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   寛文十一年辛亥年正月
   寛文十一年辛亥年正月
上記の家訓の条文は田中玄宰が建てさせた日新館の教えにに踏襲されている。
上記の家訓の条文は田中玄宰が建てさせた日新館の教えにに踏襲されている。
正玄は保科氏累代、譜代の臣ではない。寛永5年(1613)15才の時、正光公に召し出され、(おそらくは妻=御書院番、大久保新蔵の娘の縁であろうか)それとも断言は出来ないが、祖父以来の一族の金山開発技術者としての才能が認められていたのかも知れない。正玄は正之公がお部屋住みの時に仕えた。寛文9年の夏、正之公と一緒に将軍に拝謁し、太刀、馬代、時服(時節の衣服)を献上した。正玄には世子がなく、甥子があったが世継ぎとはしなかった。正之公は世継ぎを立てるように強く命じたが、これを固辞した。その理由は「私は今まで何の功労も無いのに厚禄を受けており、これを子孫に伝うることは私の真意ではない」と言う。正之はこれを了承したが、正玄が歿するに及んで、その忠義の心情を思い、一日素膳を取り、その喪に服し、正玄に嗣子がないのを憐れみ正玄の弟玄次の子、甥の玄忠にその禄を領ち与えた。後に1500石を賜った。正玄は正之公の信頼は殊更に厚く、その墓所は正之を祭る[[土津神社]]と同じく見弥山にある。[[1918年]]([[大正]]7年)[[従五位]]に叙されている。嫡子無く没したため、正之は甥の玄忠に田中家を相続させた。玄忠、玄督、玄顕、玄興と続いて会津藩中興の祖と言われた玄宰に至る。幕末には土佐玄清、一門には第二次共産党委員長で、のちに転向し政治活動家となり、昭和天皇のインテリジェンス、 国際的フィクサーとなった田中清玄がいる。
正玄は保科氏累代、譜代の臣ではない。寛永5年(1613)15才の時、正光公に召し出され、(おそらくは妻=御書院番、大久保新蔵の娘の縁であろうか)それとも断言は出来ないが、祖父以来の一族の金山開発技術者としての才能が認められていたのかも知れない。正玄は正之公がお部屋住みの時に仕えた。寛文9年の夏、正之公と一緒に将軍に拝謁し、太刀、馬代、時服(時節の衣服)を献上した。正玄には世子がなく、甥子があったが世継ぎとはしなかった。正之公は世継ぎを立てるように強く命じたが、これを固辞した。その理由は「私は今まで何の功労も無いのに厚禄を受けており、これを子孫に伝うることは私の真意ではない」と言う。正之はこれを了承したが、正玄が歿するに及んで、その忠義の心情を思い、一日素膳を取り、その喪に服し、正玄に嗣子がないのを憐れみ正玄の弟玄次の子、甥の玄忠にその禄を領ち与えた。後に1500石を賜った。正玄は正之公の信頼は殊更に厚く、その墓所は正之を祭る[[土津神社]]と同じく見弥山にある。[[1918年]]([[大正]]7年)[[従五位]]に叙されている。嫡子無く没したため、正之は甥の玄忠に田中家を相続させた。玄忠、玄督、玄顕、玄興と続いて会津藩中興の祖と言われた玄宰に至る。幕末には土佐玄清、一門には第二次共産党委員長で、のちに転向し政治活動家となり、昭和天皇のインテリジェンス、 国際的フィクサーとなった右翼の巨魁、田中清玄がいる。





2015年9月7日 (月) 06:10時点における版

田中 正玄(たなか まさはる)会津藩田中家の祖、慶長18年6月18日1613年8月4日) - 寛文12年5月28日1672年6月23日))は、江戸時代会津藩大老。会津三家、会津九家、会津田中家初代。通称は三郎兵衛。妻は広儀御書院番大久保新蔵の娘。祖父は田中冶右衛門玄儀(淡路守直茂)父は佐渡金山奉行田中清右衛門正長(玄重・清六)母は野本氏の娘。正玄は佐渡加茂郡沢根で生まれ、幼名を右京、のち三郎兵衛(さぶろうひょうえ)と号した。寛永5年正之公に仕える。正玄は正之公の2歳年下で、正之公の絶大の信頼を得、死ぬまで君臣・水魚の交わりをなし、元服の際に正之公の「葦」(いみな)の正をいただいて正玄と名乗った。寛永9年より寛文6年まで34年間家老を勤め、寛文7年城代に昇格、寛文12年年まで御城代を務め、兄3代将軍家光の遺言によりまだ幼い4代将軍家綱の後見人として幕閣にあって、殆ど領地に帰ることのなかった主君正之公の意を体し、君臣一体となって会津に善政を布き会津藩の基礎を磐石なるものとした。

生涯

田中正玄の家系は、遠祖は第62代村上天皇の子である具平親王、孫師房(村上源氏の祖)伊勢国主・名門北畠氏の一門田丸氏の一族で祖父田中玄儀の父田丸具忠はかねてより武田家と約束であったので、伊勢より海路にて甲斐に渡り甲斐国主・武田信玄に祖父玄儀は仕えて田丸姓から改姓し田中氏と称し、元亀3年より旗指し紋を「四ツ割紋」家紋を八段の鞠挟みから「違い角丸紋」に改め、武田一族の葛山十郎信貞の妹を娶り侍大将1800貫となり、武田方諏訪五十騎の一人となった。また田中淡路守玄儀(長篠の戦で討ち死)は長野県岡谷市の小阪城に城主として一時期居城していた。長久手の戦いで鉄火弾より戦死した。父、清右衛門正長(玄重、清六)は織田信長の武田残党狩りが厳しくなった時、玄儀の弟田丸直昌は豊臣秀吉に内諾を得て甥である正長を救い出して自分の養嗣子として田丸城内に匿い、後に紀州熊野神社に移したが、その後秀吉は小姓に取り立て元服後、佐渡金山奉行に任命した。慶長8年(1603)佐渡で百姓一揆がおき、正長は無実であったが連座して奉行職を罷免された。正長は徳川方より任官の話を断り、故郷甲斐に戻り草庵に閑居、のち熊野神社の修験者となり各地を放浪、寛永10年(1633)8月23日姉の嫁ぎ先高坂邸で1泊、草庵に帰る途中、峠の山路で急死、あとで正長の妻が遺骨を会津に移葬、 正玄は寛永4年(1627年保科正光に仕え、その養子の幸松(保科正之)付きとなり、正之の家督後、その偏諱を受けて正玄と名乗り家老となる(禄500石)。寛永13年(1636年出羽山形寛永20年(1643年陸奥会津への転封に従い、最終的には禄高は4000石となり与力料も含め5500石まで加増され大身であった。寛文6年(1666年)会津藩大老職となり江戸幕府大政参与として幕政に関わる正之に代わって藩政を取り仕切った。幕府大老土井利勝は当時の天下の名家老として、尾張藩成瀬隼人紀州藩安藤帯刀と共に正玄の名を挙げ、正玄を3人の中で最も優れていると評した。また儒者山崎闇斎は次の如く言った。「田中三郎兵衛殿は、学問之無く候へ共、大量の仁に候。好ましき気象に候」と云った。名宰相として諸国に聞こえたといわれている。正玄は寛文12年(1672)5月28日病没60歳、正玄の死を知らされた正之は非常に嘆かれて「正玄は我に仕うること46年、いまだ1日も私意を以って公事を議した事はなかった」と云われ、嗣子正経に次のよう諭された。「自分が死んでもただ悲しむのみであるが正玄の死は家の大患である。汝にとってもこれ以上の不幸はない。正玄の定めた制度は改めるな」と言われた。翌29日側役遠藤市郎右衛門を使者として香典を持たせて見舞いに遣わされ、磐梯山東南山麓見祢山の一角を正玄の墓地として下賜され、その上、家老友松勘十郎、神官服部安休らに命じて神式に則り葬送の儀式を行い、6月6日に与えられた見祢山墓地に埋葬した。正玄の墓は土津神社より200メートルほど離れた東南方の下にあり、また信彦霊社とおくりなをされ土津神社境内に御末社として奉祀されている。かくして正之は死後も股肱の臣、正玄と共に磐梯山南麓の見祢山の高所より領地会津一円を見下され、相共に鎮護されようと思われたものであった。その君臣の強い絆が死後三百数十年後の現在も脈々ととして繋がっているものと思われる。正玄は生前に大叔父田丸直昌(玄恵法師)が慶長3年佐渡金山奉行で趣く際、正長に授けた家訓「正者必滅」「還土消散」五欲邪因」「爾守五倫」「自律為範」「宜無一物」これを範として田中の末孫に田中正玄家訓13条(寛文11年1月、玄恵法師家訓オ家律ト改メ此ノ家人訓オ新タニ釈シ子孫ニ与ウ、今日ニ伝エラル) 一、敬神尊祖之事 二、目上の人に無礼な振る舞いするな 三、嘘ごとを言うう事ならぬ 四、卑怯な振る舞いするな 五、弱いものをいじめるな 六、ならぬことはならぬ 七、人に頼らず己に頼れ 八、衣食住は己の力に合わせよ 九、人に媚びへつらうな 十、人を非難する前に先ず己を省みよ 十一、人に陥しいれられても人を陥し入れるな 十二、恩人には何かを報いることを忘れるな 十三、人に疑われるような事をするな   右条々に違い背き致す家人は、縁切り勘当の処置を申し付けるもの也                             三朗兵衛正玄    寛文十一年辛亥年正月 上記の家訓の条文は田中玄宰が建てさせた日新館の教えにに踏襲されている。 正玄は保科氏累代、譜代の臣ではない。寛永5年(1613)15才の時、正光公に召し出され、(おそらくは妻=御書院番、大久保新蔵の娘の縁であろうか)それとも断言は出来ないが、祖父以来の一族の金山開発技術者としての才能が認められていたのかも知れない。正玄は正之公がお部屋住みの時に仕えた。寛文9年の夏、正之公と一緒に将軍に拝謁し、太刀、馬代、時服(時節の衣服)を献上した。正玄には世子がなく、甥子があったが世継ぎとはしなかった。正之公は世継ぎを立てるように強く命じたが、これを固辞した。その理由は「私は今まで何の功労も無いのに厚禄を受けており、これを子孫に伝うることは私の真意ではない」と言う。正之はこれを了承したが、正玄が歿するに及んで、その忠義の心情を思い、一日素膳を取り、その喪に服し、正玄に嗣子がないのを憐れみ正玄の弟玄次の子、甥の玄忠にその禄を領ち与えた。後に1500石を賜った。正玄は正之公の信頼は殊更に厚く、その墓所は正之を祭る土津神社と同じく見弥山にある。1918年大正7年)従五位に叙されている。嫡子無く没したため、正之は甥の玄忠に田中家を相続させた。玄忠、玄督、玄顕、玄興と続いて会津藩中興の祖と言われた玄宰に至る。幕末には土佐玄清、一門には第二次共産党委員長で、のちに転向し政治活動家となり、昭和天皇のインテリジェンス、 国際的フィクサーとなった右翼の巨魁、田中清玄がいる。


           


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関連項目