白色を基調とするネオンの光で塔全体が彩られ、さらに毎時0分になると、塔東側面にある大時計の文字盤が鮮やかなグラデーションで光る。ネオンはおよそ5年毎に模様替えされており、現在のものは12代目である。また、塔頂上には翌日の天気予報を4つの色の組み合わせで示すネオンサインが点灯する(晴=白、曇=橙、雨=青、雪=ピンク)。このネオンサインの装置は大阪管区気象台と専用回線で接続されており、そこからの情報に基づいて予報が表示される仕組みになっていて、1979年昭和54年)に日立製作所により制作、設置されたものである。

2006年(平成18年)に再建50周年を迎えるに当たり、改修工事が行われた。大時計の形が丸から八角形に変更されたほか、ネオンの色も変更され、より目立つようになった。

2011年(平成21年)7月からネオンサインの改修工事が進められ、今回の工事ではネオン管をLED管に変更して消費電力を抑えつつ多彩なイルミネーション(4色から6色に変更)を実現した。同年10月28日より点灯。

行事

毎年末には、恒例イベントとして「干支の引き継ぎ式」が執り行われている[52][53]

毎年2月には、「大阪府民・大阪市民の繁栄と幸福」を祈願する「節分福豆まき」も恒例行事として行われている。

開業100周年を記念して、通天閣史上初のオフィシャルバンド『通天交響楽団イーゼル芸術工房)』が結成された。引退となった2代目のビリケン像は『通天交響楽団イーゼル芸術工房)』のメンバーとして加入した。

営業状況

入場料

いずれも2015年9月時点

  • 大人700円
  • 大学生500円
  • 高校生400円
  • 小学生300円
  • 幼児(満5歳以上)300円

営業時間

  • 9:00-21:00(入場は20:30まで)
  • 年中無休

初代通天閣

1903年明治36年)に開催された第5回内国勧業博覧会の会場跡地に、パリ凱旋門エッフェル塔の上半分を乗せたような初代通天閣が1912年明治45年)7月3日ルナパークと共に建設された[7]。設計は設楽貞雄。建設費用は約9万7000円で、当為の入場料は10銭。300尺(91メートル)という触れ込み(実際は250尺/約75メートル[55][56])で、その当時東洋一の高さを誇っていた。通天閣は、ルナパークと「ロープ・ウエィ」で結ばれており、人々に親しまれていた。大阪で2番目(非貨物専用としては最初)の昇降機が設置され評判となった。現在の二代目と同じように塔側面に巨大ネオン広告があった時期があり(1920年大正9年)に導入)、当時の広告は「ライオン歯磨」であった[57](後に阪神電車の広告も加わる)。

通天閣の電灯工事には当時大阪電灯に勤務していた松下幸之助(後にパナソニック創業者、当時17歳)が配線工として参加している。

吉本興業に買収された後、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)1月16日に直下にあった映画館・大橋座の火災で通天閣の脚部が加熱により強度不足となる。そのため、鉄材を軍需資材として大阪府に「献納」するという名目で同年2月13日から塔は解体され、初代通天閣は姿を消した。なお終戦後赤錆となった残骸が明石市の浜辺で見つかっている。

通天閣が登場する作品

大阪を代表する施設として、大阪を舞台にした様々な作品の舞台で使われている。

映画
Vシネマ
ゲーム
テレビドラマ
テレビアニメ
小説
漫画
音楽
ミュージックビデオ

通天閣がニックネームとして登場するケース

  • マンガ『ドカベン』の登場人物・坂田三吉は投球を天高く放物線を描く「通天閣投法」や「通天閣打法」「通天閣捕球」など一連の秘技にこの塔の名を関している(ちなみに坂田は「通天閣高校」という架空の高校の出身という設定)。
  • 女子プロレスラーダイナマイト・関西は、ジャンピング系パワーボムの一種である「スプラッシュマウンテン」をフィニッシュホールドとして確立する以前、スプラッシュマウンテンと同様の体勢からジャンプせずに投げっぱなし式パワーボムを打つ技を「通天閣スペシャル」と称してフィニッシュホールドに用いていた。
  • 2013年後期のNHK連続テレビ小説ごちそうさん』の登場人物・西門悠太郎(演:東出昌大)は大阪弁を話すことと主人公・め以子(演:)を上回る長身から「通天閣」と言うあだ名を付けられた。

アクセス

脚注

注釈
  1. ^ 『通天閣 人と街の物語』 p.17によれば、天王寺公園に再建する話もあったという。
  2. ^ 初代通天閣に広告を出していたライオンに広告を打診したが、こちらは断られてしまった(『通天閣 人と街の物語』 p.54)。なお、当時の契約は300万円の10年契約(p.55)。
出典
  1. ^ 2007年(平成19年)5月29日文部科学省告示第89号「文化財を登録有形文化財に登録する件」
  2. ^ a b c d e f g h i j 通天閣基本データ”. 通天閣観光. 2012年6月8日閲覧。
  3. ^ a b 『通天閣 人と街のものがたり』 p.140
  4. ^ 耐震化工事前の2012年に奥村組が実施した耐震診断で判明。
  5. ^ a b c d e なにわのシンボル「通天閣」、世界初の展望塔免震化(1)(『日経コンストラクション2015年2月24日付記事)
  6. ^ a b c d e f 『通天閣 人と街の物語』 p.15 「3.笑い話みたいな夢 形に」
  7. ^ a b 『通天閣 人と街のものがたり』 p.141
  8. ^ 初代通天閣を建設した大阪土地建物の社長だった土居通夫の名前を入れる意図も含まれているとされる(公式サイト「資料館」参照)
  9. ^ a b 竹中工務店2016年度新卒採用サイト プロジェクト・ストーリー「通天閣耐震改修」
  10. ^ a b なにわのシンボル「通天閣」、世界初の展望塔免震化(2)(『日経コンストラクション』2015年2月24日付記事)
  11. ^ 通天閣館内案内「通天閣わくわくランド」
  12. ^ a b c d 『通天閣 人と街の物語』 p.9 「2.図面広げ『ほな進めよか』」
  13. ^ a b 『通天閣 人と街の物語』 p.20 「4.開業 気分は『七人の侍』」
  14. ^ 『通天閣 人と街のものがたり』 p.102
  15. ^ a b 『通天閣 人と街のものがたり』 p.55
  16. ^ ネオンの歴史”. 通天閣観光. 2012年6月8日閲覧。 - 1957年および1970年の箇所。
  17. ^ ネオンの歴史”. 通天閣観光. 2012年6月8日閲覧。 - 1957年の箇所。
  18. ^ ネオンの歴史”. 通天閣観光. 2015年9月15日閲覧。 - 1967年・1983年・1988年の箇所。
  19. ^ ネオンの歴史”. 通天閣観光. 2015年9月15日閲覧。 - 1970年の箇所。
  20. ^ 「亀の子マーク」は2016年現在も日立製作所の社章として使われ、同社の社債や公式ホームページのアイコンなどで使われている。
  21. ^ ネオンの歴史”. 通天閣観光. 2015年9月15日閲覧。 - 2001年の箇所。
  22. ^ ネオンの歴史”. 通天閣観光. 2015年9月15日閲覧。 - 1974年・1976年・1979年の箇所。
  23. ^ ネオンの歴史”. 通天閣観光. 2012年6月8日閲覧。 - 1979年の箇所。
  24. ^ 節電運動の一環としてライトダウンキャンペーンに参加 通天閣LED・ネオン広告の消灯(日立グループ2013年6月19日付プレスリリース)
  25. ^ 大阪市男女いきいき財団「大阪ピンクリボンキャンペーン」
  26. ^ 大阪のシンボル「通天閣」がイエローに!!(阪神タイガース公式サイト2015年3月5日付球団イベントニュース)
  27. ^ 『通天閣 人と街のものがたり』 p.101、p.103
  28. ^ a b 耐震を免震に 大阪・通天閣の工事完了で天井画も復刻(『THE PAGE』2015年7月3日付記事)
  29. ^ 登録有形文化財「通天閣」の改修工事が完了~なにわのシンボル「通天閣」を免震展望タワーに~(竹中工務店2015年5月25日付プレスリリース)
  30. ^ a b c d クラブコスメチックス「通天閣天井画復刻計画」
  31. ^ 『通天閣 人と街の物語』 p.35。pp.37-39によれば、エレベーターだけでは入場者を捌ききれず、非常階段を利用していたという。
  32. ^ 朝日新聞(2008年3月29日付)[リンク切れ]
  33. ^ 『通天閣 人と街のものがたり』 p.88
  34. ^ 『通天閣 人と街のものがたり』 pp.92-93
  35. ^ 『通天閣 人と街のものがたり』 pp.94-95
  36. ^ 日本一の超高層ビル「あべのハルカス」に、なぜか通天閣が宣戦布告(『週刊プレイボーイ2014年3月14日付記事)
  37. ^ ちゃっかり便乗、100周年の通天閣 スカイツリー開業(『朝日新聞2012年5月22日付記事)
  38. ^ a b 通天閣から"あべのハルカス"「キレイに見えるで~!」300円均一で1.5倍来場(『マイナビニュース2014年3月8日付記事)
  39. ^ 新世界・通天閣100周年に向けて「黄金の展望台」堂々完成!:公式サイト2012年4月23日
  40. ^ 通天閣:改装 天空の黄金茶室:毎日新聞2012年4月27日
  41. ^ 金髪の3代目ビリケン登場 通天閣で32年ぶり交代スポニチ 2012年5月23日
  42. ^ 通天閣スカイウォークSTAFFブログ
  43. ^ 通天閣に屋外型の新展望台「天望パラダイス」 プロポーズなどで貸し切りも
  44. ^ 申年へ視界良好…通天閣“オープン展望台”が営業スタート
  45. ^ 「あれが六甲山、大阪城も」 新展望台オープン
  46. ^ 通天閣 屋外展望台オープン
  47. ^ a b c d 『通天閣 人と街のものがたり』 p.58「11.社員4人"即席飼育員"」
  48. ^ 通天閣地下劇場、24年の歴史に幕 近隣で存続目指す(『日本経済新聞2013年6月29日付記事)
  49. ^ 「通天閣劇場」閉鎖1年で歌姫、観客はどう流れたか、「新世界の歌手」へのこだわりも…「叶麗子」らはどこに? 「なにわの演歌・歌謡地図」激変(『産経WEST2014年7月6日付記事)
  50. ^ 新世界に新劇場「シアター朝日」 昭和歌謡歌うアイドル「あさひめ」も誕生(『あべの経済新聞』2015年12月21日付記事)
  51. ^ 『通天閣 人と街のものがたり』 pp.137-138
  52. ^ 別冊 通天閣ニュース 新しい年の幸せを願う第56回 通天閣恒例「干支の引き継ぎ式」が行われました!”. 通天閣観光. 2012年6月8日閲覧。
  53. ^ 『通天閣 人と街のものがたり』 p.63「12.ご対面ハプニング続き」
  54. ^ 通天閣公式サイト 営業案内・料金
  55. ^ 初代通天閣 交通科学博物館
  56. ^ NHKプロジェクトX制作班『プロジェクトX 挑戦者たち〈12〉起死回生の突破口』日本放送出版協会 ISBN 978-4140806807、NHK「プロジェクトX」制作班 『プロジェクトX 挑戦者たち 起死回生の突破口 通天閣 熱き7人/商店主と塔博士の挑戦』日本放送出版協会 電子書籍参考
  57. ^ 『通天閣 人と街の物語』 p.52

文献

参考文献
  • 読売新聞大阪本社社会部(編)、2002、『通天閣 人と街のものがたり』、新風書房 ISBN 4882695081
関連文献

外部リンク

座標: 北緯34度39分9.13秒 東経135度30分22.77秒 / 北緯34.6525361度 東経135.5063250度 / 34.6525361; 135.5063250 (通天閣){{#coordinates:}}: 各ページで primary のタグは複数指定できません