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'''月軌道ランデブー'''は有人で月着陸し、地球に帰ってくるための構想概念であり、[[アポロ計画]]で1960年代と1970年代に初めて実用化された。月軌道ランデブーの計画では、[[アポロ司令・機械船]]のようなメインの[[宇宙船]]とそれに比べて小さい[[アポロ月着陸船]]のような月着陸船が一緒になって[[月軌道]]に入る。それからメインの宇宙船が月軌道にいる間に、月着陸船は独立して月表面に降りていく。 月での計画が完了した後、月着陸船は[[ランデブー]]するために月軌道に戻り、再びメインの宇宙船と[[ドッキング]]し、それから乗組員と観測機器を移動させた後、捨てられる。メインの宇宙船だけが地球に戻ってくる。
'''月軌道ランデブー'''は有人で月着陸し、地球に帰ってくるための構想概念であり、[[アポロ計画]]で1960年代と1970年代に初めて実用化された。月軌道ランデブーの計画では、[[アポロ司令・機械船]]のようなメインの[[宇宙船]]とそれに比べて小さい[[アポロ月着陸船]]のような月着陸船が一緒になって[[月軌道]]に入る。それからメインの宇宙船が月軌道にいる間に、月着陸船は独立して月表面に降りていく。 月での計画が完了した後、月着陸船は[[ランデブー]]するために月軌道に戻り、再びメインの宇宙船と[[ドッキング]]し、それから乗組員と観測機器を移動させた後、捨てられる。メインの宇宙船だけが地球に戻ってくる。



2015年11月14日 (土) 00:57時点における版

アポロ11号 月着陸船が月の軌道上で司令・機械船とランデブーをしている様子

月軌道ランデブーは有人で月着陸し、地球に帰ってくるための構想概念であり、アポロ計画で1960年代と1970年代に初めて実用化された。月軌道ランデブーの計画では、アポロ司令・機械船のようなメインの宇宙船とそれに比べて小さいアポロ月着陸船のような月着陸船が一緒になって月軌道に入る。それからメインの宇宙船が月軌道にいる間に、月着陸船は独立して月表面に降りていく。 月での計画が完了した後、月着陸船はランデブーするために月軌道に戻り、再びメインの宇宙船とドッキングし、それから乗組員と観測機器を移動させた後、捨てられる。メインの宇宙船だけが地球に戻ってくる。

月軌道ランデブーは1916年にウクライナのロケット理論家ユーリイ・コンドラチュクによって提唱されたことで、初めて知られることとなった。1961年に、NASAがジョン・F・ケネディ大統領の、1960年代の終わりまでに最初の月着陸を達成するという目標を受けて実際に作業を始めた。その際、月軌道ランデブーはトム・ドランによって提案され、ジョン・フーボルトによって擁護された。しかし、ランデブーは一度も行われたことがなかったので、問題があり、実用的でなく、そしておそらく危険だと考えられていた。だが、フーボルトの粘りが報われNASAの上官たちを納得させ、長官であるジェームズ・ウェッブは1962年の7月にアポロは月軌道ランデブーを使用すると公に発表した。そのときでさえ、ケネディの科学アドバイザーのジェローム・ウィーズナーはこの方法に反対し続け、公然とウェッブを批判した。[1] 歴史が証明したように、他の着陸の方法は提案されなかった。月軌道ランデブーは機能し、NASAは月着陸の計画において1回毎にサターンVのみを使用した。

アポロ計画の方式の選択

月の重力井戸の図、 帰還のための資源が、「井戸」におろしてから引き上げる必要がなければどれくらいで済むか

月軌道ランデブーは1919年にウクライナソビエト連邦の技術者であるユーリイ・コンドラチュクによって[2]最も効率的な有人月着陸の方法として提案された。[1]

1961年にアポロの月着陸計画が始まったとき、三人の宇宙飛行士の乗ったアポロ司令・機械船が月の表面から離陸し、地球に戻ってくることに使われると想定されていた。したがって月には着陸のためのギア付きの足がついている大きなロケットのステージで着陸しなければならないとされ、結果として45000kgを超えるほどのとても巨大な宇宙船を月に送らなくてはならなかった。

もしこれが1基の打ち上げロケットにおける直接上昇によってなされたならば、そのロケットはノヴァロケットクラスまで極端に大きくなる必要がある。 これの代案として2つもしくはそれより大きいサターンロケットクラスのロケットがそれぞれ宇宙船の一部を打ち上げ、月に向かう前に地球の軌道で集合する、地球軌道ランデブーがあった。これは別個に地球離脱ステージを打ち上げなければならない可能性、または軌道上で燃料の入っていないロケットのステージに燃料を再注入する必要があった。

トム・ドラン[3]は、代案として月軌道ランデブーを提案していたが、これはスペース・タスク・グループのジム・チェンバレンとオーウェン・メイナードが、1960年代初頭においてアポロ計画として実現可能であると考え、研究していたものであった。[4]この方式では1つのサターンVがアポロ司令・機械船をそれよりも小さいアポロ月着陸船とともに発射できた。一体となった宇宙船が月軌道に到達したとき、3人の宇宙飛行士のうち2人は月着陸船に乗り込み、ドッキングを解除して月の表面におりる。その間残りの1人は、司令・機械船にとどまる。それから月着陸船の上昇するステージを使って月軌道上の司令・機械船に再び接続し、月着陸船を捨て、司令・機械船によって地球に戻ってくる。この方法はラングレー研究所の技術者であり、月軌道ランデブーを発展させるためのチームを率いていたジョン・フーボルトが売り込んだため、NASAの副長官であるロバート・シーマンズが関心をもっていた。

利点

初期のラングレーの研究による月着陸船の比較

月軌道ランデブーの主な利点は月軌道から地球に戻ってくるのに必要な推進燃料を、月に着陸し、月軌道に戻ってくる際に不必要な荷重として運ぶ必要がないため、宇宙船の総重量の節約ができることである。本来不必要な荷重である、後で使われる推進燃料を搭載すると、その重量のために、はじめにより多くの燃料によって推進燃料を運ばなければない。同様に増加した推進燃料がさらなるタンクの貯蔵量を必要としてしまう。したがって推進燃料の節約は相乗効果がある。結果として生じる重量の増加は同様に着陸のための推力を大きくする必要を招き、そしてそれはより大きく、より重いエンジンを意味するのである。[5]

地球の軌道上で月に向かう宇宙船が集合する方法は明確には定義されていなかった。そして直径15mあるノヴァロケットの1段目を建設することは1962年時点でのニューオリンズにある、直径10mのサターンVの1段目をつくるには十分だったミシュー組立工場におけるアメリカの製造の限界を超えていた。これらのことや、そのほかの理由でノヴァロケットもしくはサターン8ロケットは、おそらく1970年の着陸目標に間に合うように製造することができないのではないかと議論されていた。

月着陸船のデザインによって宇宙飛行士たちはおよそ地表から4.6mの位置にある窓から自分たちが着陸する場所をはっきり見ることができた。それに対して司令船の中からでは、少なくとも地表から12mから15mの位置からテレビのスクリーンを通してしか着陸する場所を見ることができなかった。

月着陸船を2人乗りの乗り物として開発することが追加のメリットを与えた。それは電力供給や生命維持装置、そして、駆動装置といった重要システムに冗長性を与えることであり、月着陸船を宇宙飛行士たちを生き延びさせ、重大な司令・機械船の故障が起きても安全に地球に帰ってこれるための救命艇として使用することも可能にするものだった。これは緊急事態対策として構想されたが、月着陸船の仕様の一部として採用されなかった。結局、この機能は1970年に、アポロ13号計画において酸素タンクの事故という重大な事態が発生したときに非常に重要な機能だと証明された。[要出典]

リスクと欠点

月軌道ランデブーはランデブーが地球軌道においてさえ実行されたことがなかったので1962年には危険だと考えられていた。もし月着陸船が司令・機械船に到達できなかったとしたら月着陸船に乗っている2人の宇宙飛行士は基本的に地球に戻る手段も大気圏再突入で生き残る手段もないのだ。この心配は1965年と1966年に6つのジェミニ計画においてレーダーと、搭載されたコンピューターの助力によってランデブーが首尾よく実演されたため、根拠のないものだと証明された。ランデブーは同様にアポロ計画においても8回問題なく行われた。

月軌道ランデブーの支持

月軌道ランデブーを説明するジョン・フーボルト

ジョン・フーボルトは月軌道ランデブーの利点を主張した。ルナ・ミッション・ステアリング・グループのメンバーとしてフーボルトはランデブーの様々な技術的側面を1959年から研究していた。フーボルトはラングレー研究所で同様の主張をしていた数名と同じように、月軌道ランデブーは10年以内に月に行くのに最も実現可能な方法というよりも、それが唯一の方法であることを確信した。フーボルトは様々な機会にこの発見をNASAに報告したが、彼がプレゼンテーションをした内部の特別委員会は専断的に確立された基本原則に従っているのだと強く感じた。フーボルトによればこれらの基本原則はNASAの月の任務についての考えを縛り、そのせいで、月軌道ランデブーが公平に考慮される前に除外されていた。

1961年の11月にフーボルトは正規の手順を飛ばして9ページの長さの個人的な手紙を副長官であるロバート・シーマンズに直接書くという大胆な手段をとった。「これはだれも耳を傾けない意見かもしれない。しかし、我々は月に行きたいのか、行きたくないのか?どうして非常に重いノヴァによる計画は簡単に受け入れられて、どうしてランデブーを用いるとはいえ、それに比べてより壮大な点などない計画が追放され、受け身をとらなければならないのか?私はあなたにこのような方法で接触するのが、いくらか正統でないことを十分に理解している。しかし、この論点は我々全員が一般的でない手段を受け入れなければならないほど重要なのだ。」と主張して、フーボルトは月軌道ランデブーの除外に抗議した。[6][7]

シーマンズがフーボルトの異例の手紙に返事をするのに2週間かかった。シーマンズは「もし適任のスタッフたちが限定的なガイドラインに過度に制限されるのならば、我々の組織や国家にとっては危険なことだ。」ということに同意した。彼はフーボルトにNASAは将来、今までよりももっと月軌道ランデブーに注意を払うことを保証した。

数か月のうちに、NASAは実際に月軌道ランデブーに注目し、そして内外の機関が驚いたことに、ダークホース的候補であった月軌道ランデブーは瞬く間に第一候補になった。いくつかの要因がこの問題に賛成する方向を決定付けた。一つ目に巨大なノヴァロケットを建設するのに必要な時間と資金から、直接降下方式への増大する失望が存在していたことがあった。二つ目に地球軌道ランデブーでさえ、必要とする比較的大きな宇宙船が月に軟着陸するほど巧みな方向転換ができるかという技術的な不安が増加していたことである。

月軌道ランデブーに賛成して主張を撤回した最初の主要なグループはロバート・ギルラスのグループであり、その時はまだラングレーにあったグループだったが、すぐにヒューストンに移った。理解を示した二つ目のグループはハンツビルにあるマーシャル宇宙飛行センターフォン・ブラウンのチームだった。もともと月軌道ランデブーを支持していたラングレー研究所の面々に加えて、これら2つの強力なグループの意見の変化したことで、NASAの本部の主要な職員、特に長官であり、直接降下を支持していた、ジェームス・ウェッブは月軌道ランデブーが1969年までに月に着陸できる唯一の方法だと考えることとなった。NASAの中から集まった月軌道ランデブーの重要な支持者たちとともに、ウェッブは1962年の7月に月軌道ランデブーを認めた。[8]その決定は、1962年の7月11日に記者会見で公式に発表された。[9]ケネディ大統領の科学アドバイザーであるジェローム・ウィーズナーは頑なに月軌道ランデブーに反対したままだった。[10]

脚注

参考文献

パブリックドメイン この記事にはパブリックドメインである、アメリカ合衆国連邦政府のウェブサイトもしくは文書本文を含む。

引用

関連項目

外部リンク