「醍醐の花見」の版間の差分
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== 参考文献・外部リンク == |
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*高柳光寿「醍醐花見の和歌の作者に就いて」(『史学雑誌』31編9・10号、1920年) |
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*[http://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/index.html 「醍醐の花見」]([http://www.daigoji.or.jp/archives/index.html 醍醐寺文化財アーカイブス]) |
*[http://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/index.html 「醍醐の花見」]([http://www.daigoji.or.jp/archives/index.html 醍醐寺文化財アーカイブス]) |
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*[http://www.daigoji.or.jp/flowers/flowers_detail1.html 「醍醐寺の桜」]・[http://www.daigoji.or.jp/events/events_detail2.html 「豊太閤花見行列」]([http://www.daigoji.or.jp/index.html 世界遺産 京都 醍醐寺]) |
*[http://www.daigoji.or.jp/flowers/flowers_detail1.html 「醍醐寺の桜」]・[http://www.daigoji.or.jp/events/events_detail2.html 「豊太閤花見行列」]([http://www.daigoji.or.jp/index.html 世界遺産 京都 醍醐寺]) |
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*[http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/190826/1 紙本著色醍醐花見図] 文化遺産オンライン |
*[http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/190826/1 紙本著色醍醐花見図] 文化遺産オンライン |
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== 関連項目 == |
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*[[文禄・慶長の役]] |
*[[文禄・慶長の役]] |
2016年3月1日 (火) 02:01時点における版
醍醐の花見(だいごのはなみ)とは、慶長3年3月15日(1598年4月20日)、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した花見の宴。
概要
豊臣秀頼・北政所・淀殿ら近親の者を初めとして、諸大名からその配下の女房女中衆約1300人を召し従えた盛大な催しで、九州平定直後に催された北野大茶湯と双璧を成す秀吉一世一代の催し物として知られる。
記録に残るその日の輿の順は、1番目に北政所、2番目に西の丸殿(淀殿)、3番目に松の丸殿、4番目に三の丸殿、5番目に加賀殿、その後に側室ではない前田利家正室・まつが続いた。宴会の席では、正室である北政所の次に杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争い、北政所とは家族ぐるみの長い付き合いのまつが「歳の順から言えばこの私。」と、申し出て(まつは家臣筋といえど、この席では客人。客人をほうって於いて身内で順争いをするものではない為)その場をうまく取りおさめたという話が伝わっている。
諸大名は伏見城から醍醐寺までの沿道の警備や、会場に設営された八つ[1]の路地茶屋[2](パビリオン)の運営などにはあたったが、花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には唯一前田利家の名が見えるのみである。この花見で詠まれた和歌の短冊は今も三宝院に保管されている。
応仁・文明の乱のあと荒れ果てていた醍醐寺を復興した中興の祖、第80代座主である義演准后は、秀吉の帰依を得て良好な関係を築いていたが、秀吉の最期が近いことを感じ取り、一代の華麗な英雄の最後にふさわしい大舞台をしつらえるために、あちこちにそれとなく手配をしてこの醍醐の花見を実現させたともいう。秀吉はこの約5か月後に没した。
古今東西の多彩な献上品や興行が供せられる一方で、諸大名のあいだではすでに秀吉亡き後の政権のあり方について、陰に陽にさまざまな駆け引きや腹の探りあいがあったという。
醍醐寺では、現在でもこれにちなんで毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」を催している。
内容
- 招待客は約1,300人[3]。
- 花見の責任者に奉行の前田玄以を任命し、秀吉自ら下見のために醍醐寺へ足繁く通い、殿舎の造営や庭園の改修を指揮し、醍醐山の山腹にいたるまで、伽藍全体に700本の桜を植樹した[3]。
- 場内には8か所の茶屋が設けられ、茶会や歌会が催されたほか、湯殿のある茶屋もあった[3]。
- 参加した女性たちには2回の衣装替えが命じられ、一人3着ずつ着物が新調され、衣装代だけで2015年現在の39億円に相当する金額がかかった[4]。
- 後年に制作された「醍醐花見図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)には花見の想像図が描かれている。
脚注
- ^ 一番は益田少将(照従?)、まず一献をすすめる。二番は新庄維斎、松杉の下蔭にて茶を献じる。三番は小川土佐守、傀儡などの催しあり。四番は増田右衛門尉、行水、午餐。設備に美をつくす。五番は前田徳善院。六番は長束大蔵大輔、晩におよび御膳の支度あり:ここで装束をかえ和歌の会。七番は御牧勘兵衛(景則)。八番は新庄東玉
- ^ 山田孝雄 山田忠雄 校訳 『櫻史』 講談社学術文庫 ISBN 4061589164、221p。
和歌の会で詠まれた短冊が国宝となった、という記述があるがこれは誤りで、国指定の重要文化財である。醍醐寺 文化財アーカイブス - ^ a b c 日本の食文化と偉人たち豊臣秀吉 太閤秀吉が演出した空前絶後の醍醐の花見キリン食生活文化研究所
- ^ 『歴史ヒストリア』日本人と桜の物語、NHK, 2015年3月25日
参考文献・外部リンク
- 高柳光寿「醍醐花見の和歌の作者に就いて」(『史学雑誌』31編9・10号、1920年)
- 「醍醐の花見」(醍醐寺文化財アーカイブス)
- 「醍醐寺の桜」・「豊太閤花見行列」(世界遺産 京都 醍醐寺)
- 紙本著色醍醐花見図 文化遺産オンライン