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[[1851年]]、ヘルメスベルガーはウィーン国立音楽大学のヴァイオリン科教授に就任、[[ウィーン楽友協会]]の演奏会の芸術監督及び指揮者、そしてウィーン国立音楽大学の学長に就任した。[[1859年]]にこれらの役職が分離されると、ヘルメスベルガーは大学の学長を務め、演奏会の指揮者は[[ヨハン・ヘルベック]]が担当した。[[1860年]]、彼は宮廷オペラ管弦楽団の[[コンサートマスター]]に就任し、ウィーンの音楽界では他にもさまざまな役職をこなした。教授職からは[[1877年]]に退いたヘルメスベルガーであったが、学長職には没するまで留まった。彼はウィーンで生涯を終えている。
[[1851年]]、ヘルメスベルガーはウィーン国立音楽大学のヴァイオリン科教授に就任、[[ウィーン楽友協会]]の演奏会の芸術監督及び指揮者、そしてウィーン国立音楽大学の学長に就任した。[[1859年]]にこれらの役職が分離されると、ヘルメスベルガーは大学の学長を務め、演奏会の指揮者は[[ヨハン・ヘルベック]]が担当した。[[1860年]]、彼は宮廷オペラ管弦楽団の[[コンサートマスター]]に就任し、ウィーンの音楽界では他にもさまざまな役職をこなした。教授職からは[[1877年]]に退いたヘルメスベルガーであったが、学長職には没するまで留まった。彼はウィーンで生涯を終えている。


ヘルメスベルガーは[[1849年]]に[[ヘルメスベルガー四重奏団]]を設立しており、同団体には後に第2ヴァイオリンとして息子のヨーゼフ2世が加わっている。彼は[[1887年]]になるとヨーゼフ2世に楽団の統括と首席奏者の座を譲り渡した。
ヘルメスベルガーは[[1849年]]に{{仮リンク|ヘルメスベルガー四重奏団|en|Hellmesberger_Quartet}}を設立しており、同団体には後に第2ヴァイオリンとして息子のヨーゼフ2世が加わっている。彼は[[1887年]]になるとヨーゼフ2世に楽団の統括と首席奏者の座を譲り渡した。


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==

2015年11月23日 (月) 11:56時点における版

ヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世
Josef Hellmesberger, Sr.
基本情報
生誕 1828年11月3日
オーストリア帝国の旗 オーストリア帝国 ウィーン
死没 (1893-10-24) 1893年10月24日(64歳没)
オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国 ウィーン
ジャンル クラシック
職業 ヴァイオリニスト指揮者作曲家

ヨーゼフ・ヘルメスベルガー1世Josef Hellmesberger, Sr. 1828年11月3日 - 1893年10月24日)は、オーストリアヴァイオリニスト指揮者作曲家

生涯

ヘルメスベルガーはウィーンに生まれた。父は音楽家、教育者のゲオルク1世であり、彼はウィーン国立音楽大学において父からヴァイオリンの指導を受けた。彼の家庭は音楽一家であり、弟にはゲオルク2世、息子にはヨーゼフ2世フェルディナントがいる。

1851年、ヘルメスベルガーはウィーン国立音楽大学のヴァイオリン科教授に就任、ウィーン楽友協会の演奏会の芸術監督及び指揮者、そしてウィーン国立音楽大学の学長に就任した。1859年にこれらの役職が分離されると、ヘルメスベルガーは大学の学長を務め、演奏会の指揮者はヨハン・ヘルベックが担当した。1860年、彼は宮廷オペラ管弦楽団のコンサートマスターに就任し、ウィーンの音楽界では他にもさまざまな役職をこなした。教授職からは1877年に退いたヘルメスベルガーであったが、学長職には没するまで留まった。彼はウィーンで生涯を終えている。

ヘルメスベルガーは1849年ヘルメスベルガー四重奏団を設立しており、同団体には後に第2ヴァイオリンとして息子のヨーゼフ2世が加わっている。彼は1887年になるとヨーゼフ2世に楽団の統括と首席奏者の座を譲り渡した。

参考文献

外部リンク