「神戸海軍操練所」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
[[ファイル:A monument of Kobe Naval Training Center 001.JPG|thumb|250px|海軍操練所跡碑]]
[[ファイル:A monument of Kobe Naval Training Center 001.JPG|thumb|250px|海軍操練所跡碑]]
'''神戸海軍操練所'''(こうべかいぐんそうれんじょ)は、[[江戸時代]]の[[1864年]]([[元治]]1年)5月に、[[軍艦奉行]]の[[勝海舟]]の建言により幕府が[[神戸市|神戸]]に設置した[[海軍士官]]養成機関、[[海軍工廠]]である。現在の神戸市中央区新港町周辺にあった。京橋筋南詰には神戸海軍操練所跡碑がある。
'''神戸海軍操練所'''(こうべかいぐんそうれんじょ)は、[[江戸時代]]の[[元治]]([[1864年]])5月に、[[江戸幕府]][[軍艦奉行]]の[[勝海舟]]の建言により幕府が[[神戸市|神戸]]に設置した[[海軍士官]]養成機関、[[海軍工廠]]である。現在の神戸市[[中央区 (神戸市)|中央区]][[新港町 (神戸市)|新港町]]周辺にあった。京橋筋南詰には神戸海軍操練所跡碑がある。


== 概要 ==
== 概要 ==
攘夷論の高揚とともに摂海(大阪湾)の防備が重要視され、文久3年幕府は兵庫や西宮に砲台の築造を決定。
[[攘夷論]]の高揚とに摂海([[大阪湾]])の防備が重要視され、文久3年([[1863年]])に幕府は兵庫や西宮に砲台の築造を決定。その指導を任された勝海舟は、同年4月(1863年6月)に14代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家茂]]の大阪湾巡視に随行し、[[生田川]]河口(神戸村内)に上陸。家茂から直々に、この場所に海軍の操練局開設の許可を得た
その指導を任された勝海舟は、その年の4月(1863年6月)将軍家茂の大阪湾巡視に随行し、生田川河口(神戸村内)に上陸。
将軍から直々に、この場所に海軍の操練局開設の許可を得た。海舟は、従来の幕府や諸藩の垣根を越えた日本の「一大共有の海局」を作りあげるという壮大な構想を抱いていた。
操練所の施設は、二ッ茶屋(ふたつぢゃや)村の網屋吉兵衛が築造した船たで場(虫害や腐食を防ぐため、船底を焼く施設)を利用し、文久4年(1864)2月には外周の土手を除いて竣工した(この年2月20日元治に改元)総坪数は万7,137坪(約5.7ha)
のちに、この敷地を取り込んで外国人居留地が建設されることになる。


海舟は、従来の幕府や諸藩の垣根を越えた日本の「一大共有の海局」を作りあげるという壮大な構想を抱いていた。操練所の施設は、二ッ茶屋ふたつぢゃや村の網屋吉兵衛が築造した船たで場(虫害や腐食を防ぐため、船底を焼く施設)を利用し、文久4年(1864年)2月には外周の土手を除いて竣工した(この年2月20日元治に改元)総坪数は1万7,137坪(約5.7ha)で、後にこの敷地を取り込んで外国人居留地が建設されることになる。
幕臣でありながら幕府の瓦解を予見していたの元には、倒幕派の志士も多く集っていた。この操練所が神戸に出来て以後、漁村であった神戸は[[港町]]としての成長を見せ始めるようになる。それを見越していたは、地元で自分の世話をしてくれた者に「今のうちに土地を買っておくがいい」と助言したところ、見事に地価が高騰し、その者は大きな利益をあげたというエピソードがある。


幕臣でありながら幕府の瓦解を予見していた海舟の元には、倒幕派の志士も多く集っていた。この操練所が神戸に出来て以後、漁村であった神戸は[[港町]]としての成長を見せ始めるようになる。それを見越していた海舟は、地元で自分の世話をしてくれた者に「今のうちに土地を買っておくがいい」と助言したところ、見事に地価が高騰し、その者は大きな利益をあげたというエピソードがある。
しかし、[[八月十八日の政変]]で失脚した[[長州藩]]が[[京都]]へ進攻した[[禁門の変]]の責を問われては軍艦奉行を罷免される。さらに土佐脱藩浪士や長州に同情的な意見を持つ生徒が多かったこの操練所は、幕府の機関でありながら反幕府的な色合いが濃いとして翌年[[1865年]]に閉鎖された。


しかし、[[八月十八日の政変]]で失脚した[[長州藩]]が[[京都]]へ進攻した[[禁門の変]]の責を問われて海舟は軍艦奉行を罷免される。さらに[[土佐藩]]脱藩浪士や長州に同情的な意見を持つ生徒が多かったこの操練所は、幕府の機関でありながら反幕府的な色合いが濃いとして翌[[慶応]]元[[1865年]]に閉鎖された。
ちなみに、神戸海軍操練所と海舟個人の私塾は別物として考えねばならないという説が[[松浦玲]]や[[篠原宏]]といった研究者から出されている。

ちなみに、操練所と海舟個人の私塾は別物として考えねばならないという説が[[松浦玲]]や[[篠原宏]]といった研究者から出されている。


== 主な塾生 ==
== 主な塾生 ==
*[[坂本龍馬]]:塾頭。[[勝海舟]]に見出され操船術を学ぶ(勝海舟『[[氷川清話]]』)。脱藩後の活動の舞台であった操練所の閉鎖と、師であるの罷免はを失望させ、これ以後倒幕運動に本腰を入れ始める。操練所解散後は、ここでの経験を生かし[[亀山社中]]を結成する(ただしこれに対して、龍馬は神戸海軍操練所には入れず、海舟個人の私塾の塾頭でもなまた、勝海舟の私塾を取り仕切っていたのは龍馬ではなく[[佐藤与之助]]であったとする説もある<ref>[[松浦玲]]『坂本龍馬』岩波書店<岩波新書1159>、2008年、「はじめに」viii頁、32~33頁。</ref>。)
*[[坂本龍馬]]:塾頭。海舟に見出され操船術を学ぶ(勝海舟『[[氷川清話]]』)。脱藩後の活動の舞台であった操練所の閉鎖と、師である海舟の罷免は龍馬を失望させ、これ以後倒幕運動に本腰を入れ始める。操練所解散後は、ここでの経験を生かし[[亀山社中]]を結成する(ただしこれに対して、龍馬は神戸海軍操練所には入れず、海舟個人の私塾の塾頭でもない上、海舟の私塾を取り仕切っていたのは龍馬ではなく[[佐藤政養]](与之助であったとする説もある<ref>[[松浦玲]]『坂本龍馬』岩波書店<岩波新書1159>、2008年、「はじめに」viii頁、32~33頁。</ref>。)
*[[陸奥宗光]]:坂本の引き立てによって副長格となる。龍馬の秘書的な役割を担った。後の[[日清戦争]]時[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]。
*[[陸奥宗光]]:龍馬の引き立てによって副長格となる。龍馬の秘書的な役割を担った。後の[[日清戦争]]時に[[第2次伊藤内閣]]の[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]。
*[[伊東祐亨]]:[[薩摩藩]]出身。後に初代[[連合艦隊司令長官]]となり、[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]の指揮をとる。
*[[伊東祐亨]]:[[薩摩藩]]出身。後に初代[[連合艦隊司令長官]]となり、[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]の指揮をとる。
*[[北添佶摩]]・[[望月亀弥太]]:[[土佐藩|土佐]]脱藩。坂本の制止を振り切り[[池田屋事件]]に関与。これが元で海舟の立場が悪くなったとも言える。
*[[北添佶摩]]・[[望月亀弥太]]:土佐脱藩。龍馬の制止を振り切り[[池田屋事件]]に関与。これが元で海舟の立場が悪くなったとも言える。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2015年12月26日 (土) 14:03時点における版

海軍操練所跡碑

神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)は、江戸時代元治元(1864年)5月に、江戸幕府軍艦奉行勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関、海軍工廠である。現在の神戸市中央区新港町周辺にあった。京橋筋南詰には神戸海軍操練所跡碑がある。

概要

攘夷論の高揚と共に摂海(大阪湾)の防備が重要視され、文久3年(1863年)に幕府は兵庫や西宮に砲台の築造を決定。その指導を任された勝海舟は、同年4月(1863年6月)に14代将軍徳川家茂の大阪湾巡視に随行し、生田川河口(神戸村内)に上陸。家茂から直々に、この場所に海軍の操練局開設の許可を得た。

海舟は、従来の幕府や諸藩の垣根を越えた日本の「一大共有の海局」を作りあげるという壮大な構想を抱いていた。操練所の施設は、二ッ茶屋(ふたつぢゃや)村の網屋吉兵衛が築造した船たで場(虫害や腐食を防ぐため、船底を焼く施設)を利用し、翌文久4年(1864年)2月には外周の土手を除いて竣工した(この年2月20日元治に改元)。総坪数は1万7,137坪(約5.7ha)で、後にこの敷地を取り込んで外国人居留地が建設されることになる。

幕臣でありながら幕府の瓦解を予見していた海舟の元には、倒幕派の志士も多く集っていた。この操練所が神戸に出来て以後、漁村であった神戸は港町としての成長を見せ始めるようになる。それを見越していた海舟は、地元で自分の世話をしてくれた者に「今のうちに土地を買っておくがいい」と助言したところ、見事に地価が高騰し、その者は大きな利益をあげたというエピソードがある。

しかし、八月十八日の政変で失脚した長州藩京都へ進攻した禁門の変の責を問われて海舟は軍艦奉行を罷免される。さらに土佐藩脱藩浪士や長州藩に同情的な意見を持つ生徒が多かったこの操練所は、幕府の機関でありながら反幕府的な色合いが濃いとして翌慶応元年(1865年)に閉鎖された。

ちなみに、操練所と海舟個人の私塾は別物として考えねばならないという説が松浦玲篠原宏といった研究者から出されている。

主な塾生

  • 坂本龍馬:塾頭。海舟に見出され操船術を学ぶ(勝海舟『氷川清話』)。脱藩後の活動の舞台であった操練所の閉鎖と、師である海舟の罷免は龍馬を失望させ、これ以後倒幕運動に本腰を入れ始める。操練所解散後は、ここでの経験を生かし亀山社中を結成する(ただしこれに対して、龍馬は神戸海軍操練所には入れず、海舟個人の私塾の塾頭でもない上、海舟の私塾を取り仕切っていたのは龍馬ではなく佐藤政養(与之助)であったとする説もある[1]。)
  • 陸奥宗光:龍馬の引き立てによって副長格となる。龍馬の秘書的な役割を担った。後の日清戦争時に第2次伊藤内閣外務大臣
  • 伊東祐亨薩摩藩出身。後に初代連合艦隊司令長官となり、黄海海戦の指揮をとる。
  • 北添佶摩望月亀弥太:土佐脱藩。龍馬の制止を振り切り池田屋事件に関与。これが元で海舟の立場が悪くなったとも言える。

脚注

  1. ^ 松浦玲『坂本龍馬』岩波書店<岩波新書1159>、2008年、「はじめに」viii頁、32~33頁。

関連項目

座標: 北緯34度41分08.75秒 東経135度11分36.54秒 / 北緯34.6857639度 東経135.1934833度 / 34.6857639; 135.1934833